不安な夜

renovo

第1話

 



俺の家族は四人家族だ。父と母と姉と俺がいた。父親の仕事は公務員、母親は専業主婦、姉はフリーター、俺は大学生だ。

 とても静かな家族だった。父は趣味が仕事といっていいほど趣味を持たない。大学から帰ってきた俺が目にするのは新聞を眺める父の姿だ。

 俺の家にはテレビがあるが、母親しかまともに見ない。母親は専業主婦であることに満足しているように見え、喫茶店でパートもしていた。休日には誰かしら友達を誘ってランチに出かけることもあった。

 姉は大学を中退した後、飲食店で午後から夜まで働いていた。俺がまだ高校生だった時、当時地方の国立大学にいた姉が実家に帰ってきた。しばらく部屋に引きこもった後、大学を辞めた。

 俺は高校を卒業した後、一年浪人して地元の国立大学に通っていた。どこかそれが自分の自尊心になっている。

 大学で俺は文学を専攻していた。将来は出版社に勤めるか、作家になるつもりだ。俺には不思議なくらい自尊心があったので、それくらいのことはこの世界で実現できると思っている。

 家族の中で母親を除いて、父親、姉、俺は感情が薄く虚無を抱え込み、常に不安を感じやすい性質を持っていた。


 リビングで、四人で夕食をとったあと、父と母は寝室へと向かった。俺と姉はリビングでニュースを見ていた。ニュース以外お互い見る気にもならなかったと思う。

「最近は何やってるの?」 

 姉が疲れたように俺に問いかける。その表情はどこかこわばっていた。

「部屋で小説を書いてるよ」と俺は言った。

「私にもそういう時期があったわ」

「へえ」

 しばらくの沈黙。俺達はキャッチボールでもしているみたいに互いが傷つかないように慎重に会話していた。

 そして二人とも若さから、死について考えを巡らせていた。死という単語が脳内を駆け巡った時、俺は死に関することを口にする。

「最近は死にたいと思う?」

「私は別にいつ死んでもいいから」

 俺にはその理由が痛いほどわかるような気がした。なぜなら俺達は似ていたからだ。

「俺は世の中で実現したいことがあるんだ」

「私は生きていくことに精一杯なの。あんたは恵まれているのよ」

 姉は疲れたようにソファにうなだれる。

「寝たら?」

 俺は声をかける。

「眠れないからこうしているんじゃない」

 少し神経に触ったように姉は言った。俺は姉といるとどこか憂鬱に感じた。それが姉の心だからかどうかはわからない。

 両親はもしかしたらもう寝る準備をしているのかもしれない。二人とも寝るのが凄く早く、それで朝の五時とかに目覚める。父親の影響かもしれないが、なんだか簡素な家族だと思った。そしてとても穏やかな家族だった。

 父親はきっと最低限の物しか欲さないだろう。母親がどういう願望を抱いているかは知らないが、いつも母親に問いただすと、子供を産んだ時点で自分のことはどうでもよくなったと言っていた。子供のいない若い俺にはその意味がわからなかった。


