第5話

 さて泰滋とミチエが同じ月を見上げていた時から52年後。


 二組目のカップルが見ていたのは、2002年5月 フランス・パリのベルシー体育館で行われているK-1グランプリ バンナ対ハント戦である。


 21歳の汀怜奈は、ギターケースを抱きながらリングから遠い安い席で大声を張り上げていた。人相の悪いフランスの大男どもに囲まれて、うら若き東洋の淑女がひとり。あまりにも浮いている情景ではあったが、それでも汀怜奈は周囲に構わず、目の前のリングで繰り広げられている壮絶な闘いに集中していた。


 2001年日本・福岡大会でのGPファイナル。彗星のごとく現れたサモアの怪人 マーク・ハント(サモア系ニュージーランド人)に、K-1の番長 ジェロム・レ・バンナ(フランス人)がまさかのKO負けを喫した。そのハントを翌年地元パリに向かえ挑んだ世紀のリベンジマッチである。

 実はハントはプロになって一度もダウンしたことが無い。そんなタフな心身に極めつけのハードパンチがある。そんなハントに対抗してバンナがとった対抗策は、ハードパンチャーで名を馳せたバンナからは想像がつかない、キック修行だった。


 誰もが予想したように、リングでは第1ラウンドから壮絶な打ち合いが展開される中、1年かけたその成果は2ラウンド残りわずか9秒のところで発揮される。後ろに下がったハントの首筋にバンナの左ハイキックが見事に命中したのだ。ハントはロープに倒れ込み、その反動でマットに崩れ落ちる。ハントはなんとか立ち上がるが、テンカウントをコールされている最中に第2ラウンド終了のゴングを聞いた。

 パリのベルシー体育館の席を隙間もなく埋め尽くす観客が騒然となる。判官びいきの日本人らしく、汀怜奈も一度敗北を喫して分の悪いバンナに金切り声をあげて声援を送った。

 そして第3ラウンド開始直前、ハントのセコンドがタオルを投入。右目の奥の骨を骨折している疑いがあったため、驚異的なタフネスを誇るハントが闘う意思を見せても、セコンドがタオルを投げたのは当然といえる。去年と違うバンナが、このリベンジ戦での勝利をもぎ取ったのだ。


 観衆の興奮と喜びはピークに達した。汀怜奈などは感動のあまり目に涙が浮かんでいて声も出ない。汀怜奈の隣にいたフランス野郎が、興奮のあまり彼女を肩に担ぐと場内を練り歩き始めた。汀怜奈もギターを後生大事に抱えながらも、フランス野郎の肩の上で大観衆とともに涙声でバンナの勝利を祝福する。

 リベンジに成功したバンナは、コーナーポストに登って大喜び。観衆の声にかき消されて、コーナーポストで叫びあげる声が聞こえない。しかし、汀怜奈の耳に聞こえるはずもないバンナの声がはっきりと聞こえるような気がした。


『俺だ。今日、勝ったのは俺なんだ』

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