第4話
「はい。もしもし」
女性の声。社会人一年目かというところか。元気そうに聞こえるが……。
「私、キャリアアップの横地という者で……」
来た。頭蓋が割れそうに痛む。苦痛の声が出そうになるのを必死に堪える。しかし、その痛みの向こうに喜びがある。今日はまだ十二回目の電話だが、また一人、命を救える。
「もしもし?」
「大丈夫だよ」
この一言に全神経を注ぎこむ。朗らかに、優しく、包み込むように。
「え?何ですか?」
「もう大丈夫なんだ。これ以上、苦しまなくていいんだよ」
「……」
こちらを探るような気配。「誰?」
「君は十二分に頑張ってきた。頑張りすぎなぐらいに頑張った。僕は知っている。君には休息が必要だ」
「休息?」
「そう。休息。君は負けず嫌いだね。やると言ったことを途中で投げ出すことのないできない責任感の強さがある。でもね。君たち人間にはやれることとやれないことがある。太陽の動きを止めることは無理だし、すれ違う人の気持ちを好きなように動かすこともできない。ごめんなさい。できません。助けてください。そう言うことは全然恥ずかしいことじゃない。そして君は今、休息が必要な状況になっている。自分では分からないかもしれないけれど、僕の目から見たら事態は結構深刻なんだよ。これから出勤するところだったでしょ。でも今日は休んで、少なくとも午前中はずっと寝ていてほしいんだ。そして午後からは長野の御実家に帰りなさい」
「え?実家?何で?」
「君はここ三年ぐらい実家に帰っていないね。大手の企業に就職したのはお父さんへの対抗心。ああ。お兄さんは弁護士さんなんだね。お兄さんとも張り合って生きてきたのかな」
「どうして、それを?」
「実は僕はね、神様なんだ」
「……神様?」
「そう。お母さんは君のことを心配してるよ。一週間前に御実家から届いた宅急便。まだ開けていないね?中にはお母さんからの手紙が入っているから、後で読むといい」
「でも。私……そんな、会社に行かないと」
言葉は潤んでいた。鼻をすする音も聞こえる。
「大丈夫なんだよ。大丈夫。みんな心配している。よく周りを見てみれば分かることなんだ。君は誰も助けてくれないと思ってるだろうけど、周りは、声を掛けてくれればいつでも手助けするよ、と思ってる。少し余裕があれば分かることだよ。でも今の君には周りを見るその余裕すらない」
「私、でも、でも……」
嗚咽混じりの声。ひっく、ひっくとしゃくり上げる。「甘え方、分かんない」
「大丈夫。分からないのなら、神様の僕が教えてあげるよ。今から上司の人に電話で『ごめんなさい。今日と明日、休ませてください』って言うだけだ。少なくとも二日は仕事を忘れてゆっくりしなさい。それで全て解決する。ほんの少し勇気を出してやってごらん。ここでほんの少しの勇気を出せば君の心は軽くなれるんだ。分かったね?」
「分かり、ました」
「休息を取ることはちっとも悪いことじゃない。神様が悪くないって言うんだから、悪いことのはずがないだろ。それと、僕が君の未来に素敵なプレゼントを用意しておくから、楽しみにして、ゆっくり休みなさい」
「プレゼント?何ですか?」
彼女の声が少しだけ張りを持つ。
実はプレゼントなんて何も用意していない。だけど誰しも生きていれば幸運、不運を繰り返す。彼女がこれからも生き続けさえすれば、ちょっとした幸運と一緒に喜びや幸せを掴んだときに、これが生きたことのプレゼントだと思える瞬間がきっと来る。
「それは見てのお楽しみだよ。いつか、ああ、これだったんだって思う時が来るから。じゃあね」〈切電〉
あぁっ。うぁあ。ぐぅう。
身を捩りたくなるような激痛が胸を襲う。太い杭を打ち込まれたかのようだ。苦しくて息ができない。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
バタバタと足音がして耳元に降り注がれた声は優香のようだ。しかし、胸が苦しくて、その顔を確認することもままならない。
「誰か呼んでこようか?看護師さん、呼んでくるよ!」
優香が俺の肩を叩きながら怒鳴るように言う。
しかし、俺は懸命に首を振った。
「待って。大丈夫だから、待って」
言葉として優香に届いただろうか。肩を叩く手にすがりつくようにして、俺は必死に首を横に振る。
大きな呼吸を心がける。痛みが分散され霧散していくイメージを思い浮かべる。少しずつ胸の痛みが軽くなっていく。やがて、四肢の力を抜きベッドに全身を委ねることができる。ゼーゼーと息をしながら優香を見上げると、彼女は目にうっすら涙を浮かべていた。
「何?今の。発作?あんなに苦しそうなのに、どうして誰も呼んじゃだめなの?おかしいよ。変だよ。死にたいの?」
優香は怒っていた。確かにがんに関連した発作であるなら医師の診察を仰ぐべきだろう。大きな瞳で睨まれて、俺は返す言葉がない。言葉がないから話題を捻じ曲げた。
「いつからいた?」
今日、来るなんて連絡はなかった。と言うか、前回の抗がん剤治療の時から一か月近く音信不通だった。てっきり俺のことは忘れたのだろうと思っていたのに。
「なんか、電話してるみたいだから、終わるまで外で待ってようって思って」
優香は一瞬表情を翳らせたが、ベッドの下に落ちている通話用ヘッドセットを掴んでキッと俺を見つめた。「何本も何本も電話して、何してるの?仕事なの?内職みたいなことなの?お金に困ってるの?」
