第十二話【過去】

「え、転勤!?」


 美緒は伝えられた言葉に驚いて椅子から急に立ち上がった。食卓に並んだ料理を乗せている皿が振動で音を立てて揺れた。一緒に料理を囲んでいる両親に落ち着くように言われて、美緒はゆっくりと椅子に腰掛けなおす。しかし、心臓は激しく高鳴っていた。

 両親――主に父親の口から告げられたこと。

 来年三月に小学校を卒業すると同時に引っ越して、引っ越し先の中学に入学する。中学受験は必要なく、偏差値もある程度高い中学だという。父親の説明を、美緒はほとんど聞いていない。

 例えば、住んでいる県が変わってしまうというくらいならば美緒は何とか我慢できる。美緒の知る世界の中では、長い時間電車に乗っていれば移動はでき、仲が良い友達とも会えなくはない。

 だが、父親に告げられた先――北海道となれば話は別だ。

 地続きではなく、海を越える。どれだけ友達と離れてしまうのか、もう美緒の想像力ではどんな場所なのか分からなかった。


「お父さんが単身赴任することも考えたんだが……おそらく五年は行くことになると思う」

「だからお父さんを家族で支えてあげたいの。美緒も小学校の友達と離れるのは辛いと分かっているだけれど……ね」


 美緒の気持ちを推し量ってか、申し訳なさそうに言葉を紡ぐ両親。しかし美緒はその話の半分も聞こえていない。


(ここから離れるの? そんな……)


 幼稚園、小学校と続いて仲が良い友達もいる。更に、自分にはバドミントンでもとてもいい仲間がいる。すぐに思い浮かんだのは男女一人ずつの顔。


「友君や亜紀とも離れないと駄目なの? 私だけここに残りたい!」

「美緒……」

「五年くらいお父さんが一人で行けばすむんでしょ! なら我慢してよ! 私はここ、離れたくない!」


 美緒は再び勢いよく立ち上がって、居間を出ていく。後ろからは母親が美緒を呼び止める声が聞こえたが、無視した。自分の部屋の扉を思い切り閉じて鍵をかけると、扉にもたれ掛かってゆっくりとその場に座り込んだ。

 理不尽なことへの怒りに染まった頭が、また急激に冷えていく。


「無理なのは分かってるけど……」


 自分一人がここに残るのは無理と、美緒は分かっていた。それほど愚かでも無知でもない。父親と母親がどれだけ自分を愛しているかも分かっている。高価なバドミントンのラケットやシャトルを買えるのも、父親が仕事を頑張っているから。

 しかし、頭で分かっていても感情が納得しない。

 全く無駄だと分かっていても言わずにはいられなかった。

 友達と離れたくないのだ。特に、目を閉じればすぐに浮かんでくる二人とは。

 美緒は立ち上がると勉強机に置いていた携帯電話を取ると、電話の履歴から電話をかけた。

 数度のコールの後で「もしもーし」と元気な声が届く。受信音量を少しだけ下げて、美緒は声をしぼりだした。


「亜紀……私……一緒の中学に行けなくなった」

『……美緒、泣いてるの?』


 涙が流れる目を空いている手で拭い、嗚咽を押さえつつ。ゆっくりと美緒は引っ越しのことを亜紀と呼ばれた子に話す。

 幼稚園から一緒に過ごしていた親友の一人である矢沢亜紀は、小学校でも六年間、バドミントンで切磋琢磨してきた女子だ。二人は県の小学生大会でシングルスで活躍し、あと一歩の所で全国出場できるところまで行った。