 深夜に俺は一人で街を歩いた。姉はおそらく眠りについている。夜に街を歩くのが、俺は好きだった。

 空を見上げれば星が輝く。透き通った大気が体を包み込む。一年の中でもっとも心地がいい秋の風を感じる。

 公園まで歩いて行き、中心まで行って芝生の上に寝転がる。それが唯一俺に与えられた自由な気がした。

 いったい誰がこの世界を作り出したのだろう。今の俺にはずいぶん窮屈に思える。こうやって芝生の上で寝転がっているのも他人が見たら変に思われるだろう。

 俺は空を見上げて、月に手を伸ばす。こんなちっぽけな人間が、生物が、宇宙に思いを馳せる。俺はまるで自分が世界の中心のいるように思っていた。

 本当は、世界は広い。俺の知らないことは山ほどある。

偉大になりたい。テレビの中に出てくるような人間になりたい。

 こんな俺はどうかしているかもしれない。俺は明らかにその性質で母親にもおそらく姉にも見下されている。

 見下されているのなら上に上がりたくなるからだろうか。

 いつからだろう。俺の性質が始まったのは。俺は何度も過去を変えたいと思った。もしこんな病的な自分ではなかったら、どう生きていたのだろう。

 姉は死んだように生きている。父親はどこか楽観的だ。公務員としてそれなりの地位にいるからだろうか。母親が何を考えているのか今の俺には見当がつかない。


 家に帰ると母親がリビングにいた。

「大丈夫? 夜、遅くに出かけて」

「大丈夫だよ」

 なんとなく母親と一緒にいると安心する。家族の中で唯一まともな人間な気がした。

「紅茶飲む?」

「うん」

 母親は二人分の紅茶を深夜に沸かした。

「今は無理しなくていいのよ」

「大丈夫だって」

 実は俺は体調不良ということで大学を休学していたのだ。

「姉ちゃんは寝たの?」

「寝たんじゃない? あの子もあの子で頑張ってるから」

「ふーん」

 母親はなんでもなさそうに生きている。僕はとある小説家の主人公みたいに母親を欺くことだってできるかもしれないが、それをしなかった。

 できる限り本音を話そうとしていた。

「俺は作家になりたい。だから大学を休学したんだ。今は週に一回小説のスクールに通っているし、この間は小説の一次選考を通過した」

「きっとあんたは才能があると思うわ。今はゆっくりしていればいいのよ」

 母親はそう言って、微笑む。ずいぶんと平和な世界だ。テレビで戦争のニュースを見るたびに俺には理由がわからない。

「じゃあ、お母さんはそろそろ寝るわね」

 母親はそう言ってリビングに降りていった。


 俺はリビングでただ紅茶を飲んでいた。いい匂いの紅茶だった。そろそろ寝ようかと思った時、姉が部屋から出て階段を降りてきた。

「なんだか眠れないの」

 姉は唐突にそう言った。

「そういう時はあるよ」

「私の友達がね、昔自殺したの。あんたに言ったっけ?」

「知らなかったな」

「私は彼女から高校で初めて話しかけられたの。それで友達になった。でもどうして彼女が自殺したのか今でもわからない」

「そうなんだ」

「ねえ、あんたが知らないことも私は知っているのよ。あんたって他人を見下していない?」

「確かにそういうところはあるよ」

「そりゃあ見てればわかるわ。あんたはただの人よ」

「だから作家になって偉大になりたいんだよ」

「本当にそうなるといいわね。私には到底、無理だからさ。今の生活に満足するしかないの」

「そういえば姉ちゃんは彼氏いるの?」

 俺はどうでもいいことを聞いた。

「そりゃあ、いるわ。あんたとは違うのよ」

「そう」

 なんだか俺には姉が神経過敏になっているような気がした。常に逃げ場を探している。そんな気がした。そしてこの俺自身も常にどこかに逃げ場を探しているのだ。そして努力することが俺にとって逃げ道だった。

「あんたが他人より優れていようとするのがなんだか気にくわないわ」

「それはどう意味さ」

「あんたは恵まれているのよ。もう一度寝てくるわ」

 姉はそう言って階段を上がって行った。

 俺は部屋に行き、布団の中で寝ようとする。父親と母親がいなかったらたぶん何もできない。すでに自立した生活を送っているやつなんていくらでもいた。彼らにとってはそれが当たり前なのだ。

 寝る前に考えることはとても変わっている。世界がぐるぐると回転し、俺は現実と非現実の区別がつかなくなる。いったい、何が本当か。何が正しいのか。区別をなくしていく。自分の中に別の誰かがいると想定し、その誰かと会話をする。その誰かは時に俺を攻撃したり、おどけてみせながら、俺を苦しめたり、楽しませる。

 そんな風な妄想をしながら、俺は少しでも役に立つ人生の法則を探し求めていた。文学部の講義で哲学を教えてもらったことがあるので考えることが好きだった。結局、俺は寝る寸前に現実と夢の狭間があるのかないのかと考えながら眠りについた。


