フクシマ

酒井小言

第1話

 鈴木が眼を覚まし上半身を起こした。紺色のジーンズを履いた下半身が、赤い花の咲く躑躅[つつじ]の根元に突っ込んでいる。腿から下は完全に埋もれている(エッ? 何ダコレハ?)。魂消た鈴木は足を引き抜いて立ち上がり、周囲を見回した(ココハ何処ダ?)。薄緑の葉が茂る潅木に囲まれた、登山道らしき傾斜の緩やかな道に突っ立っている(一体ココハ何処ダ?)。黄土色の地面は乾燥していて、石がほとんど混じっていない。


 訝しい顔つきを保ったまま(何デ俺ハ、コンナ所ニイルンダ?)、忙しない眼を周囲に配りつつ細い道を下って歩くと、右前方の道の外れに巨大な塊がうずくまっている。鮮やかな茶色の毛に包まれた巨大な猪が、三匹固まって眠っているのである。さらにその遠く道の左側では、太腿たくましい鹿がつぶらな眼を鈴木に向けている。度肝を抜かれたが(オオ! 野生ノ獣ダ!)、鈴木は声もあげずに足を動かした。


 眠る猪を通り過ぎて雄々しい鹿に近づくと、鹿は一寸ばかり身動ぎをするも平然と鈴木を見つめ続ける。鹿の脇を通り過ぎると(立派ナ鹿ダナ、何年グライ生キテイルンダロウ?)、鹿は首を回して見つめ続けた。


 そのまま細い下り道を歩き続けると、数種の獣とすれ違った。狸に狐、猿、熊、虎、土竜、牛、羊、象、イタチ、パンダ、アイアイ、モモンガ等々、大小様々、食い気の異なる獣と眼を合わせた。どの獣も見事な艶の毛を生やし、強烈な好奇の眼で鈴木の歩みを見つめた。逃げることも襲い掛かることもなく、動物特有の愛らしさをもって見つめるだけであった。鈴木は恐れ慄くどころか(何デソンナニ、ジロジロ見ルンダヨ)、繁華街を裸のまま歩いているような恥しさに、どうにか我慢しているようだった。


 十分もすると、遠くに古めかしい木造の小屋が見えた(ヤッタ、小屋ガアルゾ! 誰カ居ルカモシレナイ)。下り坂に勢いをもらい、腕を振って小屋へ向かう。眼を丸くした栗鼠の横を通り過ぎると、舞い上がった砂埃に驚いて潅木の茂みに引っ込んだ。


 小屋に近づくと、屋根をまたぎ両側の壁面から潅木の茂みに向かって、色あせた緑のフェンスが張られていることに気がついた(恐ロシイ大キサノフェンスダ。コンナサイズ、見タコトナイゾ)。歪むところのない頑丈なフェンスは、鈴木の上背を三十重ねるほどありそうな高さである。鈴木は小屋の前に立ち止まり、一呼吸置いて(誰カ居ルトイインダケド・・・・・・)、壁面と同じ茶色のドアをノックした。


 額の汗を袖で拭いさると同時にドアが開き、チェック柄の襟付きシャツを着た細面の老人が姿を現して、「おや、こいつは驚いた!」と言う言葉とは似つかない鈍臭い笑みを浮かべる。


「すいません、ちょっと訊ねたいことがあるんですが・・・・・・」鈴木は申し訳なさそうに(アア良カッタ! 人ノ好サソウナ爺サンダ)老人に話しかける。


「ああ、どうぞどうぞ、中に入ってくださいな」老人はさらに顔を皺くちゃにさせて、鈴木を中に招き入れた。


 明るい色した木製の事務机が、部屋の中央にぽつんと据えられている。向かいには別のドアがあり、その側に色の濃い三人掛けのベンチが壁にかかり、純白の給食服を着た老婆が小さく座っていた。小柄な老婆は湯飲みをすすっている。鈴木が会釈するより先に、老婆は顔を変えず深々と頭を下げた。


