デート

あね

デート

寝室の角に置かれた水槽。



メダカがひらひらと、水の中を泳いでいる。

時刻は10時を少し過ぎている。



私は何故こんな時間に、ベッドの上で座っているのだろう。


私にはするべき仕事がたくさん残っている。のんびりしている時間などないのだ。

ベッドから立ち上がろうとした時、妻が寝室にやってきた。


「あ、お父さん。ちゃんと寝ててくださいって言ったじゃないですか。」

「…ダメだ、やっぱり会社に行く。もう大丈夫だから。」

「ダメですよ。明日までお休み頂いたんですから。ぶり返しても困るんで、寝ててもらいます。」

「何言ってるんだ。今大事な時期なんだよ。風邪くらいで大袈裟なんだよ。」

「あら、会社の方から長期休暇を勧めていただいたんですよ?」

「なに?」

「『部長は働き過ぎなので』とか『いくらでもゆっくりして頂いて大丈夫ですよ』とか。いい会社ですね。」

「ふざけるな。俺がいなきゃロクに資料もまとめられないヤツらだぞ。誰が面倒見てやってると…」

「はいはいはい。怒るとまた熱出しますよ。とりあえず今日はダメです。」

「ダメでも行くからな。」


私はベッドから立ち上がる。遅刻だが、そんな事は気にしていられない。大事な商談を間近に控えていると言うのに、資料が穴だらけなのだ。

昨日まで熱でうなされていたので部下がなんとかしているだろうが、正直信用ならない。


「スーツはどこだ。」


クローゼットの中が、空っぽになっていた。


「クリーニングに出しましたよ。」

「なに。全部か?」

「はい。明日までお休みですから、いい機会ですね。」

「ふざけるな!」

私は妻を怒鳴りつけた。


「はいはい、ジーンズでいいですか?」


妻はケロッとしている。

普段は私の言う事に文句1つ言わず、一歩下がって着いてくるような妻が。


「そんな格好で出勤できるわけないだろ!」

「じゃあ休むしかないんじゃないですかね?」

「いい加減にしろよ。なんのつもりだ。」

「いい加減にするのはお父さんですよ!!!」


突然妻が大声を上げた。

初めて聞いた妻の怒鳴り声に、私は怯んでしまった。


「お、お前…。」

「子供じゃないんですから!!いい加減折れてください!…出歩くのは構いませんけど、今日くらいはお仕事の事も忘れて息抜きしてくださいな。」


「…あ、あぁ。」

私は妻の勢いに圧倒され、ベッドに腰を下ろす。


「コーヒー、持ってきましょうか?」

妻はいつもの様子で私に問いかける。

「あぁ、ありがとう。」


妻に怒られなんだか釈然としないが言い返す言葉もないので、今日はゆっくりさせてもらうことにしよう。仕事の事を忘れる、と言うのは無理だろうが。


「はい。熱いですよ。」

「ん。」

妻は寝室に置かれた化粧台に腰下ろした。鏡を背にして、こちらを向いている。


「なぁ。」

「はい?」

「初めて怒られたな。」

「あら、そうでした?昔もこんなことありましたよ?」

「昔?いつだ。」

「結婚する前の話ですけどね。20代の頃ですよ。」

「それはまた昔の話だな。覚えてない。」

「ふふ。」

妻はコーヒーカップを片手に微笑む。


「お父さんがどうしても結婚したいって私に言ってくれたんですけど、お金が無くて結婚式を挙げられないって嘆いてたの覚えてます?」


「あぁ…。あったな…。」

「私は式なんてしなくていいって言ったんですけどね、お父さん、どうしてもドレスを着せたいって。やだ、恥ずかしい。」

妻は口を手で覆った。

指輪がチラリと見えた。


「お父さんそこから頑張って働いてお金稼ぐって。必死になって働いて。私の心配も他所に、働き過ぎなくらい働いて、倒れて入院しちゃって。」

思い出した。病室で怒鳴られた。

その光景が、鮮明に蘇る。


「『いい加減にしてください』、だったな。」

「あら、ふふふ。そうですよ。嫌ですね、同じこと言わせないでください。」

嫌ですね、なんて言いながらも妻は嬉しそうだ。


「あ、お昼どうします?」

時刻は11時を少し過ぎている。


「…どこかに出かけようか。」

「まぁ!珍しいですね。」

「たまには良いだろう。休みだからな。」

「ふふふ。お父さん、何着て行かれます?」

何か違和感のある質問だった。

「なんだ?」

妻は化粧台の奥からガサゴソと何かの袋を取り出した。


「1日早いんですけどね。これ、どうぞ。ふふ。」


妻が袋から取り出した、見覚えのあるコート。

どこで見たのかは定かではないが、確かに見覚えはあった。


「古着なんですけどね。丁度さっきの話くらいの、若い頃にお父さんが欲しい欲しいって言ってたコートですよ。覚えてます?」

「あっ。」


思い出した。


デートで良く行っていた商店街。


ショーケースの中のマネキンが着こなしていたコート。

お金が無くて、買えなかった。

あのコート。


「結局、結婚してからすぐに季節が変わって、このコートもお店から無くなっちゃったんですよね。」

「あったな。懐かしい。」

「ふふ。結婚記念日は明日ですけど。よかったら着て行ってください。あ、古着、抵抗あります?」

「…ああ、大丈夫だ。ありがとう。」

「突き返されたらどうしようかと思いました。」

「はは。そんなことするか。よし、準備するか。」

「はい。」


あの頃から、私は何も変わっていないのかもしれない。

仕事一辺倒で、大事な事を忘れているような私に、妻はずっと着いてきてくれている。

明日は私が、妻にプレゼントを贈ろう。

丁度私も思い出したのだ。

何も言わなかった妻が、見惚れていたコートを。

感謝の気持ちを込めて、プレゼントを贈ろう。

見つかればいいのだが。


玄関の鍵を掛け、車に乗り込む。




「普段着もクリーニングに出されたのかと思った。」

「嫌ですね、しませんよそんなこと。ふふ。さ、何食べましょうか。」





デート

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

デート あね @Anezaki_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