最終幕

第19話 左目②

「ヒカル姉さん……!!」


 シュウが肩の痛みを堪え、姉の名を呼んで呻き声を上げた。長方形の、開かれた扉の形の枠内に、見慣れた細身の黒い人影が浮かんで見える。人影がブツブツと『何か』を言った。シュウにはそれが聞き取れなかった。腹の底から唸り声を響かせ、威嚇するその様子はさながら獣のようだ。扉の前に仁王立ちした姉の形相は、助けに来られたはずの弟でさえ、思わず背筋を凍らせてしまうほどだった。


 シュウの上に馬乗りになった佐織が、光の差し込んできた扉の方を不思議そうな顔をして振り返った。

「お前は……」

「オイ黙れ」

「そうか……お前が『心臓』か」

 佐織が人影を見て、合点がいったように目を細めた。


「動くな!」

 すると、突然ヒカルの後ろから鋭い声が飛んできた。

 大量の人影が四角い枠の中に群がってきて、あっという間に扉の前を埋め尽くしていく。先頭に立つヒカルよりも頭一つ分大きなその人影の群れは、機動隊のものだった。誘拐犯を確保しようと待機していた機動隊が、銃を片手に次々に内部に雪崩れ込んできた。機敏な動きで横一列に並んだ隊員たちが、ずらっと並んだ透明な盾の隙間から、一斉に銃口を佐織に向けた。そのあまりの早業に、シュウは息を飲むことすらままならなかった。


「会いたかった……もちろんはお前にも、会いたかったよ」

 だが佐織は集まった機動隊が目に入らないかのように、恍惚とした表情でヒカルだけを見つめていた。ヒカルは佐織の言葉を無視し、ずんずんと奥へ歩を進め始めた。

「おい君、迂闊に動くな。人質が……」

 機動隊の一人が、ヒカルを制止しようとした、その時だった。


 パシュンッ! 


 と小さく音がして、佐織の右手がふらっと宙を揺らぎ……まるでピアノの鍵盤でも奏でるような気軽さで……いともたやすく凶弾は放たれた。


 佐織の一番近くにいたシュウにさえ、最初一体何が起こったのか分からなかった。何のためらいも、予備動作もなかった。機動隊が銃を構え、厳重警戒されている中での発砲。「この状況で撃つはずがない」と、誰もが無意識にそう思っていたからこそ、この奇襲は成功した。

 

 その場にいた全員が固まった零コンマ一秒の間。

 佐織の撃った弾は先頭を走っていたヒカルの頭上をかすめ、工場の入り口の上、天井付近を一直線に駆け抜けた。全員が狼狽える中、唯一人佐織だけが嗤った。弾は、狙い通り天井付近に仕掛けてあった細いロープを切断した。

「全員、退避ィッ!!」

 一瞬の間を置き、誰かが上を見上げ絶叫した。地割れのような派手な轟音を立て、入り口に陣取った機動隊の頭上から大量の土砂が降り注いできた。罠だ。教室の扉に仕掛けられた黒板消しのように、次々と天井から降ってくる障害物に、機動隊が押し潰されていく。ヒカルは慌てて前方へとダイブした。


「姉さん!!」

 シュウが叫んだ。降り注ぐ土砂は瞬く間に入り口を埋め尽くし、半壊した工場の中に、再び暗闇が訪れた。

「チクショウ……ッ!」

 間一髪、土砂の雨から辛うじて逃れたヒカルが、ちょうどシュウと佐織の足元に転がっていた。瓦礫の山の向こうからは、機動隊たちのくぐもった叫び声が聞こえてくる。どうやら辛うじて罠から逃げ延びた隊員たちが、生き埋めになった仲間たちを必死に救助しているようだ。

 現場は一時騒然となった。陶器のように白かったヒカルの肌には、擦り傷がいくつも出来上がっていて、所々生々しい血が浮かび上がっていた。うつ伏せになったまま、ヒカルが悪態をつきながら顔を上げると

「!」

 暗闇の中、倒れ込んでいたヒカルの顎に、佐織の蹴りが飛んできてクリーンヒットした。

 ぐしゃっ、と鈍い音がして、ヒカルの口から鮮血が飛び出した。仰け反ったヒカルの目がギラリと光り、佐織に反撃の拳を突き出した。だが佐織は飄々とした顔でヒカルの攻撃を軽く避けると、そのままヒカルの心臓、肝臓、急所と立て続けに蹴りを与えた。シュウは思わず目を逸らした。その打撃は先ほどシュウが比良古賀に見せた動きよりもさらに速く、鋭くヒカルの体にねじ込まれていった。ヒカルの顔が驚愕に歪む。さらにヒカルが何度拳を突き出しても、佐織には一切当たる気配すらなく、逆に彼女を蹴りで圧倒した。


「……ソがァッ!!」

 ヒカルの側頭部に佐織のかかとがヒットし、とうとうヒカルが膝からその場に崩れ落ちた。脳震盪を起こしたのだろうか、地面に跪いたヒカルがフラフラと二、三度頭を振った。佐織は片足でその前に立ち塞がり、勝ち誇ったように嗤った。

「……!」

 シュウは息を飲んだ。戦力差は、歴然であった。ヒカルの顔は真っ赤に腫れ上がり、其処彼処そこかしこからうっすらと血が滲んでいる。彼女が口元の血を二の腕で拭き取り、フラフラになった上体を何とか起き上がらせた。