「今茶を入れますから、どうぞ椅子に腰掛けてくださいな」老人が事務机の椅子を引く。


「あっ、はい・・・・・・ えっ、あの・・・・・・ ここは何処ですか?」鈴木は椅子に眼もくれずに老人に訊ねて、すぐに老婆へ顔を向ける。


「はっはっはっ、山からおりてきたというのに、おまえさんは変てこなことを訊くもんだな、なあ田畑さん?」事務机の上に置いてある魔法瓶に手をかけて、老人はベンチに座る田畑さんに眼をやる。


「平助さんや、そう笑うもんじゃないよ。お若い者が突拍子もなく言うぐらいだから、何かわけがあるんだろうさ」顔色変えず田畑さんは話す。


「いったい、ここは何処なんでしょうか? おかしな質問かもしれませんが、どうか教えてもらえないでしょうか?」笑われたことを気にもせず鈴木が再び訊ねる。


「ここは○○山麓の小屋だよ。ほら、おまえさん、山からおりてきたのだから、登る前にこの小屋を一度通っているはずだよ? 忘れたかい?」平助さんは白茶の湯飲みに茶を注ぐ。


「○○山? 初めて聞く名前です。何処にあるんですか?」鈴木の眉が少しばかり曲がる。


「こりゃおかしい! 山の名前を知らずに山からおりてくるばかりか、山の場所さえわからないとは!」平助さんはたまらず笑い声をあげる。


「平助さん! まじめに訊ねる者に対して失礼だろ! お若いの、ここはフクシマの○○山だよ」田畑さんは平助さんをきっと睨んでから、落ち着いた声で鈴木に話しかける。


「フクシマ!」鈴木が驚いて声を出す。


「そんなに驚くとはね。お若いの、あんた一体どうしたんだい? そんなところに突っ立てないでさ、ちょっとここに座って、事情を話してごらんよ」田畑さんが呆然とする鈴木に手招きする。


「そうだそうだ、頭の鈍った老人に納得できるよう、ちょっとばかり身の上話できんか?」やけにうれしそうな顔して鈴木に茶を手渡すと、平助さんはベンチ指して手を伸ばす。


「ああ、すいません」


 湯飲みを両手に添えて鈴木はベンチ向けて静かに歩き(ナンテコトダ、此処ハフクシマカ)、おもむろに腰かける。平助さんは事務机の椅子に腰掛ける。老人二人からの視線を尻目に茶を一飲みすると(温イ梅昆布茶ダ)、鈴木は体が萎むほど息を吐いてから話した。


「あの、とても信じられないかもしれませんが、わたしさっきまで家で寝ていたんですよ。それが眼を覚ましたら、此処の山道で起きまして・・・・・・」爺さん婆さん交互に眼を向ける。


「はっはっはっ、おまえさんのは家は○○山かい? 途方もなく大きい家に住んでいなさるな、こいつはたまげた! とすると、おまえさんは天狗かい? それとも神様かい?」平助さんが豪快に笑い出す。


「うるさい爺さんだ! 人が真剣に話すのを邪魔するんじゃないよ! お若いの、じじいに気にせず話を続けるんだよ」皺の浮く顔から、田畑さんが年季の入った睨みをきかす。


「いえいえ、笑われるのもあたり前なので、どうぞ気にせず笑って聞いてください。わたし自身、頭がおかしくなったのかと疑うほど、随分おかしな出来事ですから。むしろ、実際頭がおかしくなったのかもしれません。ふり返って考えてみても、どうも現実離れしていて、自分自身で笑ってしまいます。ははは、一体わたしはどうしたんでしょうか・・・・・・」鈴木は渋い顔をしてひきつっている(ハハハ、ハハハ)。


「いや、すまんすまん、もう笑わんから気を悪くせんでくれ。わしはどうも周囲を気にせず笑い出す癖があっての、笑いの虫が突然こみ上げてきて、自分でも抑えられんのじゃ。そのせいでな、若い頃から冠婚葬祭にはあまり好い思い出がなくてのう、亡くなった婆さんと初めて顔を会わした縁談では、そりゃひどい体たらくなもんで、物好きな婆さんでなかったら、とても結婚なんぞできるもんじゃなくてのう、ほんとおっ恥しい目にあったもんさ、そればかりか、婆さんの葬式でもえらい恥をかいてしまってな、周りの方々からひどい叱責をうけたもんで、またその叱責がわしの笑い袋を刺激してのう、ほんとひどいありさまじゃった、もう婆さんとの出会いから別れまで笑い通しで・・・・・・」平助さんが慣れた調子で話しだす。


