第2話 4人の男と愛ちゃんの模擬デート

                  三

 いよいよ迎えた『模擬デート』の当日。愛は朝からベッドの上で猫のようにゴロゴロ、ゴロゴロとしていた。すると、階下の母親から『徹ちゃんから電話よ』と言われ、今日が模擬デートの日であることを思い出した。徹は愛の携帯電話ではなく、敢えて家の電話にかけてくることで念を押したかったようだ。リビングに降り、電話に出る。

「しもしも」

「おっとー、今日はご機嫌だなー」

「この声のトーンで違うことぐらいわかるでしょう。でっ、何?」

「出たよ。得意の『で、何?』攻撃。あのね、万が一にも忘れていないとは思うけど、今日は模擬デートの日だからね」

「わかってるわよ。でもなんでこっちに電話かけてきたわけ?」

「携帯だと、平気で無視されかねないからね」

 なるほど、この男まんざらバカではないようだ。愛のしそうなことを理解している。もっとも、幼いころからの知り合いだからそのくらいわかっていても当然だけど。

「そんなの知らな~い」と、キッチンでお手伝いの和美さんと一緒に朝食の準備をしているママに聞こえるように大きめの声で言う。

「はいはいはい、お嬢様。ご冗談はそのくらいにして、今日一時にうちの事務所だからね。ちゃんと来てよ」

「はいはいはい、徹お坊ちゃま。わかりましたー」

 受話器を置き自室に戻ろうとした時、

「今日何かあるの?」とママに訊かれる。

「徹ちゃんのとこでバイトするの」

「えっ、徹ちゃんのとこでバイトって、『建築関係トントントン?』(りゅうちぇるのギャグ。すでにもう古いがママは気に入っていて、今でも使う)。大事な嫁入り前の娘にガッテンの仕事なんかさせようっ言うの、徹ちゃん」

「まま、ガッテンじゃなくて、ガテンね」

 ママの場合は天然である。徹の会社の本業というか主事業は建築関係だから、そう思ってしまったのだろう。

「ガテンだか、サテンだがしらないけど…」

 怒っているのは、徹に対してだか、間違いを指摘した愛に対してだか、それとも間違えてしまった自分に対してだかわからない。恐らく本人もわかっていない。そんなママが愛は好きだ。

「違う、違う。別事業のほうだから心配しないで」

 これ以上会話していると、どんな展開になるかわからないので、さっさと自室に戻る。

今日の模擬デートはどんなコンセプトで臨もうかと考える。相手は財務官僚で、しかも徹の結婚相談所に登録しているくらいだから、前世紀の遺物ような堅物であろう。だとしたら、『夢のデート』をコンセプトに、それを演出するための徹底的なお嬢様スタイルで行くことに決める。ただし、あくまでも見た目だけ。中身はいつも通り、ドSの愛で対応し、もう二度と愛とデートしたいなどという分不相応な考えを持たないよう、木っ端みじんに潰してやるのだ。

 徹の事務所に到着すると、相手はすでに三十分前に来ていると聞かされる。

「もうー、やる気もんもんじゃない」

「それを言うなら、やる気満々ね。じゃあ今から連れてくるから待ってて」

「いいよ。さあこれから化け物退治じゃあ」

「化け物なんて言うなよ、本人の前で」

 徹が口の前に指を二本つけて言う。バカか。それくらい、アッシだってわかってるわい。

 事務所の子に結婚相談所の中にたくさんある応接室の一つに案内され待っていると、ドアが開き徹が一人の男性を連れて入ってきた。顔は予想以上でも以下でもなく、予想通りのブサイクであった。なのに、見るからに態度は高慢チキチキ。さて、どう料理しようかと考える。