 すると今度はヒカルの目に、サイレンサーの銃口が飛び込んできた。佐織は倒れていたシュウの元へと歩み寄ると、彼の後ろ髪を掴み無理やり顔を上げさせ、そこに照準を合わせた。


「動くな。弟が逝くぞ」

 佐織が地べたに転がるヒカルを見下ろして言った。ヒカルの体が石のように固まった。

「姉さん……ッ」

「シュウ……!」

 痛々しい弟の姿を見つめ、ヒカルの表情が苦悶に歪んだ。佐織はそのままシュウの額に銃口をグリグリと押し付けると、つまらなそうにため息をついた。

「拍子抜けだよ」

「何だと……?」


 ヒカルの鋭い眼光が佐織を捉えたが、彼女は怯む様子もなく、僅かに色の違う左右の目で、ヒカルを嘲るように見つめた。

「拍子抜けだと言ったんだ。殺人鬼探偵とやら、どんなものかと期待していたんだが……」

「……ッ!」

「弱い。弱すぎる。何の策もなく、唯真っ直ぐ飛び込んでくるだけ……? たかが心臓その程度の殺意で、『純粋悪』のこの左目おれに」


 口調こそ平坦だったが、ヒカルを屈服させた佐織は頬を紅潮させ、興奮を抑えられない様子がありありと見て取れた。真っ赤な返り血を浴びた制服の少女が、小さな体で目一杯両手を広げた。

「『左目』の殺意が他の臓器に劣っている部分は一切ない。肉体の若さも、精神の強靱さも! 見ろ! 移植により手に入れた、この肉体を!! 今の俺に、お前が勝てる要素は一個もないッ!」

「……!」


 鮮血に染まり愉悦に歪む佐織の表情とは対照的に、ヒカルの顔色がみるみるうちに白く色を失くしていった。シュウは、初めて間近で見る『ぶっ殺す探偵』の敗北に言葉を失った。

 言葉を失ったが、シュウの頭は驚くほど冷静であった。銃口を向けられ、瀕死の状態であるにもかかわらず、何故か不思議と「もう助からない」とはどうしても思えなかった。

 佐織が引き金に人差し指をかけた。

「よくもまぁ、今まで大口を叩けていたもんだ。心臓も俺と一緒に来てくれるかと思ってたが……お前はもう、今夜限りで終わりだ」

「……ぇよ」

「何?」


 ヒカルがくぐもった声を上げ、佐織がピクリと眉を動かした。ヒカルが膝をついたまま、じっと佐織を見据えて言葉を吐き出した。

「策があったから、勝てると思ったから、来たんじゃねえよ!! 目の前で弟が困ってたら……」

「!」

 ヒカルが再び地面を蹴り上げ、佐織に突進して来た。

「たとえ勝てなかろうが、助けに行くのが当然だろうが!!」

「……そういうのを、世間一般では馬鹿って言うんだ」

 佐織が呆れたように小さくため息をつき、サイレンサーの銃口をヒカルに向けた。


 シュウはその数秒の景色を、まるでコマ送りの映像でも見るかのように、ゆったりとした時間の中で眺めていた。自分に向けられていた銃口が、姉に向かって動いて行くさまを、スローモーションで捉えていた。


 ……、だ。


 その瞬間シュウの頭を掠めたのは、その三文字だった。

 またしても自分は、姉に守られている。

 その事実が、シュウには堪らなく悔しかった。

 急に自分への怒りが湧いて来て、全身がガクガクと震えた。


 、自分が姉を守ると誓ったのに。

 もう二度と、を繰り返さないために……戻って来たはずなのに。

 守るどころか、またしても自分のせいで姉が危険に晒されている。


 そう思った瞬間、シュウの体は勝手に動いていた。



 ……先ほど佐織はヒカルが自分に勝てる部分が一つもないと言ったが、それは違う。

 間違っている。明らかに、誰がどう見ても勝っている部分が、一つある。

 

 それは彼女の『精神』だとか、『心の有り様』だとかそんな抽象的なものではなくて……



 だ。

 二対一なのだ。どんなに佐織が若く強い肉体を手に入れようが、精神が異常サイコパスだろうが、明らかに物理的に、姉は佐織に数で優っている。佐織は手負いのシュウを頭に入れていなかった。そしてそれが……

「……アンタの敗因だ!」

 シュウは最後の力を振り絞り、姉に向けて引き金を引こうとする佐織に腕を伸ばした。一発目の弾丸は飛びかかって来たシュウに邪魔され、ヒカルの体を掠め後ろへと飛んで行った。驚いた佐織は、もみくちゃになりながらも、二発目の弾丸を撃たんとシュウの胸に銃口を向けた。シュウはその動作を、驚くほど冷静に……まるで死ぬ前に見る走馬灯の様に……スローモーションで眺めていた。

 

 ……良かった。

 これで姉を守れる。


 その瞬間、シュウは今にも殺されると言うのに、自分でも驚くほど安堵していた。シュウはどこか遠くの方で、姉の叫び声を聞いた。だけどその声も、次に来た衝撃で瞬く間に聞こえなくなってしまった。



 佐織の放った弾丸が、二度、三度と、シュウの胸に撃ち込まれた。

 

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