 亜紀が誘ったことで始めたバドミントン。美緒と亜紀は、理想的なライバルとして互いを刺激し合った。

 美緒が追いつけば亜紀が突き放し、美緒が追い抜けば亜紀が横に並ぶ。二人でそうやってバドミントンの実力を磨いていれば、きっとどこまでも行けると思っていた。


「思ってた、のに」


 ひとしきり自分の中にある思いを伝えて、美緒は悲しさに身を委ねる。口から出る言葉は涙に飲み込まれ、言葉も霧散していく。

 電話の先にいる亜紀はしばらく黙っていたが、息を吸って美緒へと言った。


『仕方がないよ。今は携帯あるし、パソコンもあるんだからスカイプとかで話せるし。深刻に考えすぎ』

「そう……かなぁ」

『そうだよ。でも友っちは寂しいって落ち込むんじゃないかな』

「友君が?」

『そうそう。あいつ、絶対、美緒のこと好きだよ』


 亜紀の言葉に美緒は頬を赤らめる。顔が見えないのだからバレることはなく、問題はない。それでも美緒は熱を冷まそうと片手で顔をあおぐ。


『でも……やっぱり寂しいよね』


 電話口から聞こえてきた亜紀の言葉は、美緒が今まで聞いた中で最も寂しそうに思えた。



 * * *



 美緒がバドミントンを始めたのは小学校一年生の時だった。

 学校の体育館を借りて、町内会のサークルでの活動。その一環として行われている。美緒と矢沢亜紀。そして杉村友和は幼稚園から小学校に上がってすぐの四月に同時にバドミントンを始めた。幼稚園から一緒にいる三人が、同じくバドミントンを始め、お互いに切磋琢磨して強くなろうと競争をしていった。

 そして試合に出始めてからは実力は結果として現れる。

 市内大会でどれだけ勝ち進めるか。

 優勝できるか。

 県大会でどこまで進めるか。

 三人は小学校六年の終わりに、県大会のベスト8まで勝ち進められるようになった。

 逆に言えば、小学校六年での到達点がそこまでということ。美緒の小学生のバドミントンは更に一つ上のベスト4で終わり、後は卒業まで一つでも多く思い出を作っていくことに終始していく。


「……はぁ! 負けた!」


 友和はコートに寝ころんで腹から声を出す。息はすぐに切れて、しばらくは体力回復のために動かない。おそらくはどの公式戦よりも疲れた試合が終わり、表情は晴れやかだ。


「大丈夫?」


 ネットを挟んだ先にいる友和に、美緒は申し訳なさそうに問いかけた。小学生としてのバドミントンが終わってから数日後の今日、いきなり呼び出されて美緒は期待していることがあった。何となく気になっている相手から、いつも傍にいる亜紀を除いて呼び出されるのは数える程度。あとは来年、この地を離れるまでに半年くらいしかないのだ。もしかしたら好意を持ってくれている相手に呼び出されれば浮つきもする。

 結局は、バドミントンの試合をしてほしいと言われただけで終わったが。空回りで生じた怒りを八つ当たり気味にぶつけて、美緒は友和に完勝した。


「なんか差が開いてて悔しいな。美緒。才能あるわ」


 名前を呼ばれるたびに心臓が高鳴るようになったのはいつだったか。しかしその気持ちを気づかれないように振る舞うのにも、時間をかけることですでに慣れている。


「友君も強くなってるよ。中学にあがったら、全国大会行けるよ」


 それはお世辞ではなく本心だ。確かに今の時点では亜紀や友和よりも自分のほうが実力はある。だが、試合の中でも対応できていなかったことに対応できるようになってくるなど、友和も亜紀も実力を伸ばしている。


(中学も一緒だったら、もっと成長できたかもしれないのに)


 三人で同じ中学の同じ部活に入り、活動する様子を思い浮かべる。中学生になれば小学生では得られなかった刺激をたくさん受けて、いろいろと変わっていくのかもしれない。

 その時は、三人一緒にいたかったと思ってしまう。


「全国か……なら、三人とも全国に行けたら、会場で会えるよな」

「うん……そっか」


 友和の言葉に、美緒は自分でも何故か分からないほどに驚いていた。全く考えたことがなかったため、逆に言葉は素っ気ない。中学から離ればなれになってしまえば、日々何かしら連絡手段があるとしても、実際に会うことは叶わない。部活に勉強にと頑張っていけば、生活時間も異なってくるかもしれない。