 目覚めると、ちょうど午後になった時間だ。家には姉と母親しかいない。リビングでは姉と母親が何かについて気さくに話している。母親は社交的な性格なので、姉と話すことをとても楽しんでいるように見える。

 俺が小学生の頃には友達の親と友達を呼んで、俺の誕生日会をやったくらいだ。あの頃は純粋に俺もそれを楽しんでいた。

 頭の中であの頃はいつも仮想の自分に浸っていた。本当は内向的で他人に話しかけに行くことができない自分がいた。

俺がリビングに降りていくと母親はパートに出かけた。近所のカフェでウェイトレスをやっている。

 自分だけアルバイトもせずにただ家の中をさまよっていた。唯一行くところは近所の図書館だ。

 図書館に行って本を眺め、いったいどれほどの苦労がここにはあったのだろうとふいに冷めた目で本の羅列を見る。

 俺は図書館で哲学書の置いてあるところに行き、ぱらぱらとページをめくった。周囲の雑音がなんだか自分と関係あるような気がしてしまう。

 俺は本当に一人で生きているみたいだった。別に本の中に浸ることもできない。ただ家族のことを、特に姉のことを気にかけていた。

 そしていっそのことなら死んだ方がいいのではないかという考えに陥る。実際殺されるのはとても嫌で恐ろしいのだけれど。

 姉はそろそろバイトに行っているはずだ。誰かと結婚するのかしないのかとかいろいろなことを考えては打ち消していく。

 いったいこの世界には何があるのだろう。そもそも何を指針にして生きればいいのか。欲がないわけじゃない。

 哲学の本を読んでいると際限なく思考が脳内を駆け巡る。これは俺だけだろうか。なんだか思考の量が多すぎる気がする。

 近くのファミレスに行って夜ご飯を食べた後、俺は家に帰った。リビングには父親がいた。

「体調は大丈夫か?」

 父親はいつも楽観的に見える。

「うん」

 俺はそう答えた。

 二人でドキュメンタリー番組を見ていた。父親は何も話さない。ただおそらく俺のことを心配しているようだった。

 俺は五十過ぎの父親が何を考えているのかやはり見当がつかなかった。それでいつも俺のことをただ見守っているようだった。

「小説を習いに行ってるんだけどさ、その講師が有名人なんだよ。俺はその人とカフェで話しをした」

「そりゃあ、よかったな。大学に復学するのは来年でもいいと思うよ。とにかく今は休んでいた方がいい」

「来年か。就職するのはずいぶんと先になりそうだな」

「お前は若いんだ。あせらなくていいと思う」

 会話は終わり、視線はテレビに向かう。いったいどんな気持ちでテレビを見ているのか見当もつかない。

 父親が以前、語ったのは若い頃はもっと寡黙だったということだけだ。傷つくことを恐れていたとまだ高校生だった俺に語ったのを覚えている。


 翌日の夜、俺は深夜に姉とリビングで話をしていた。

「私には今までたくさん彼氏がいたのよ」

 姉はそう言った。

「へえー。何人くらい?」

 俺はそう聞いた。

「十人以上いたわ」

 姉は悲し気につぶやく。俺には何が悲しいのかわからなかった。


 その日、姉は部屋の中で突然、首を吊って自殺した。俺にはなんとなく理由がわかるような気がした。

 両親は騒然とし、すぐに救急車が呼ばれた。姉はすでに死んでいた。


 姉の葬儀を行われ、俺は棺の中の姉を目にした。なんだかやけに美しい気がした。

 俺の感情は突き動かされなかった。その場の雰囲気に、特に母親が激しく泣いたので、俺も涙をこぼしたが、心は乾いたままだった。

 俺はそんな時ですら別のことを考えていた。

「大変なことになったな」

 父親はまるで他人が死んだようにそう口にした。

「本当に大変だね」

 俺もそういう気分だった。なんだかこの時、父親の心の底を見た気がした。

 父親の心はあくまで優しさに満ちていた。そして目には涙がにじんでいる。

 俺は姉が死んだのに、何も感じない。いったい人間かと俺は思った。


 部屋には遺書が残されていた。丁寧な字が紙に書き綴られている。俺はそれを読んだ。遺書にはこう書かれていた。


 死んでごめんなさい。私はもう疲れてしまいました。私の人生は幸福ではありませんでした。そしてこの先もきっとそうだと信じています。

 そこで、合理方な考えかもしれませんが、私は自ら死ぬことにしました。そこにはロマンも何もありません。

 ただ死ぬということにまったく抵抗のない二十代でした。やはり憂鬱とは辛いものですね。そして私は全て満たされました。

 弟には伝えたいことは、あなたが作家を目指しているのは凄いいいことだと思います。きっと私より才能に満ちているのでしょう。頑張って作家になってください。

 お母さん。私は病気でした。そして人生から逃避しました。

 お父さん。どうして私を産んだんですか。私はお父さんと弟と同じ性質を共有していたはずです。私には私を産んだ理由がわからないままでした。

 本音を書けば、私は死ななければならないのです。そして私自身と何度も会話をし続けました。もう一人は私に執拗に死ぬように勧めます。やはり美しい姿のまま死ぬのが正しいのでしょう。

