got anger(後)
「ナツカが手品師だとでも主張するつもりですか」
「いえ、そんなつもりは」
「ならば無理です。ヨーロッパからたった数時間で日本に来るなんて」
「うう……」
舞浜さんは押し黙ってしまいました。その間にも宝さんが攻撃を続けます。
「ナツカが日本にいなければならない、そこはどうしようもないんですか?」
「それは、はい……まあ」
「煮えきらないですね。恋人のハヤテが事故に遭ったから、でしたっけ? それだけのためにナツカはヨーロッパでの生活を放り出して来たってことですか」
「でも」
さっきのもにょもにょした言い方とは違う、弱いけど芯のしっかりした声。舞浜さんしか、いません。舞浜さんは膝の上で両手をぎゅっと握りながら言います。
「恋人の身に不幸があれば……今すぐにでも駆けつけたくなる、と思います」
「そうですか?」
宝さんにこういうのはあれですが……彼女は人の心というものをよくわかっていないようです。
「ぼ、ぼくの友人は……そう言ってました」
「あなたの友人の妄言では?」
「でも!」
珍しく舞浜さんが声を荒げます。宝さんは動じていないようですが。
「大切な人の一大事なら、駆けつけるはずなんです。たとえ遠くにいたとしても」
「ヨーロッパでも?」
「はい」
舞浜さんが、宝さんと真正面から張り合っている。それはなんて、珍しい光景なんでしょう。けれどそこに、作家・舞浜さんの意地というか、譲れないものを感じました。
「わかりました」
はあ、と嘆息した宝さん。舞浜さんの意見を採用するようです。
「では、ナツカが日本にいるとして。ヨーロッパの距離はどうにもできませんよ。それはどうするおつもりで?」
「そ、それは……」
言葉に詰まる舞浜さん。舞浜さんの信念は理解しましたが、今話題になっている「ヨーロッパから日本に半日で戻れない問題」の解決にはなっていません。
「……どうですか仁科さん。逆接の法則は見つけられましたか」
これから、というときにマスターから声がかかります。
「ぎ、逆接の法則、ですよね」
「はい」
いつからそんな法則名がついていたのか、あたしにはわかりませんけど。というかあたしがつい言ってしまったけれど。考えることはいつものことなので、マスターの言う通りにします。
舞浜さんと宝さんの会話から見た、逆接の法則。
「あたしは……強い意思を伝えたいときに、使うんだと思います」
「強い意思、と言いますと」
「舞浜さんでいうと、譲れない一線です」
あたしはひとつ深呼吸します。いつものことながら、自分の意見を述べるときは上手く言えてるか、まとまってるのか心配になります。
「自分の言いたいこと、特に他者には絶対譲れない強い思い。それを伝えたいとき、前置きとして『でも』を使っていました」
「なるほど。確かに」
一般的な逆接の用途とも合ってますね、とマスターは一人で納得している様子です。
「では、宝さんについては?」
「え」
そこで終わらないのがマスターです。
「逆接の用途はひとつではない。人が使う、『ここぞ』というとき。それはひとつではないものです」
「で、でもマスター、舞浜さんを観察してって!」
楯突いてみます。だってそのとおりだし。マスターに「舞浜さんを観察して考える」と言われたから、あたしは舞浜さんだけをじっくり観察していたのに。
答えるマスターは楽しそうです。
「仁科さん。一つの視点に囚われてはいけません。常に多角的な視点を持ち、考える。それが説得力ある理論への手がかりです」
「…………」
なんていうか、騙された気がする。
「舞浜さんの意見は大体わかりました」
そうこうしているうちに、あちらも話が進んだのでしょうか。宝さんがグラスの縁をなぞりながら話します。
「ナツカは恋人思いの優しい人間。彼の一大事にはすぐ駆けつけたい。同時に彼女はヨーロッパに留学中。目の前にはコンクール……」
宝さんが淡々と状況を整理します。
「ですが」
空気が変わりました。
宝さんが「ですが」と言った瞬間、体感温度がマイナス二度くらい下がりました。鋭くって冷たい眼光が舞浜さんを射ぬいています。
なんだろう……急に、雰囲気が変わった?
「四、五時間……いえ、十二時間フルに使うとしても、ヨーロッパから日本に戻るのは非現実的です。プライベートジェットをチャーターでもしない限り、搭乗だってままならない。そもそもチケットを当日入手するのだって難しいでしょう。信じないと言うのなら、航空会社のホームページでもお見せしましょうか?」
……圧倒されました。なんだ、この「できる女」の威圧感。
「さあ、宝さんが逆接を使うとき、『強い意思』で収まる意味があるでしょうか?」
あたしは、首を振りました。これは違う。意思の表れなんてもんじゃない。もっともっと強い何かが……
すると、マスターは笑顔でこんなことを言うのです。
「よろしい。では、これは仁科さんへの宿題にしましょうね」
「え!」
「いやあ、次に仁科さんが来るのが楽しみです」
なんでか知らないけれども、あたしは妙に重たい宿題を出され、今日の仕事を終えたのでした。マスターを悔しげに睨み付けてもどこ吹く風。今日ほど次のバイトが憂鬱になったこともありません。
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