「じじい! あんたの話はいいんだよ! ちょっと黙っといてくれ」


 田畑さんが大声を出して手を振りあげる。鈴木は微笑みながら茶を口に入れる(フフフ、カワイソウニ)。


「平助さん、あとで話の続きを聞かせてください」鈴木がうれしそうに言う。


「おお、いいともいいとも、いくらでも話してやろう、わしの突飛な笑いといえば村中の者の評判でな、冠婚葬祭がある度に・・・・・・」平助は椅子から立ち上がり、鈴木に歩み寄ってくる。


「うるさい! じじいがしゃべったら話が進まんだろ!」


 田畑さんは地に落ちていた小枝を拾い、平助さん目がけて投げる。頭に力なく小枝がぶつかり、「すまんすまん」言いながら平助さんはへこへこと椅子に戻る。それを見て(話シテモ大丈夫カナ?)鈴木は緩んだ口を開いた。


「わたしは東京の世田谷に住んでいます。住むといっても、アパートでの一人暮らしですが・・・・・・ それで今日の昼間、仕事が休みをいいことに、アパートで映画を見ていたんですよ。恥ずかしいことに何も予定がなくて、一人で菓子を食べながら、こう、寝転がっていたんです」


 鈴木は首を横に傾げて耳に手をあてると、上半身を弓なりに反らす。


「退屈な映画を選んでしまったせいで、集中しきれずにぼんやりと観ていたんですよ。たぶんその間に寝てしまったんでしょう、それからふと眼を覚ましてみると、見知らぬ野外に寝転がっていました。それも呑気なことに、赤い花の咲いた躑躅をかけ布団代わりにです。本当にびっくりしました」


 鈴木が左手を顔の傍に持ち上げて、痙攣するように震わせる。


「わしゃこれでも、人生長く生きとるつもりじゃが、そんなけったいな話聞いたことないのう。なんだか狐につままれたような心持じゃ」平助さんは背もたれによりかかり、机の上の湯飲みに手を伸ばす。


「ええ、そんな狸に化かされたような人、あたしもてんで聞いたことないね」田畑さんが神妙な面持ちで頷く。


「ええもちろんです、わたし自身いまだに信じられません。なんだか、こうして話しているのも、夢の中にいるような気がしてしまいます・・・・・・」そう言って鈴木は茶をすする(ホント、ドウシチャッタンダロウ・・・・・・)。


「そいつはたしかに夢のような話じゃのう、けれど夢となっちゃあ、わしは一体なんなんだろうな? はっはっはっ、あんたの夢の中にいるのだとしたら、眼を覚まされたら困っちまうぞ!」平助さんが両手を大きく広げて話す。


「ええ、ほんとですね。けど、平助さんを見ていると、わたしの夢では思いつけないほどユニークですよ」鈴木は平助さんを見てから、田畑さんに顔を向ける。


「夢じゃあないとすると、あれかい、眠っているうちに、映画の世界に飛び込んじまったてやつかい?」平助さんは眼をひん剥いて話す。


「ははは、だとしたら、平助さんも田畑さんも、若いアメリカ人じゃなくちゃおかしいですよ」鈴木はくすくす笑う(マサカ、コンナ老人ノ出テクル場面ハナイダロウナ)。


「おい田畑さん、困ったことに、わしら実はメリケンらしいぞ! あの太平洋戦争での勇姿は何だったんじゃ? 本当はとっくにおっちんでいたのかい?」平助さんが勢いよく突っ立って背筋を立てる。


「馬鹿言うんじゃないよ平助さん! お若いのも、暇な爺さんの相手なんかせんでいい。それでなんだい、歩いて小屋へやってきのかい?」田畑さんの眉間には幾重の皺が寄っている。


「あっ、はい、すこしばかり歩いたらこの小屋を見つけました。そういえば、途中獣だらけで驚きました。野生の獣なんかほとんど見たことありませんから、最初は襲われるかと思って心配しました。でも不思議ですね、どの獣もわたしをじっと見るだけで、何もする気配がありませんでした。熊が現れた時はどうしようかと思いましたが、静かに歩いていたら見過ごしてくれましたよ。それからは虎や象が現れても、なぜか安心して過ごすことができました」


