第67話
昼に講習が予定されていたある朝。
例によって、ソフィアに蹴られて起こされた佑麻は、歯を磨こうとバスルームへ向かう。鏡の前で眠い目をこすりながら歯ブラシを探していると、ソフィアが真新しい歯ブラシを持ってきた。
「マムがこれ使いなさいって」
家に婿を受け入れる時は、まず箸と歯ブラシを与えるというが、この国も同様であろうか。佑麻はニンマリしながら歯を磨いた。
その日の講習は女性が多かった。フィリピン女性の社会意識は非常に高い。佑麻はマイクを片手に、空調もないホールで汗だくになりながら説明していた。
美しい線を描くあごから滴り落ちる光る汗。Tシャツから時折のぞかせる割れた腹筋。ドナは、そんな佑麻をうっとりと眺めた。スケートリンクで踊った時の彼も、ドナの大学の校門で拾った時の彼も、それは魅力的だった。しかし今の彼はもっと魅力的だ。時を経るごとに魅力を増す彼は、この後はどんな男に成長するのだろう。この男の明日を見てみたい。ドナの頭に初めて『この男と生きたい』という言葉が浮かぶようになっていた。
「おいドナ!なにしてるんだ。早く訳せよ」
佑麻に呼びかけられて、ドナは我に返った。あわてて通訳を再開する。
今回の参加者は積極的で、質疑応答は心肺蘇生法にとどまらず育児にまで及んだ。特に子供の発熱への初期対応が彼女たちの最大関心事である。もとより佑麻は専門科ではないので、そのことはドクターに聞くことを勧めたが、母親たちは、病気になった時しかドクターと話しができないと嘆く。
その時、会場のドアが乱暴に開け放たれた。暑いのに、黒い長靴で濃紺の長ズボン。同じ濃紺の長袖シャツに『PULIS』と書かれた制服を身にまとった男たちが乱入してきた。騒然とする場内。男たちは一直線に佑麻に突進すると、その手に錠を掛けた。驚いたドナは、男たちに猛然と抗議するが、男たちはただ黙ってドナに紙きれを示す。
「医師保健法違反の容疑(無資格者の医療行為)」
男たちは周りの抗議に構いもせず佑麻を連行しようとした。
アシスタントで来ていたドミニクも男たちに飛びかかるが、屈強な男たちに敵うべくもなく一蹴される。場内から沸き起こるブーイングで、ホールの窓ガラスが揺れた。
ドナは叫びながら佑麻にしがみついて離れない。男たちは乱暴にドナを引き離すと、無情に佑麻を引き立てた。ドミニクの手を借りて立ち上がるもまだ取り乱すドナに、佑麻は目で、『無理に抵抗するな、大丈夫だから』とサインを送った。
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