「はっ、はじめまして。私、西園寺公男といいます」

 高慢チキチキに見えたのは、緊張のせいかもしえない。

「インチキ公家みたいなお名前~」

「おいおい冗談は止めなさい」

 いきなり始まった愛の暴走に、徹が慌てて止めようとしている。

「ごめんなさい。素直な感想を言ったまでで」

「いいんです。よく言われますから」

 コイツ、案外いいヤツかも。

「でしょうね。ちなみに私は、月雪愛といいます。どうです。この品のある名前」

 思いっきり可愛い百万ドルの笑顔を作って言った。

「まあ、お二人とも座りましょう」

 西園寺が答える前に、徹が割り込む。しょうがないので、ソファーに腰を下ろす。

「愛さんって、写真以上にきれいですね」

 感極まったような声をあげる公男。

「当たり前田のクラッカー」 

 公男がきょとんとした顔をして、徹を見る。

「すみません、西園寺さんはご存知ないですよね。何せ私の父親世代の受験生時代のギャグみたいなもんですから」

「そうですか。愛さん何でそんなこと知っているんですか」

「私って歩く広辞苑なの」

「歩く広辞苑?愛さんてきれいだけじゃなく面白い方ですね」

「あらあ、私、産まれてこのかた、おもしろいなんて言われたことないんですのよ。おかしな人って言われたことはありますけどね」

「あはっ」

「今、あはって言いました?」

「はい」

「あはっ」

 とまねる愛。そんな愛を見て、西園寺がまた、

「あはっはっ」

 と一コ多く笑う。すると、愛がまた、

「あはっはっは」

 西園寺がつられ、

「あはっはっは」

「あはっはっは」

「あはっはっは」

 なんだこれは。徹も下を向いて笑っている。

「もう、そろそろそんなところで」

 見かねた徹が言う。

「なんかつまんな~い」(これも愛の口癖)

「愛さんは自由人でもあるのですね」

「はい。自由剥奪をモルモットに生きておりますの」

「自由博愛だし、モルモットではなくモットーだし」

 間髪を容れずに徹が言う。

「すみません。こう見えて、私ビジネスバカなんです」

 公男はなにがなんだかわからない様子で困っている。

「なんか頭が混乱しています」

 無理もない。初めて愛という人間の洗礼を受けたのであるから、どう考え、どう返したらいいかわからないのであろう。いったいこの人はバカなのか、バカな振りをしているのか。それとも、案外利口なのかと頭を働かせているのだろう。そのどれもが正解なのだけど。

 このままでは埒が明かないと、徹は思ったのだろう。

「じゃあこれから模擬デートに行っていただきますが、お互いルールを守って楽しんでください」

「あっ、待って。あくまで私は指導役よね」

 本当のデートと勘違いされても困る。これだけは西園寺にしっかり認識してもらっておかないといけないので、念を押しておく。

「はい、そうです」

 と徹が言う。

「おわかりですよね」

 愛が西園寺に向かって言う。

「わかっていますよ。それくらい」

「何、その反抗的な態度」

「まあまあ、月雪さん」

 徹が間に入る、丸く収めようと必死である。

 事務所を出て二人きりになる。とたんに、気まずい雰囲気が流れる。しかし、愛は外に出て初めて西園寺の今日の全体フアッションに気づく。

「それって、あなたのセンス?」

「これですか」

 西園寺が自分の服を指す。

「これよ」

「へんですか?」

「へん。なうえにダサダサ」

「ええー、僕、私服はほとんど持っていないから、お店に行って店員さんに選んでもらったんだけどなあ」

「そういう人がお店のいいカモになっちゃうのよ。結局、全身ブランドで固められちゃったわけじゃない。それ、自分に似合っていると思う?」

「それがわかんないから困っているんですよ」

「まったく似合ってないから。ファッションで一番大事なのは、自分に似合うかどうかっていうこと」

「はあ、それがわからないって言ってるんですけどね」

「そんなの自分で勉強しろ。あなただって、ちゃんとそういう目を持てば、『孫にも和尚』ってことになるんだからさあ」

「和尚?」

「違ったってか」

「和尚じゃなくて、衣装です。それに、今お孫さんの孫っていう発音されましたけど、正しくは馬の子と書いて『馬子』ですから。それから、用法も違います」

「ようほう?。山田養蜂場?」

「その養蜂ではなく、使い方のほうです。『馬子にも衣装』というのは、どんな人間でも身なりを整えれば立派に見えるという意味ですから。だいぶ違う意味で使われていたので、余計なことかと思いましたがお知らせいたしました」