 鈴木は田畑さんの細い眼を見つめて話した(ナンテ力強イ眼ヲシテイルンダ)。


「ああ、やつらは皆立派な生き物じゃよ」田畑さんが重々しく話すと、同時に平助さんもゆっくりと頷く。


「そうですか・・・・・・、それにしても、張られたフェンスは立派ですね? あれだけのフェンス見たことないですよ」鈴木は田畑さんから平助さんに顔を移す。


「ああ、そうじゃ、○○山は恐ろしいからな」


 平助さんがやけに真面目な顔して話すと、ふと会話が止まった。続きを話し始めるのを待つ鈴木は(二人トモ急ニ大人シクナッタナ)、眼で問いかけるよう老人二人を交互に見やる。二人とも考え込むようにじっとして微動だにしない。都会では聴くことのない小鳥の囀りが、長いフレーズを重ねてどこからか響いてくる。鈴木は息が詰まった(ナンダカオカシイゾ? 変ナ事ヲ訊イテシマッタノカ?)。


「平助さん、あたしはお暇するよ。そろそろ仕事に戻らないとね」田畑さんがそう言っておもむろに立ちがあがる。


「おお、そうかそうか」平助さんがつられて動き出す。


「お若いの、どうだい、腹は減ってないか? あたしがちょっと食わしてやるからついてきな。すぐ東京へ戻るにしても、飯食う時間ぐらいはあるだろう?」幾分背中を曲げたまま田畑さんがドアに近づく。


「えっ、はい、助かります。ちょうどお腹が空いていたので、でも、平助さんの昔話をまだ聞いていないので・・・・・・」鈴木は確かめるように平助さんを見る(行ッテイイノカナ?)。


「爺さんの昔話なんざ、打っちゃっておけばいいさ。さあ、行くよ」田畑さんはドアを開ける。


「おいおい、孤独な老人に向かってひでえ言い草じゃな。まあいいさ、なあお若いの、とんだ目に遭っちまったが、せっかくフクシマにいるんだからゆっくりしていきなされ。なんも予定がないなら、すぐに東京に戻らずに、またわしの小屋に遊びにきなされ」


 平助さんは立ち上がった鈴木の背中を無遠慮に数度叩く。


「まだ何も考えていませんが、フクシマに残るようでしたら、もう一度顔出します。まだ昔の話も聞いてませんから、あっ、梅昆布茶おいしかったです。ごちそうさまでした」鈴木は小さく頭を下げる(何デ老人ハ、コウ、馬鹿力ナンダロウ)。


「ああ、いいっていいって、せっかくの縁だ、東京に戻ってもまた遊びにきなされ、ただし、遅くなると爺さん天国にいるかもしんねえかんな。はっはっはっ!」平助さんは豪快に笑い、今度は鈴木の肩をばしばし叩く。


 陽気な顔して見送る平助さんを何度も振り返り、鈴木は老人らしいのんびりした足取りの田畑さんについて行った。


 所々くぼんだ小石の混じる地面を歩き続けると、田畑さんにおびえて避けるように両側の木々は離れて、道は随分と広くなった。すこしするとアスファルトの道路につながった。小屋を出たきり言葉を発しない田畑さんは、後ろからついてくる鈴木を確認すると、道路を左に折れる。先程の山についての質問が頭にこびりついてしまい(マタ変ナ事訊ネテ、気マズイ思イスルノハ嫌ダナ)、鈴木は自ら話題を持ち出す気になれなかった。弓なりに曲がる田畑さんの背中を見て(年齢ノ重ネト共ニ、風格ガ増スンダロウナ。小サナ体ナンテ問題ニナラナイゾ)、山で見た動物達を思い出す。


 東京の新興住宅街には見られない昭和らしき家々が、互いの距離を気兼ねすることなく畑を挟んで建っている。「畑の主は此処だ!」と云わんばかりに、存在感のある立派な家ばかりである。わずかにひびの入ったアスファルトの上には、東京でも見ることのできる車が悠々と通り過ぎる。鈴木はフクシマを生まれて初めて見た(フクシマッテイヤ、フクシマカモ知レナイケド、フクシマナンテ想像シタコトナイカラナ。マダ中国ノ方ガ想像デキル。ナンカ不思議ダ)。


