第6話

 汀怜奈が滞在中お世話になっているフランス人のペンション(pension/貸し部屋)に戻った時も、そんなバンナの声が耳の底に残っていた。


「汀怜奈、あんた何処行ってたの?」


 汀怜奈が帰宅した音を聞きつけて、彼女のクラスメイトがノックもせずに部屋に飛び込んできた。彼女は汀怜奈と同じくパリのエコール・ノルマルに留学している日本人のクラスメイトである。


「少しばかり所用がございまして…」

「所用って何よ?レッスンが終わるまでロビーで汀怜奈を待ってたのに…。ちょっと冷たいんじゃない」


 かといって、誘ったところでクラスメイトがベルシー体育館のK―1グランプリの観戦に付き合ってもらえるなどと到底思えないのだが…。


「…ごめんあそばせ」

「ところで、あなたに手紙が届いてるわよ」

「はい?」

「誰からだと思う?」


 クラスメイトは手紙を後ろ手に持っているようだが、もったいぶって汀怜奈に渡さない。


「手紙は本来の宛先の主に、さっさと渡していただいた方が身のためだと思いますわ」


 先程から脳裏に焼きついて離れないバンナのハイキックを、そのままお前に見舞わすぞと身構えた汀怜奈に、さすがのクラスメイトもいくらかの恐怖を憶えたようだ。


「わかったわよ」


 出された手紙を引っ手繰るように受け取った汀怜奈は、早速差出人を確認した。


「ねえ、それって確か、ホアキン・ロドリーゴさんのお嬢さんよね」


 クラスメイトの問いかけにも、返事することなく汀怜奈は手紙に書かれている名前を見つめ上喜していた。


 ホアキン・ロドリーゴ・ビドレ(Joaquín Rodrigo Vidre)は、スペインを代表する偉大な作曲家である。3歳の頃に悪性ジフテリアにかかり失明したにもかかわらず、芸術家として大成した。数々の作品を通じてクラシック・ギターの普及に功があったとされ、とりわけ《アランフエス協奏曲》はスペイン近代音楽ならびにギター協奏曲の嚆矢とみなされている。面白いことに本人はピアニストであり、ギターは演奏しなかった。差出人は確かにそのロドリーゴ氏の娘さんからだった。

 汀怜奈は、だいぶ前にロドリーゴ氏に手紙を出した。ギター演奏の研鑽のために、パリのエコール・ノルマルに留学しアルベルト・ポンセ氏に師事してはや3年。厳しいレッスンを経て、間もなく卒業するのだが、卒業して帰国する前に尊敬してやまないロドリーゴ氏に一度は会ってみたい。そして彼に自分の演奏を聞いてもらいたい。汀怜奈はそんな想いを手紙に綴り、日本でリリースした自分のCDを同封して、スペインに住むロドリーゴ氏に送っていたのだ。


 汀怜奈は震える手で封を開けた。


「ねえ、汀怜奈はスペイン語もわかるの?」

「いえ…でも手紙は丁寧なフランス語で書いてあります」

「ねえ、なんて書いてあるの?」


 手紙には、父ホアキンが、セニョリータ・ムラセを自宅で待っていると書いてある。汀怜奈は、本日2度目の感動に、目元を潤ませた。

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