第6話 婆の予言

 ヒナタの住む団地は古い。築後30年は経っている。エレベータもない5階建てだ。その駐車場の一角に大きな桜の木があった。桜には宿り木が絡みつき、その枝は桜の木の真下にあるオンボロ小屋の屋根にも絡んでいた。


 オンボロ小屋には老婆が住んでいる。この団地が出来る前からそこに住んでいるのだ。だから市も強制排除できず、老婆の小屋の一角を回るように駐車場を作らざるを得なかった。その住まいの様子から団地の人々は『宿り木の婆』と呼んでいた。推定年齢は85歳以上90歳未満。本名は木下 峯(きのした みね)と言うのだが、それを知っているのは団地の管理人の大野 章(おおの あきら)位だ。

 

 特に誰に危害が加わる訳ではないのだが、団地の住民は普段近寄らない。だが、桜の季節は見事な景色になるので、年に一度だけ住民たちは小屋に近づいて桜の木を見上げた。


「今年も綺麗ですねえ」

「ん、よう咲いてくれた」


 それが住民と宿り木の婆との間で交わされる年に一度の会話だった。しかしヒナタは違った。ヒナタが越してきた時は丁度桜が散り始め、路上はピンクの絨毯じゅうたん。ヒナタは引越し作業の邪魔になって来るとそこに降りて、そっと桜の花びらを手で掬った。


「あんた、引越して来たんか?」

 

 婆が聞いた。


「うん。あそこの5階。掛川ヒナタ。お婆ちゃんは?」


 ヒナタは自分の部屋を指さして、そして宿り木の婆を穴が開く程見つめた。


「そないに見つめられたら恥ずかしいわ。婆ちゃんの名前は『ミネ』言うけど、ここら辺の人は誰も知らんわ」

「ふーん、そこに住んでるの?」


 ヒナタは背後のオンボロ小屋を指した。


「そうやで。一人やからそこで充分や。婆ちゃんと話とったら近所の人に変な目で見られるから気ぃつけや」

「なんで?」

「さあ、なんでやろな。婆ちゃんには判らん」


 婆は歯のない口を開けて笑った。婆ちゃん、意外と可愛いな。ヒナタもおかしくなった。ヒナタの祖父母は既に他界しいない。だからヒナタも婆ちゃんと話すのが久し振りで楽しかったのだ。


 その時以来、ヒナタは時々婆ちゃんと話す。婆ちゃんからも声を掛けてくれた。ちゃんと勉強してるか?とか、今日は寒いから気ぃつけやとか、ヒナタが竹刀を振っていると、あんた、剣士やなあ とか他愛のない事ばかりだ。婆ちゃんが言った通り、団地の人々は婆ちゃんに声を掛けない。管理人さんが駐車場の掃除の時に挨拶する程度だった。

 ヒナタは勿体ないと思った。いい婆ちゃんやのにな。あたしがみんなとの通訳してあげよ。今は婆ちゃん元気やけど、しんどくなってきたら、あたしがみんなに説明して助けてあげよ。


 ある日、ヒナタが剣道の練習を終えて、横断歩道で信号待ちをしていると、到着したバスからコカゲが降りて来た。


「あれ、コカゲ!」

「ああ、ヒナ。今帰り?」

「うん。コカゲどっか行ってたん?」

「うん。フルートの練習。今日は場所が違ったからバスで帰って来た」

「へえ」

「他の教室と一緒にホールで練習しましょって。発表会はホールでやるし」

「そっか、発表会いつやったっけ? あれ?まさか有料?」

「ううん、入りたい放題よ。近くになったらプログラム渡すわ。クリスマスの頃やけど」


 お喋りに夢中になっていた二人の方へ、宿り木の婆が横断歩道を渡って来た。買物袋を下げている。突如現れた小さな影にヒナタが気がついた。


「あれ?峯婆ちゃんやん。お買物?」


 コカゲも婆を見る。宿り木の婆は二人をじーっと見ていたが、やがて


「あんたら、姉妹やな」


と言った。二人はった。


「違う違う、この子は友達。学校違うけど友達やねん。制服違うでしょ」


 ヒナタが笑いながら言った。


「コカゲ、ウチの団地の傍に住んでる峯婆ちゃん。大きな桜の木の下に住んでるから、木下さん言うねん」

「え?ホント?」


 婆は一旦視線を外して


「桜の番人みたいに思われとるけどな。昔は婆ちゃんもきれいかってんけど、今は姥桜や」

「峯婆ちゃん、上手いなあ」


 ヒナタは感心した。


「まあ、向こうからあんたらずっと見とったんやけど、ええ姉妹やなあ思うてな」


 コカゲが答えた。


「姉妹みたいに仲いいです」

仲善なかよきことは美しきかな 言うてな」


 宿り木の婆は呟くと、ゆっくりと遠ざかって行った。


「ヒナタ、あのお婆ちゃんとも友達?」

「うん、まあね。会ったら喋る位やけど」

「姉妹 言うてたね」

「うん。そう見えるんやなあ」


 お互い一人っ子の二人は、それもちょっといいかもと思った。

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