 もう一人の私は死んだら楽になれると教えてくれました。力を抜いてみると、もう一人の私が勝手に文字を書き始めます。

 私は今、死ぬ前に笑っています。誰も助けてくれない。一人で生きるしかない。私はそれだけは固く信じています。


 家族で遺書を読んだ。父親は確かめるように何度も読んでいた。俺には遺書の内容が痛いほどわかった。やはり俺もおかしいのだろう。

 誰かからお前はおかしいと言われたことだってある。家族は沈黙のままだ。俺がいる時、両親は話さないことが多い。

 重要なことはいつも両親二人で話し合った。だから俺はあきらめて、両親の口から

発せられる表面的な言葉を飲み込んで部屋に戻った。

 やけに寂しい夜だ。俺は思わず外に出た。秋の風が吹いている。結局俺も一人なんだなとつくづく思う。

 困ったらきっと両親がどうにかしてくれる。俺はそう思った。姉は死に、俺は未だに夢を追いかける。

 人間とは何かと考える。死んだ姉を思い出した時、本当にただのヒトなんだと思ってしまった。

 宗教的概念が今の人間像を作り出したとどこかの本で読んだことがあるが、まさにそうだと思うのだ。

 本当に人間はただの動物でしかない。そしてその中で秩序を乱さないように生きている。

 空には巨大な雲が流れる。俺は死んだ姉のことをすっかり忘れていた。ただ俺はこんな時でも権威を渇望していた。

無感情な俺の瞳からは涙がこぼれる。それはロマンスからだ。いつまでもロマンスを求めている。死んだ姉の残像が脳内を駆け巡る。

 本当に死んでしまったんだなと思う。やはり俺は泣き続けていた。夜の公園には月が頭上に輝く。

 死んだ姉があらゆる概念として脳内に散らばる。それらは一つになっていたものが徐々に分裂して区分されていく。

 わずかに残る哀しみから俺の涙は止まらない。まるで世界が崩壊したようだ。


 小学生の頃、中学生の姉と両親で海に遊びに行った。世界は輝いていた。優しい父親と魅力的な母親と好きだった姉がいた。

 なぜだろう。あの頃は美しい光景に目を傾ける暇がないほど、日々が楽しかった。世界はほんのりと輝いて見えた。

 姉と無邪気に俺は遊んでいた。帰りに見たのは海の景色だ。海は暗い日差しの中で輝いていた。夕日が沈んだ後の光景だ。


 今見上げるのは何もない空だ。そこには何もない。あらゆる感情は消えていくことを知った。そして、今でも相変わらず人を求め続けている。

 死んだ姉のいた世界と今いる世界を比較して、今の方が爽快なのはなぜだろう。

 家に帰るとリビングに新聞を読んでいる父親がいた。父親の真剣な眼差しを初めて見た。そんな表情は今まで見たことがなかった。

「お父さん」と俺は声をかけた。

「何?」

 父親は新聞から顔を上げる。

「お姉ちゃん。死んじゃったね」と俺は言った。

「本当に不幸だと思う」

「それだけ?」

「とても悲しい」

 俺は何も言わずに自分の部屋に行った。姉の部屋は綺麗に片付いている。母親はいったいどんな気持ちでこの部屋を掃除したのだろう。ただそのことを考えるだけで俺は涙がにじんだ。

 震えるような気持ちだったのだろうか。残念なことに今の俺には理解できなかった。


 翌日、昼前に起きるとリビングに母親がいた。その目はただ茫然としている。俺はかける言葉も見つからず、椅子に座った。