 黄色のゼラニウムが一面に咲き広がる花壇を過ぎると、田畑さんは花壇の脇に建つプレハブに足を向けた。黄色が斑々する花々に見とれていた鈴木は(鮮ヤカ過ギテ、コノ世ノ物ラシクナイナ)、プレハブの入り口に近づく田畑さんに駆け寄る。振り返った田畑さんの顔に、かすかな笑みが浮かんでいるように見えた(皺ダラケデ判断ガツキニクイ。アレグライノ歳ニナルト、怒リモ笑イモ、同ジ顔デ済ムノカモシレナイ)。


 引き戸を開けると、田畑さんはすたすたと中に入った。入り口の平石の上で鈴木はたたずみ、体を心持前に倒して覗きこむ。田畑さんと同じ白衣を着た人が幾人確認できたところ、「東京からお客さんがやって来たから、あんたらもてなしてあげなさい」田畑さんは威勢好く声を響かす。間髪入れずに、男女混じった若い返事が重なった。


「ほらお若いの、遠慮なく入りな。すぐに飯を用意させるから、ここに座って待ってな」干からびた手で田畑さんが招く。


「どうも、失礼します」鈴木は板張りの床に足を踏み入れる(田畑サンハ、此処ノ親分ナノカ?)。


 桜材らしき重厚なテーブルの前に鈴木が座るのを見て(迫力ノアルテーブルダ)、田畑さんはすたすたと奥の部屋へ入ってしまった。鈴木は心細く田畑さんの背を見送るとすぐ(アア、行ッチャッタ)、上背のある姿に似つかわない、小動物らしい警戒を周囲に向ける。


 目の前には猫目の女が座り、その隣には、ピンポン球のような頬を張らした女がテーブルに手を置いていた。右奥には、鷲鼻の男が立ちながら茶の用意をしつつ、傍に立つ餃子のような耳した男に声をかけている。全員してくらげ形の帽子をかぶっている。どうやら十代後半のようである。


「お兄さんお兄さん、東京から来たの? 何? なんで来たの? 婆ちゃんの親戚? 観光しに来たの?」猫目の女は鈴木に眼を合わせ、思うままに話す。


「吉ちゃん、観光はないよ。東京の人がわざわざ、こんな何もない田舎に来るわけないじゃん。婆ちゃんの親戚で郷帰りに来たんだよ。ほら、前に婆ちゃんがさあ、尻からサナダムシが出てきた甥っ子の話をしたことあるじゃん? きっとその甥っ子がこのお兄さんだよ」頬の張った女が吉ちゃんをさえぎる。


「わからないよ慶ちゃん、○○山や△△山があるじゃん。このお兄さんは登山家で、ちょっとばかし体を慣らしに来たかもしれないじゃん」吉っちゃんが大きい眼をさらに開かせる。


「あんなのただの山じゃん。なんで名の知られてない山に、東京の若いお兄さんが山登りに来るわけ?」慶ちゃんが二度ばかり鈴木の顔を見る。


「そんなの知るわけないじゃん」吉ちゃんは平然と答える。


「おいおまえら、茶の用意もせずに、お客さんの前で失礼な態度とるなよ。お兄さんが困ってるだろう」鷲鼻が鈴木の目の前に湯飲みを置く。


「そうだぞ、本来こういうのはな、女がするもんなんだぞ」餃子の耳が次いで話しかける。


「なによ浩二、あんたが率先して動いたんじゃんよ」吉っちゃんが鷲鼻の浩二に向かって話すと、「初男、あんたなんかくっついてるだけで、何もしてないじゃん! 偉そうにして何様のつもりなの。わたし達がお客さんをもてなしていたのが、あんたにはわかんない?」餃子の初男に向かって文句を叩きつける。鈴木は薄ら笑いを浮かべて黙っている(弱ッタナ、人ノ話ヲ聞カナイ、自由奔放ナ高校生バカリダ)。


