07

「よしえぇーっ! 会いたかったあ!」


 玄関ドアを開けたとたん、ただいまと声をかけるより早く飛び出てきた玲子が、仏頂面の佳恵にドスンと音がしそうな勢いで抱きついた。

 背が低く細身の玲子だが、この力強さで飛びつかれるのはさすがにキツイ。私はピンヒールで必死に踏ん張る佳恵の後ろに立ち、その背を支えた。


 スリスリと首筋に頬ずりをする玲子の頭を、良い子良い子と、まるで遠く離れ離れになっていたかわいいペットを愛でるがごとく撫で、目を細め微笑む佳恵には、さっきまでの勢いは無い。


 おいおい、初っ端から骨抜きじゃないか。


 さて、何を隠そう、これこそが、玲子の武器である。

 私ももちろんそうだが、説教魔の佳恵ですら玲子に勝てないのはこれがゆえ。

 どんなに腹が立とうとも、クリクリお目目の童顔と、小動物のような愛くるしい動作を武器に懐かれてしまえば、たちどころに怒る気力は失せ、甘く蕩けてしまう。

 だから結局こうして、奔放に振る舞う彼女を許してしまうのだ。


「ねえ、いつまでそうしてるの? 早く家に入ろうよ?」


 少々呆れ顔で呟く私に、玲子の反応は早い。


「そうだ、ごめんね! 早く上がって! 来るって聞いてたから佳恵の好きなものいっぱい作ったんだよ? 佳恵の好きなお酒も用意してあるんだ。今日はとことん飲もうねっ!」


 三和土でハイヒールを脱ぐ足元へ甲斐甲斐しくスリッパを並べる玲子に、佳恵はもう上機嫌。

 この様子では、酔った説教魔のターゲットは、間違いなく私になるだろう。


::


 軽くシャワーを浴び、細やかに施した化粧を落として着替え戻ってくると、小さなテーブルの上に並べられた色とりどりの酒の友に目を奪われる。


 粗挽きのブラックペッパーがたっぷりと振りかけられたチーズやプロシュート、ロミロミサーモンに、オリーブのマリネ、ガガモレ等々。香ばしい香り漂うカリカリバケットも添えられていて、食欲がそそられる。そして、新鮮なフルーツたっぷり白ワインのサングリアは、玲子特製だ。


 話の雲行きを心配するより、食べるほうが先。ここまで用意しているならば、メインディッシュはさらに期待できそうだと、口角が上がる。


「とりあえず座って乾杯しよう?」


 よく冷えたサングリアをグラスに注いで、小さなミントの葉を飾りサーブする玲子は、ウキウキと楽しそう。


「その前に! 玲子、あんた……」


 佳恵にまだ説教をする気があったとは意外。


「佳恵の言いたいことはわかってるよ。隼人ね、反省したって。だから、明日、迎えに来てくれることになったの。歩夢も、迷惑かけてごめんねえ」


 隼人が反省ってあなた……。


 今回の離婚騒動の原因を思い返してみる。

 今後隼人は、会社の同僚と退社後に出かけず、夕飯のメニューを予測してランチをとらなければならなくなるのか。たしかに、気の毒ではある。


 しかし、同情はしない。


 共働きだった頃、共同作業であった家事を、玲子が専業になったとたん、働いている俺は偉いとばかりに一切合切玲子に押し付け、お気楽夫を気取っている隼人は、正直、説教ものだと思う。

 また、専業になってからほんの短期間のうちに、これだけ進化した玲子の料理の腕を浪費しているあいつのお子ちゃま舌にも、腹立たしさがある。

 だが、私たちにも語れない夫婦だけの問題もあるのかも知れないと思うと、ここはやはり、外野が口を出すべきではないだろう。


 つまり、勝手にやってくれ。


 説教魔佳恵の出鼻は、かくして簡単に挫かれる。玲子の家出騒動は所詮、集まって飲み歓談する口実になるだけだ。毎度毎度振り回されるこちらは、たまったものではないが。


「きっと今日は佳恵が来ると思ってたから、これ全部、朝から準備してたんだよ! メインはいまオーブンの中だから、期待しててねっ!」


 嬉しそうに話す玲子を横目に、チーズをひと口。胡椒の香りが違う。


「このブラックペッパー挽きたてでしょう? どうしたの?」

「ああそれ? ペッパーミルなかったから買ってきちゃった」


 自分の好きなことだけに時間を使える一人暮らしは、非常に快適なのだが、たったひとつ、外食だけには不自由している。


 味覚を満足させてくれる料理を提供するレストランは、たいていの場合ひとりでは入店しづらい。それゆえに、おいしい料理を口にしたいと思えば、必然的に誰かと食事をするか、または、腕を磨くしかないわけだ。


 私の性分としては、よほどのことがない限り、家に閉じこもりたい。だから、調理器具や調味料その他のキッチン用品は、必然的に充実している。


 だが、いかんせんそこはひとり暮らし。こだわりはあるが、そこまではと諦め、疎かにしている部分も多い。

 玲子はさすが経験豊富な主婦だけに、その疎かにしている部分を、家出のたび勝手に補充していく。それはまことにありがたいことである。


 彼女たちふたりで交わされる会話は、右から左。私の世界はいま、食で満たされているのだ。

 サングリアとアペタイザーに集中していると、料理はいつのまにかメインディッシュへ移り、ワインも赤へ。

 グラスに口をつけると鼻腔に広がるフルーティーな香りに続き、舌の奥で感じる仄かな渋みとウッディな残り香。


 この赤、好きだわ。どこで手に入れたかあとで訊いておこう。


 特製グレービーソースをたっぷりつけて味わう、ハーブが薫るローストポークも絶品。添えられたマッシュポテトも、もちろん自家製だ。

 仕事で疲れているだろうからビタミンBたっぷりのポークにしたわと、主婦らしい気遣いも素晴らしい。



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