「そんなこと言っちゃってくれちゃっていいわけ、偉そうに。この私に説教するわけね。ファッションの基本を教えてあげたんはワシでんがな。違うかいうてんねんねん」

 と今度はへんな大阪弁を使う。

「はい、すみません。じゃあ、これからお店に行って服選んでくれますか」

「なんで私が恋人でもなんでもないあなたのために、服選びなんかしなくちゃならないの。それに、そんなことしてたら模擬デートの時間がなくなっちゃうでしょう。今日はそれでいいわよ。私、少し離れて他人の振りをして歩くから」

「ええー、ひょっとして愛さんってドエスですか」

「そうドスエ」

「はっ?」

「まったく、こんな親父ギャグもわからんのかい。すっとこどっこい」

「あのー、言葉が過ぎると思うんですけど」

「嫌なら、さっさとおうちにお帰り」

「いやーいいですね。愛さんのドエスぶり。僕、嫌いじゃないです」

 ありゃあ、ひょっとしてコイツはMかもしれない。そういえば、最初は『私』って言ってたのに、今は僕って顔していないのに『僕』って言ってるし。ただの頭デッカチかと思ったけど、どうやらそういうタイプではなさそうだ。では、本人の希望通り、いたぶってやろう。

「そんなことより、この後どうすることになっているの?」

 模擬デートでは、デートを申し込んだ男側がデートプランを作ってくることになっている。

「一応考えてきたんですけど」

「じゃあ言ってみて」

「時間が限られているので、一か所しか行けないと思って…」

「言い訳はいいからさっさと言いなさいよ」

「はい。サンシャイン水族館はどうかなと思って」

「はい、却下。女の子がみんな水族館に行きたいと思ったら大間違い。で、次は?」

「渋谷ヒカリエ」

「はい、それも却下。すでに飽きるほど行っています」

 それに、あんたみたいなダサイ男と行くのはまっぴらだ、という言葉は飲み込んだが。

「そうですか。困ったなあ」

「ええー、たった二つでネタ切れ」

「いや、じゃあこういうのはどうでしょう。ホテルNに行って、有名な日本庭園を歩いた後、フレンチを食べるというのは」

「ホテルNねえ。あっ、いいこと思い出した。ホテルNにしましょう。フレンチは却下だけど、パティスリーSATSUKIのスーパーモンブランが食べたい」

「スーパーモンブラン?」

「知らないの? あんたが知ってるわけないか。とにかくおいしいのよ」

「わかりました。では、ホテルNへ行きましょう」

 愛の気持ちが少し盛り上がってきたところに、水を差すように突然雨が降り出した。傘など持ってこなかった愛のテンションは再び下がる。すると、西園寺がおもむろにバッグの中から折り畳み傘を取り出して愛の頭にかざした。相合傘だ。好きな男にされたのだったら嬉しいのだろうが、こんな冴えない男と、なんで相合傘にならなきゃならないのだ。

「早くタクシーつかまえてよ」

「はい、そうですね」

 西園寺が傘を愛に渡して、タクシーを拾いに歩道を行ったり来たりする。しかし、急な雨のせいか、タクシーを利用しようという人が多く、要領の悪い西園寺にはなかなかつかまらない。イラつく愛。

「モタモタしてんじゃネーヨ」

 と、最後のネーヨにドスを聞かせて言う。

「わかっていますって」

 焦れば焦るほど空回りしている哀れな高級官僚。

 ようやくつかまえたタクシーに、先に乗り込もうとする西園寺に、後ろから言ってやる。

「こらこら。あんたが先に乗ってどうするのよ。何にもわかってないねえ」

「あっ、すいません。どうぞお先に」

 先に乗った愛が、後から乗り込もうとする西園寺の手を取ってやる。すると、西園寺は「あっ」と喜びの声をあげる。雨とムチを使いこなす愛であった。ただし、愛の場合、八割りがムチだけど。