「お母さん」

「何?」

 作り笑顔で母親が明るく返事をする。

「今日からアルバイトをしようと思うんだ」

 俺はやけに取り繕ってそう言った。姉のことは口にできなかった。

「無理しなくていいのよ」

 母親は少し強めの語尾でそう言った。その言葉に俺は少し胸が震える。

「簡単なバイトだよ。一日で終わるからさ」

「そうね。それくらいならいいかもしれないわ」

 俺は母親が用意してくれた朝食を食べる。

「あのさ、姉ちゃんのことだけど」

 俺はふいに母親に問いただした。

「どうして、あの子が死ななきゃならないのよ」

 母親は急に嗚咽まじりに泣き始めた。俺はそんな母親の姿を直視できなかった。

「あんたもお父さんもずいぶんと冷たいじゃない」

 母親はそう言った。

 俺は確かにと思った。どこか心が死んでいる。あらゆることがどうでもいいとすら感じてしまう。そして今の俺自身も死について考えていたのだ。

 母親はおそらくその性格から、本気で死にたいと思ったことはないだろう。父親はおそらく一度か二度、死に直面したかもしれない。

 俺は泣く母親を見て、急に怖くなった。あまりにも自分と他人がかけ離れていると感じたのだ。そしてそのことを少しだけ自尊してもいた。

 しかし、今目の前に広がる光景を見て、結局は俺一人なのだと思った。俺は何度か姉や父親と自分を重ねようとしたが、それはあまりうまくいかなかった。どこか共感できるところが少なかったのだ。

 自分は自分で独立した存在だと思い知る。そして昨日の父親の言葉のように本当に不幸な理由で姉は死んでしまったのだ。

 どうにか防ぐ手立てはあったかもしれない。


 翌日、俺はコールセンターで一日、アルバイトをした。ずいぶんと久しぶりだった。途中疲れたがそれをなんとか乗り切った。帰る頃には手足が震えていた。いったい何だろうと俺は思った。

 帰り道の電車の中で広告を眺める。そのどれもが頭に入ってこない。所詮は夢の世界なのではないかと頭をよぎる。

 この世のおおよその概念が嘘くさく感じた。そして今日は姉のことをあまり考えなかったと思った。

 家に帰ると母親がカレーを作っていた。

「お疲れ様」と俺に言った。

「うん」

 やはり姉のことは口にできなかった。

 いったい何の話をしようかと思い考えるが言葉がでてこない。黙っていると母親も黙っていた。

 本当に話すことなんてないんだなと俺は思った。目の前の母親はただカレーを食べている。

 俺はテレビをつける。テレビの賑やかな音が家庭に侵入していく。俺はこの夢を肯定的に見ていた。そしてアルバイトをした帰りだと、本当にこれが現実なんだと思い知った。

 誰かの陰口を休み時間に言い、仕事や政治について真面目に語りあいながら、人々は生きているような気がした。

 俺はいつもそんな世界の中に一人でいるような気がした。なんだか他人とは断絶しているみたいだった。

 そして他人の中に入っていけないことを悔やんだりもした。

「今日はコールセンターでバイトだった」

「変な人はいなかった?」

 母親は心配そうに俺にそう言った。

「別に。普通だったよ。本当に普通だった」

 会話が続かない。母親の前にいると俺まで憂鬱になった。

 もしかしたら人間はそうやって他者と悲しみを共有してきたのかもしれない。

 