どうやら随分前から聞いていたようだ。
優香は気の強い女だ。弁も立つ。そして、疑問に思ったことを疑問のままにして忘れるということができない性格だ。でも、腹を割って話せば、理解は速いし、味方にもなってくれる。聞かれてしまった以上は話した方が良いだろう。俺は震える手で吸い飲みを持ち、水で口を潤した。
「入院して数日経ったある日、悪徳投資の電話が携帯に掛かってきたんだ」
その時のことは鮮明に覚えている。登録のない電話番号だったが、何気なく出てしまった。入院生活が始まったところで、病院関係者以外の誰かと話したかったのかもしれない。三十歳ぐらいの男性の声だった。声を聞いた瞬間に脳天を鉈か何かでかち割られたような痛みに襲われた。そして不思議と脳裏にその人の抱えている悩みと考えが明瞭に浮かんだ。
彼は街金に多額の借金をしていて、街金とつながっている暴力団から脅され、とあるマンションの一室に押し込められ電話を掛ける仕事をさせられていた。台本通りに喋ればいいと言うことだったが、その台本どおりに事態が展開すれば犯罪であることは明らかだった。でも、やらなくちゃいけない。借金をしたのは自分だ。彼は来る日も来る日も渡された名簿の高齢者に対してうますぎる投資の話を紹介していた。しかし、心はすり減る一方で、仕事はいつ終わるとも知れない。もう死にたい。窓から飛び降りて死ぬしかこの場から逃れる道はないと思っていた時に俺に掛けてきた。電話番号を一つ間違ったみたいだった。
俺は一言目に「大丈夫だよ」と言ってやった。勝手にそう口から出ていた。そして、トイレに行くふりをして全速力で逃げて、交番に駆け込むように彼に告げた。
「確かめたの?」
優香が怜悧な目で俺を見る。
「何を?」
「その人が本当に死ぬほど悩んでて、あなたが『大丈夫だよ』って言ってあげたことで、命が救われたのかどうか」
「ニュースだよ。次の日の新聞で暴力団がらみの詐欺グループが一人の内部者の通報で一網打尽になったっていう記事が載ってた。内容は俺の脳裏に浮かんだものと一致していた」
その記事を見て俺は特殊な能力を身につけたってことを確信した。自分の命の終わりは間近に迫ってしまったけれど、誰かの命を救える力が俺に芽生えたってことを。それから、投資や商品販売の名目で毎日ランダムに電話を掛けている。ノートパソコンで管理しているデータを見れば週に一人ぐらいは救えていることが分かる。
見てごらん、とノートパソコンの画面を優香に向ける。
優香はしげしげとそれを見つめ、怒りから哀しみに変わった色の視線を俺にぶつけた。
「どうしても、やらなくちゃいけないの?電話の初めと終わりに死にそうになるぐらいの痛みや苦しみに襲われることが分かってるのに。そんなことで体力すり減らしてたら、治るものも治らないわ。もっと自分のこと、大事にしてよ」
「俺はもう助からないよ。医者にも見放されてる」
その証拠に医者も抗がん剤治療を辞めた。病棟が変わり、痛み止めしか処方されていない。いわゆる終末医療だ。「あの痛みは電話の相手の抱えている苦しみなんだと思う。だから、俺ができるだけ多く背負って、あの世に持って行く」
「そんな……」
「くそみたいな人生だったよ。貧乏な家に生まれ、母親は蒸発。何とか高校を出て就職したけど、会社はすぐ倒産。駆けずり回って新しい仕事に就いたけど、完全なブラック企業だった。逃げ出すようにして辞めてからはカラオケやらコンビニやらのバイトを転々とするしかなかった。そんな時に優香と出会って、少しは俺の人生も華やいだかなって思ってたところに体調不良で検査入院。まさかの末期がん宣告。ほんと絵に描いたようなくそだ。それでも、……こんな俺でも人の命を助けることができるって分かったんだ。今は、あと少ししか残っていない人生でできるだけ多くの人を助けたいんだ。俺にはもう時間がない」
「じゃあ、私はどうなるの?」
「え?」
「私はどうなるのよ。私、やっぱりあなたのことが好きだから、少しでも長い時間を一緒に過ごしたいと思ったから、ここに来たの。なのに、あなたはわざと命を削るようなことをして、私からあなたを奪ってしまう」
優香は俺の腕を両手で掴み、大きな瞳からぼろぼろと涙をこぼした。そして泣き崩れて、床に座り込み、ベッドに拳をぶつける。「何が神様よ。そんなの神様でも何でもない。私の大事な人を奪わないでよ。奪わないで……」
優香は「わーん」と大きく声を上げて、まるで子どものように泣いた。
大人の女性がこんなに泣くものかと、俺は困惑してどう声を掛けて良いか分からない。掛ける言葉がなかったので、頭を撫でることにした。
ゆっくりゆっくり髪を撫でる。優香の後頭部は意外に絶壁だなと思う。優香が嗚咽のたびに体を揺するのが掌から伝わる。
優香は為すがままだ。こんな優香を初めて見た。
「優香。分かったよ」
優香は床にぺちゃんと座ったまま俺を見上げた。
目は真っ赤で、化粧はぐちゃぐちゃ、顔全体が濡れそぼり、鼻で息ができないのか、だらしなく口を開けている。
「何が分かったの?」
「自分の体を大切にするよ。優香のために」
優香はこくんと頷いた。そしてそれでも俺の手に顔を擦りつけて、また「えーん」と泣き出した。
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