 ホテルNに着く頃にはすっかり雨は止んでいた。まずは、雨に濡れて一層美しさを増した日本庭園を見て回る。途中途中で西園寺が庭のうんちくを説明をしているが、愛はほとんど聞いていない。そんなことより、この後食べるスーパーモンブランのことで頭がいっぱいなのである。

「愛さん、聞いています?」

「うるさいわね。聞いてるわよ」

「そうですか。それならいいんですけど」

「でも、もういいんじゃない。そろそろSATSUKIに行きましょうよ」

「まだ半分くらいしか見てないんだけどなあ…。まあいいか」

 SATSUKIに入り、愛はスーパーモンブランと紅茶を、西園寺はコーヒーを頼んだ。運ばれてきたスーパーモンブランは見た目も美しいが、とにかくおいしい。前に一度食べたことがあるけれど、さらにおいしくなったような気がする。愛が食べてる様子を、西園寺も羨ましそうな顔で見ている。

「ひと口食べる~?」

 まるで本物の恋人に言うように、甘い声で言う愛。

「えー、いいんですか?」

 ひと口掬ったモンブランを、西園寺の口近くまで持っていってからの、自分の口に戻すというお決まりの遊びをやる。空振りをくらった西園寺の間抜けな顔がおもしろい。

「本当にもらえると思ったわけ」

「はい」

「冗談じゃアルゼンチン、隣の国はウルグアイ」

「はあ?」

「そんなことしてあげるわけないじゃない。考えたらわかるでしょう」

「はい、すいません」

 意地悪をされたのは西園寺のほうで、彼は何も悪くないのだけど、愛に謝らされている。

「そんなに食べたかったら自分で頼めばいいでしょう」

「あっ、もういいです」

「そう。じゃあ、私が食べ終わるまで静かに待っていてね」

「はい」

 返事のとおり、西園寺は愛が食べ終わるまで黙ってコーヒーを飲んでいた。そして、愛が食べ終わるのを待って言った。

「愛さんの趣味って何ですか?」

 何を今頃。ああ、コイツは徹のほうから事前に渡されている私のプロフィールを見てないな。

「趣味ですか…」

「ええ」

「おとこを少々」

「おとこ?」

「そんな大きな声を出さないでよ。おことって言ったんだからあ」

 本当はわざとおとこと言ったのだけど。

「そうですよね。びっくりしました」

「西園寺さんは、クラシック音楽が好きなんですよね」

「はい、そうです」

「なんとかへ短調とかいうヤツ」

「なんとかへ短調って。そんなふうに言われたの初めてです」

「そうでしょうね。私も初めて言ったんですから」

「愛さんはどんな音楽聴くんですか?」

「米津伝師とかです」

「でんじろう先生?」

「それは、米村でんじろうだっつうの。何ででんじろうさんは知ってるわけ。ところで、これは徹から聞いたんですけど、西園寺さんってT大学を首席で卒業されたとか」

「ええ、まあそうなんです」

「ふ~ん、だからって何なの」

 切れ気味に言う愛。

「いや、あのー、僕は何も言ってませんけど」

「言ってないけど、心のどこかで自慢してるでしょう」

「いや、別に僕は…」

 しどろもどろになる西園寺。でも、愛の気持ちは収まらない。

「だいたい、学歴なんてどうでもいいのよ。人生、最後で決まるんだから。えっ、そうでしょう」

「まあ、そうですね」

「昔から言うでしょう。おわりなごやはしろでもつってね」

「ああ、それは違います。終わり良ければすべてよしでしょう」

「えっ、そうだっけか。まあ、どっちでもいいんだけどね」

「どっちでもよくはないと思うんですけど。意味が違うので」

「いちいち、ぐちゃぐちゃうるさいんだよ。それから、西園寺さんって高級官僚らしいけど、高級官僚ってどんな仕事をしてるわけ?」

「そうですねえ」

 えっ、高級官僚ってところは否定しないのかい。

「われわれは、国家のために、日々身を粉にして働いているわけですよ」

「ああ、それで肩のところに白い粉を乗っけてるんですか?」

 さっきからずっと気になっていたのである。今時珍しくフケをつけていた。指摘された西園寺は、フケを払おうとする。こんな一流ホテルの中の素敵な店の中で、フケを床に落とすな。