「あんなのはもてなすって言わねえぞ、もてなっすてのはな、もっと大人らしくやるもんだ」浩二が鈴木の隣に座る。


「そうだ、そうだ、もっと大人らしくやるんだぞ」初男は鈴木を挟んで座る。


「大人らしくってどういうこと?」慶ちゃんは初男に目もくれず、浩二に向かって言う。


「ぎゃあぎゃあ話すんじゃなくてよ、もっと、こう、大人らしく受け答えるんだよ」浩二がはっきりと言いきる。


「そうだよ、おまえ達のはただ喚くだけだぞ」浩二が句を切ると同時に、初男は偉そうに話す。鈴木は湯飲みの口に息を吹きかけている(コイツハマイッタ! フクシマニ居ル理由ヲ話シタラドウナルンダ? トテモマトモニナンカ話セナイ)。


「あんたら馬鹿じゃない? ぜんぜん説明になってないじゃん! おつむの足りない口じゃわからないから、実際に試してよ、ほら、初男、あんたちょっとお兄さんをもてなしてごらんよ。ねえ」吉ちゃんは笑いながら話す。


「あはは、だめだって吉ちゃん、柔道しか知らない受身男に、東京の人をもてなせるわけないじゃん」慶ちゃんは口を開けて笑う。


「馬鹿にすんじゃねえおまえら! 初男は受身だけじゃなくて足技だってできるんだ、もてなしぐらいできんぞ。なあ、初男、ちょっとこいつらに、大人らしいもてなしを見せてやれ」


 浩二は鼻先まで真っ赤にすると、信じきったようすで初男に話しかける。間に挟まれている鈴木は、飲んでいる茶を噴出しそうになる(オイオイ、初男君ニ何ガデキルンダ? 一体ドンナモテナシヲサレルンダ? オ願イダカラ普通ニ放ッテオイテクレ)。


「お、おう、大人らしいとこ見せてやるぞ」


 異常な力でこぶしを握り固めた初男は、痙攣したように首を上下に振りながら浩二に返事する。浩二も同様に首を振り、光を放つほど眼をぎらつかせている。女子二人は眼を合わせて、耳をつんざく笑い声をあげている。


 女子の笑いが収まり、妙な静けさをもって、鈴木を含めた四人は初男の動静に注意した。初男はあれこれ頭を巡らしているらしく、沈黙をつつく自らの鼻息の荒さに気がつかない。


 考えているばかりで初男は一向動き出さない。女子二人は両手に口をあてて必死で笑いをこらえている。浩二はたまらず、「初男、がんばれ! がんばれ!」余計な声をかけると、「お、おう」初男もあわてて返事をする。落ち着かずにちびちびと茶ばかり飲んでいる鈴木は、またもや噴出しそうになった(コレハヒドイ! モウ罰ゲームジャナイカ。ソレモ、罰ゲームノ相手ガ自分トハ)。


 するとようやく初男が口を開いた。


「こ、こ、講道館ば、行ったことありますか?」どもりがちの声が聞きとりにくい。


「え、えっと、まだ行ったことはありません」鈴木もつられてどもってしまう。


 それを聞いた女子二人が強烈に破裂すると、それを見た浩二も負けじと破裂した。鈴木が苦笑いを浮かべる(シマッタ! 気ヲ利カセテ、モットマシナ返事ヲスルベキダッタ。ツイツイ、真正面カラ受ケ答エテシマッタ!)その隣では、うつむいた初男が鼻息ばかり激しくしていた。


 そこへ突然奥の扉が開かれた。背の曲がった田畑さんが前に立ち、その後ろには顔立ちの整った女性が、給食らしい食事を左右の手に持って現れた。その女性は給食盆を持っているが、なぜか黄色い衿付のワンピースを着ている。テーブルを挟んで対峙する若者達は早々に席をはずし、笑いの余韻を残したまま奥の部屋へ去っていく。鈴木は若者達に目配せすることも忘れて、その女性の姿に釘づけになっていた。


 田畑さんと女性がゆっくりとテーブルへ歩み寄る。給食盆の一つを鈴木の目の前に置くと、女性は静かに鈴木の正面の席についた。それを待っていたように、テーブルの端に立つ田畑さんが口を開く。


「この子もあんたと同じでな、昨日の昼、突然△△山からおりてきたんだよ・・・・・・」

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