4-Ⅰ どこにもいない、誰かの事を。

 瀬波セナミ駿馬シュンメには。瀬波自身、何かを喪った筈なのに、それが全く思い出せないのだ。数年前に起こった研究所の爆発事件。その事件自体は反科学組織によるものであると結論付けられ、その犯人も捕まっている。そして、その事故で破壊されてしまった彼が乗る予定であったドッペルシュテルン――連星の名を冠した美しい宇宙船は、当初の予定よりも数年遅れで彼を乗せて月へと向かった。瀬波はあの事件の後から、自分ではどうしようも出来ない喪失感を感じていた。――いる筈の誰かが居ない。しかし、その誰かの名も、姿も声も、思い出す事は全くと言っていいほど出来なかったのだ。

「なぁ、エド。俺さ、お前の他に誰かと親しくしてたっけ」

 事件の後、瀬波は突然湧き出てきた喪失感を不思議に思い、同じ船に乗る予定であった親友にそう尋ねた事がある。瀬波の問いを受けた彼の親友は首を傾げながら「いいや?」と言葉を返す。「お前は誰とでも表面上は上手くやるけど、親しくっていうと思いつかないな」重ねられた言葉に瀬波は頷く。彼自身、全く覚えがないのだ。それは誰に聞いてもそうだった。「特別親しい相手は居ないと思うけれど」瀬波が問うた言葉に返されるのは、いつも似たような言葉だった。それでも彼は、どうしても不可解な喪失感を消し去る事が出来なかったのだ。月へ向かう宇宙船の中でも、月へ降り立ち小さくなった地球を静かに見詰めていた時も、そして一年間の任期を終えて地球へと戻って来てからも。ふとした瞬間、彼は思うのだ。

が居れば」「にも見せてやりたいな」

 そうして決まって瀬波はその想いと共に首を傾げる。その時に浮かぶというのが誰なのか、本当に存在する人間なのか、それを瀬波が判断する事など出来はしなかった。事件のショックで精神的におかしくなったという事も考えた。しかし、定期的に行われる心身のチェックはオールグリーン、問題なしと判断されて彼は宇宙へと向かう事が叶ったのだ。瀬波駿馬は今日も、月開発の英雄の一人として讃えられながら、航空宇宙工学の技術者として変わらず働いている。変わった事と言えば、月開発の任期を終えて地球に戻って来てからというもの、彼の元に様々なパーティーの招待が舞い込むようになった事位だろう。

 

 パーティーの招待があっても基本的には仕事を理由に欠席する瀬波であったが、それでも断り切れない招待というものがいくつかある。今回の招待もその一つであった。日本にある企業とスイスに出来た科学研究所が合同で主催するそのパーティーは、彼の所属する研究所としても架け橋を作っておきたい相手であったらしい。上司からの命令で出席する事となったそのパーティーに、瀬波は嫌々ながらもその会場へと向かった。着慣れていない細身のスーツを纏った瀬波が手持ち無沙汰にその場に立っていれば、一人の男から声が投げられる。

「久しぶり」

 柔らかな日本語で投げられたその声は、彼にとっても聴き慣れたものであった。ゆっくりと視線を投げれば、そこに立っていたのは人好きのする笑みを浮かべた瀬波よりも少し年上である日本人の姿であった「浩介コウスケか、久しぶりだな――そうか、今回の主催はお前の所も噛んでたな」浩介と呼ばれた男――篠原ササハラ浩介コウスケは「そういう事」と笑う。彼らは互いが今よりも随分と若い時分に共に暮らしていた事があったのだ。篠原が瀬波の勤める研究所に出向して来た時の一年間、彼らは瀬波の家で暮らしていた。篠原が日本に戻ってからは交流を持つ事はなかったが、久方ぶりの再開を果たした二人は離れていた時間など無かったかのように互いに笑みを浮かべる。

「そうそう、今日は紹介したい相手が居てさ。俺がお前の事知ってるって言ったら紹介してくれって凄い勢いで言われてな」

 からりと笑いながら篠原はそう告げる。その言葉に首を傾げた瀬波に笑みを深めた篠原は、彼の後ろに立っていた二人分の人影に目配せをする。そこに立っていたのは、瀬波とさほど歳が変わらないだろうアジア系の男と若く美しい一人の女性であった。

「合同主催の研究所長とその娘さん。フェルマー氏とソフィアさんだ」

 篠原が紹介した二人は瀬波の前に立ち、笑みを浮かべる。所長であるフェルマーは眼鏡の奥で深いグリーンの瞳を柔らかく細め、その右手を差し出す。

「トキツグ・フェルマーです。今回はお越しくださりありがとうございます」

「こちらこそ、ご招待頂きまして」

 軽く握手を交わす二人の男の隣で、美しい女性は瀬波へと真っ直ぐに視線を向けていた。その視線に気付いた瀬波は、彼女へと視線を向ける。

「私の養女なんです、ソフィアが貴方に逢いたいと騒ぐもので――少しだけ職権を乱用してしまいました」

 恥ずかしそうに笑い、瀬波を招待した理由を口にするフェルマーに「確かに、こんな可愛らしい娘さんの頼みなら叶えたくなりますね」と告げながらも、瀬波の視線はその美しい人形のような相貌に釘付けとなっていた。ソフィアと紹介された彼女は嬉しそうに笑みを浮かべながら緩くウェーブの掛かった肩口までの淡いブロンドを揺らし、ダークブルーの瞳で瀬波を見詰める。

「ソフィア・フェルマーです。雑誌で見てからずっとファンだったの」

 瀬波と出逢えた事が心から嬉しいとでも言うように、頰を薄っすらと朱く染めながら甘やかに瀬波のそれによく似たダークブルーの瞳を細めるソフィアの姿に、何故だか瀬波は視線を動かす事が出来なかった。

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