 しかし、バドミントンを頑張って全国に三人とも出られたならば、会えるのだ。


「そっか……そうだよね。全国に行けば、会えるよね!」


 美緒の暗くなりかけた気持ちが一気に明るくなる。それはいつしか、北海道に行ってしまえば高校も含めて六年間は会うことがなくなると思っていたことにあった。

 だが、自分の頑張り次第で何とかなるのだ。

 美緒にとってそれは一つの確信として心に刻まれる。


「亜紀も、友君も! 私も、三人で全国で会おう!」

「おう! 絶対会おうぜ!」



 * * *



「それが約束の始まりだった」


 美緒は遊佐への説明を一区切りつけた。手に持った飲み物を一口飲み、ため息をつく。自分の過去を語るのは恥ずかしいと思う気持ちがある。今の自分からしたら視野狭窄としか思えない部分もあるからだ。


「それから、卒業して北海道に引っ越してくる前の日まで練習してた。引っ越しの日は、やっぱり悲しくなって、絶対全国に行くからって泣きながら二人に叫んじゃって。結構恥ずかしかったな」

「仕方がないじゃん。そういうストレートなところ、好きだし」

「……で、浅葉中に入ったんだけど」


 さらりと遊佐の口から出てきた「好き」という言葉に心臓が高鳴り、言葉が詰まる。小学生の時の話をしたからか、過去と似たような反応をしてるなと美緒は思った。


「二つ上の早坂先輩が凄く強くて。この人といい勝負できれば全国に行ける、って思って何度も練習試合挑んで。ちょっとだけ、全国行けるんじゃないかって手応えがあった。でも、インターミドルの予選前に右足怪我して、駄目になって。凄く落ち込んだ。今なら、行けなかっただろうって思えるだけど。でね、その怪我で休んでる間に……気づいちゃったの」

「何に?」

「亜紀とも、友君とも疎遠になってるなって」


 遊佐の問いかけに答えた美緒の声は、少しだけ震えた。

 涙が出るほどではなかったが、過去を思い出して悲しい気持ちを思いだし、鼻の奥がツンとする。


「最初の頃は夜にスカイプでパソコンの前で話したり、携帯でメールのやり取りしてたけど。練習や勉強に集中しないといけなかったから、すぐにそういうの減っちゃって。こっちの友達の話題やあっちの友達の話題を振られても、分からないし。それでインターミドルの直前になったら、向こうからもこっちからも連絡取らなくなっちゃってた。きっと亜紀達も練習が忙しくて、メールする余裕がなかったのよ」


 そして。インターミドルが終わって三年生が引退した後には、自分が最も強いプレイヤーという状況になっていたのだ。


「二年生も同学年の子も、みんな私より弱かった……遊佐も今じゃ勝てないけど、直前までは、ね」

「そうだな。朝比奈はその友君ってやつが言ったとおり才能あったんだろうな。それで努力してた」

「うん。でもね、その時の私は……約束を諦めてたんだと思う」


 今だから振り返ることができる過去がある。

 約束を果たそうとして、その約束が実は全国への道を阻んでいた。弱い自分のイメージとして試合中に出てきた亜紀と友和の姿。それは言い訳をするためのもの。試合に負けた理由を、約束の重さへと転嫁していた。


「こんな環境で強くなれない、って思って。私は一人で強くなろうと思った。女子の先輩は頼らずに、まだ練習になる遊佐だけ打ち合って。でも、約束のために強くなろうっていうのを言い訳にして現実から逃げてたんだ。部活を辞めるってところまで行ったんだよ、私。でも、先輩が気づかせてくれたんだよね」


