第60話

 フィリピン華僑にもかかわらずジョンは、夜になってもなお蒸し暑いマニラの外気に辟易として、少しでも清涼な空気を襟元に導こうと盛んに扇子を動かした。


『故郷とは言え、やっぱりArnys(アルニス/仏高級紳士服ブランド)の似合わない街は好きになれないな』


 香港からのキャセイパシフィック航空905便。 23時35分の到着予定が少し早まり、迎えの車はまだニノイ・アキノ国際空港 第一ターミナルへは来ていないようだった。

 ポーターとともに大きなルイ・ビトンのバッグに腰をかけて、手持ち無沙汰にゲートを眺めていたら、麻貴が目に入ってきた。香港で初めて見た時から、ジョンは彼女が気になっていた。彼女はタクシーを探しているらしい。しばらく眺めていると、どうも口巧みな白タクの罠にかかってしまったようだ。彼女は人ごみの車寄せから、人通りの少ない裏手に誘導されてその姿を消した。危ない。ジョンは思わず腰を浮かせて、ポーターに荷物の監視をするように指示して彼女の後を追った。


 彼女の消えたあたりをしばらく捜索していると、案の定、奥のビル陰で複数の男に囲まれている彼女を発見した。彼はもめ事が嫌いだ。今まで、あらゆるもめ事や不愉快なことは、直接触れることなく、彼の父親の使用人や弁護士達が処理してくれている。この時もあたりに彼らを探したが、いるはずもない。

 誰かを呼びに行こうかと一瞬この場を離れかけたが、男たちの様子ではひとときの猶予もないようだ。仕方がないので、財布から両替したばかりの紙幣の束を抜き取ると、彼女と男達の間に割り込んでいった。

 後から考えても、ジョンはあの時なぜこんな無謀なことをしたのかまったく理解できないでいる。えてして、こういう衝動的な行動がその後の人生を左右することになるのだ。


「あー…。ヒーローではないので君達とやり合うつもりはないが、私はビジネスマンなので取引をしないか。彼女に構わないでいてくれたら、交換にこれを渡すがどうかな」


 ジョンは、指にはさんだ紙幣の束を男達にちらつかせた。札束を見せられた男達の目に歓喜の色が浮かんだが、非情にもその札束を麻貴がひったくる。


「どなたか知りませんけど、女を救う時は、金じゃなくて、体を張りなさいよ!」

「えっ!」

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