第86話

 今日も遅く帰宅したドナは、グロートに出て池の金魚に餌をやった。


 見上げると、ひしめくトタン屋根の尾根の上に、大きな月が見えた。ドナは、ブドウ園で佑麻と見た月を思い出した。あの時は、佑麻を想い出の中に封じ込めようと決心しながら見た月だ。今、同じ決心ができるだろうか。


 大学の門前で佑麻を拾って以来数カ月、彼は異国の知らない人たちと関わりながら暮らした。決して迎合することなく、自らのアイデンティティーを保持しながら、こちらの人と暮らしを受け入れ、そしてドナの目からは同化していったようにさえ見えていた。

 しかし、佑麻はこちらでの生活を望んでいないようだ。


『ジャパユキの私たちにとって、日本人と結婚するということは、自らの祖国を捨てなければできないこと』


 以前聞いた叔母のノルミンダの言葉が頭をよぎる。

 私は彼とともに生きたい。彼もまたそれを望んでいてくれているようだった。しかし彼の申し出に、自分の口から出てきたのは拒否の返事だった。ここまで自分を追いかけてくれてきた男に、なんであんなことを言ってしまったのだろう。後悔とともに、だからといってあらためて答えるべき返事も浮かばず、どうしたらいいのかわからなかった。気がつくと、マムが立っていた。


「ドナかい?遅かったね」

「マム。起こしてしまったかしら、ごめんなさい」


 マムはドナの横に腰掛けた。


「最近、いつも遅いから心配だよ。身体は大丈夫かい?」

「ええ、ジョンに頼まれた仕事はもうすぐ終わるわ。そうすれば落ち着くでしょう」

「お前の帰りが遅い理由は、それだけではないだろう?」


 ドナは黙って答えない。


「ユウマと顔を合わせるのがつらいのじゃないかい?」


 母親は、娘の心を見通していた。ドナは、先日のラジオ局でのことをマムに話した。


「マムやみんなを残して、ユウマについて行くことはできない」


 ドナはついに泣き出してしまった。マムは、娘の肩をだいて言った。


「ドナや。人の幸せは、何を食べるかではないよ、誰と食べるかなんだ。ましてや、どこのどんな家に住むかでもない、誰と住むかなんだよ」


 マムはドナの頬に伝う涙を指で優しく払う。


「明日はユウマが戻る日だ。これ以上避けていても仕方が無い。ユウマはもう寝てしまったようだが、ユウマの寝顔を眺めにいってごらん。きっと答えが見つかるから。」


 そう言うと、マムは自分の寝室に戻っていった。

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