 美緒は今でも思い出す。

 三年生が引退し、美緒が一年にして名実共に実力が一番となった頃、部活では練習にならないと部活を休んで市民体育館に練習しに行っていた時期があった。それに一年女子が皆、賛同したために部内会議が開かれ、美緒は部に見切りをつけて辞めようとした。

 全国に出て、会うという約束を破棄することになるにも関わらず。

 強くなるために部活を捨てると言うことは、強くなる意味を捨てること。それは高校に取っておくと自分の中で落としどころを見つけていたが、それもまた勢いだけだ。

 そこで当時二年の部長が「みんなで強くなりたい」と言って美緒を説得した。年目の垣根を越えて強い美緒に師事すること。更に、美緒は皆で協力して強くしたいと訴えた。その訴えはほんの少しだけ美緒の心に波を立てる。親友と思えた友達と距離と心が離れたことで静まり返っていた心に。


「それから、少しずつ皆と協力していって。私はだいぶ変わっていったと思う。でも、それこそ、あの準決勝の試合中まで、引きずってたんだ」


 美緒は一度言葉を切り、どう伝えるかを悩んだ末に口を開いた。


「私、実はね……もう二人の顔をよく思い出せないんだ」


 美緒の言葉に遊佐は首を傾げる。その反応は当然なのかもしれない。地元でずっと暮らしている遊佐にとって、友達と疎遠になるということはまだ現実味が薄いかもしれない。


「一緒に撮った写真とかで昔の顔は思いだせても、今の顔って変わってるじゃない? 女子はまだしも……男子は」


 美緒の中の亜紀と友和は、十二歳の三月で成長が止まっている。写真を見ても、今の時は分からない。あくまで過去を切り取ったもの。

 今の場所の仲間との積み重ねが、美緒の中から二人の場所を奪っていく。それは仕方がないこと。離れて一緒に歩む時を止めざるをえなかった親友と今、一緒にいる仲間ならば、後者が優先される。


「もう……私の中で、二人はぼんやりとしてる。こっちにきた時は鮮明で、本当に大事だったのに……そしたら……二人を親友だって思ってたことも、嘘なのかなって思っちゃって……皆と仲良くなればなるほど、最後にそのことがちらついて、どうしても踏み込めなかった」


 美緒の瞳から涙がこぼれる。今の仲間との距離を最後に阻んでいた壁。それは過去に抱いた二人への思い。片方は友情の。そしておそらく、もう片方は恋愛感情。

 言葉を紡げなくなった美緒を、遊佐はせかすことなく見ていた。美緒のペースを優先し、ただ、待つ。

 やがて、気分が落ち着くと涙を拭いて美緒は言う。


「でも。今日で一つ区切りがついたよ。約束をようやく果たせる。亜紀も全国出場決まったって」

「友和ってやつは?」

「友君は連絡ないんだ……でも、今年の会場は東京だから、出場しても、してなくても絶対に会ってくる」


 美緒は遊佐の顔を真正面に見据えた。話しているうちにごちゃごちゃになり、やがて再構成された思い。自分の気持ちに整理をつけるために言う。


「だから、告白の返事、全国大会が終わるまで待ってほしい。自分の中のもやもやに、決着つけてくるから」


 返事をすると言って、また伸ばすのは美緒も気が重い。それでも、今の状態では遊佐の思いに答えられそうにない。美緒の気持ちを遊佐は理解したのか、首を一度縦に振った。


「分かったよ。思い切り、ぶつかってきな」

「うん」


 美緒は自然と頬を緩ませる。自分の思いを分かってくれた遊佐に最大限の感謝を込めて微笑んだ。すると遊佐は顔を真っ赤にして美緒から視線を外す。その様子が楽しくてまた笑ってしまう。


「あ、そろそろ時間だね。打ち上げいこうか」

「……おっしゃ。行こう!」


 二人は立ち上がって会場になっている高山の部屋へと歩きだした。

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