 ふいに俺は小説を部屋で読みたくなり、それを読んだ。そうすることで俺は世界とのずれを意識していた。

 普通に生きている人間が急にうらやましくなる。それで俺は小説の世界で浸る。無力な俺は小説の世界では世界の支配者だった。

 結局姉の死にも、自分自身の自立もできないままだった。アルバイトをすることで精いっぱいという俺のことを家族はただ見守っていた。

 ふいに全てが馬鹿らしくなる。死んだ姉が周囲からどう思われていたのか、どんな苦悩があったのかわかる気がした。そして不幸にも自殺した。

 リビングに降りていくと父親が仕事から帰ってきたところだ。母親は風呂に入ったままだ。

「姉ちゃんことどう思う?」

「本当に不幸だと思う」

 相変わらず父親は冷めてそう言った。

「俺が何か言ってあげれば救えたのかな?」

「きっとそういう運命だったんだと思う」

「姉が死んだ時ですら、俺は権威を渇望していたんだ。どうやら俺にとって死はそんなに重いものではない気がする。母親が泣いているのを見て、俺は恐怖を感じた。それで俺は小説を読んでは自分の自尊心を確保していた」

「お前はまだ若いんだよ。お父さんだってそう思っていた時期があった。でもお母さんと結婚してお前らを産んで考えが変わった」

「どういう風に変わったの?」

「人生はそれだけじゃないってことさ。こんなに真剣にお前に向き合ったのは久しぶりだな。俺はお前がどういう運命をたどろうとそれに干渉する気はない」

「ずいぶんと冷たいんだな」

「本当はお前のことをお姉ちゃんのことを思っていたんだ。だから本当に今回の件は不幸だと思っている」

「そりゃあ不幸だよ」

 俺は父親と感情を共有しようとしていた。それは暗黙の了解だった。俺には父親が馬鹿なふりをしている気がして、それで俺に対する言葉しか使っていない気がした。なんだかそのことがもどかしい。二十代になった自分がまだ子供扱いされていて、そして実際子供なのだと思い知る。

「とにかく、お前には夢があるんだろ? それを実現させろ」

 父親はそう言ってテレビをつけた。俺はテレビを眺めていた。久しぶりにテレビというものを見た。

 いったい人生はどれほど深く重みを持つのだろう。俺にはその先に待つものがまだ理解できない。

 父親はただ寡黙だった。そして母親はおそらくまだ父親のことが好きだった。父親はそう言う男だった。

 楽観的に馬鹿なふりをしながら生きている父親。常に誰かと話すときは相手のことを考えている。

 父親は興味なさげにテレビ番組を眺めていた。俺はまだ若いんだなと思った。なんとなく父親からも母親からも子供扱いされているようだ。そして本当に気持ちとは裏腹に無力だった。

 いつか頭の中に思い描いたような世界を手に入れてみたい。でも今の俺には小説を書きながらこの地上に生存するのが精いっぱいだった。

「できるのかな? 俺にはそんな才能があるのか? 俺はちゃんと生きることができるのかな?」

「それはお前自身が決めることだよ。きっと大人になるにつれてわかることは増えていく」

「そうなのかな?」

 俺はそう聞いた。この父親に何を言っても無意味な気がした。だって本音の一つもつぶやかない。

「叶えたいんだろ? 欲しいんだろ? 未来はお前がつかみとるんだ」

 父親はそう言って笑った。普段は笑わない父親の笑顔を久しぶりに見た気がした。

「ああ、頑張ってみるよ」

「お姉ちゃんのことはいつもまでも俺も母さんも忘れないよ」

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不安な夜 renovo @renovorenovo

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