「毎日、シャンプーとリンスで洗っているんですけどね。最初は、僕が使っているシャンプーとリンスが合わないのかと思って、いろいろ変えてみたんですけど、ダメなんですよ。なんか病気なんですかね」

「きゃあ、気持ち悪い。ちゃんと皮膚科の先生に診てもらったほうがいいですって。ああ、気持ち悪い」

「そんな、何度も気持ち悪いって言わないでくださいよ」

「だって、気持ち悪いものは気持ち悪いんだからしょうがないでしょう」

 ぞっとした愛は、両手で自分の身体を抱くようにした。西園寺は小さくなっている。とりあえず、話を戻すことにする。

「今、国家のためにとおっしゃいましたけど、それはつまり国民のためでもありますよね」

「もちろん、そうです」

「じゃあ、お訊きしますけど、今街のスーパーで大根一本いくらで売っているか知ってますか?」

 そうは言ったものの、愛自身も今大根一本がいくらか知っているわけではない。何せ、生まれてこのかた、スーパーには行ったことすらないのだから。でも、以前お手伝いの和美さんから一度だけ聞いたことがあったので、だいたいの値段はわかっていた。だから、訊いてみたのだ。

「う~ん、五〇〇円くらいですかね」

 このド阿呆。さすがに、そんなにするか。

「じゃあ、蒙古タンタンメンって知ってる?」

「知りません」

「じゃあ、キンプリの平野紫耀って知ってる?」

 両方とも今愛が好きなものだ。

「知りません」

「ボーっと生きてんじゃネーヨ。バイ、チコちゃん」

「はい?」

「これも知らないのね。毎週金曜日の午後七時五七分から、再放送は土曜日の午前八時一五分から放送しているNHKの『チコちゃんに叱られる』っていう番組で、チコちゃんが言う決め台詞だから」

「初めて知りました」

「今度見るべし。ためになる番組だから。しかし、西園寺さん、あなたは世の中のこと何もわかってないじゃない。偉そうなこと言ってたけど、庶民のことがわかんなくて国家のことなんか語れないんじゃないですか」

「しかし、それはですねえ、やっぱりまずは国家全体の問題が優先されるべきであって」

「ちょっと何言ってるかわかんない」

 と、サンドイッチマン富澤ちゃんのネタを言っておく。どうせわかんないんだろうけど。

「それはどうかな。わかろうとしないことには始まらないというか」

「おとといきやがれーってーの。仕事の話になったとたん、否定から入るよね。頭がいいと自分で思い込んでいる人ほど他人の話に否定から入るって知ってた?」

 これには西園寺も一瞬つまった。

「鋭いご指摘です。その通りですね。われわれとかくエクセレント意識が高くて…。実際に政策を作る際には、高い意識と同時に、愛さんのおっしゃられた課題にも目を向けるといったアンビバレント性を踏まえてスペックに落とし込む必要があるんでしょうね」

「あったまおかしくね。もう手の施しようがないほどひどいね」

「そんなシニカルな。会話がパラレルになっていますよね」

「お前はルー大柴か、それともプリティ長嶋か。ちょっと古すぎてわかんないだろうけどね。それにしても、さっきから聞いていれば、カタカナ語ばかりなんですけど」

「英語ですけど」

「うるさい。その、英語だらけの会話は止めてくれって言うの。英語を使えば、話まで高級になると思ったら、とんでもない勘違いだから。私みたいにきれいな日本語を使えって言うの。私みたいにっていうところだけは冗談だけど」

「反省します」

「そうだ、そうだ反省しろ」

 すっかりしょげてしまった西園寺。

「頭を冷やすために、、何か冷たいものでも頼もうかな」

「私の視線じゃ不満」

「いえ、いいんですけど…」

 時計を見ると、まだ少し時間ある。

「この後、カラオケでも行きますか?」

「いいですね。行きましょう」

 ぱっと顔が明るくなった。ひょっとして、歌には自信があるのか。

「歌好き?]

「好きですね」

「そう、歌っていいよね。歌は世につれ、世は歌につれ、隣の夫婦は子供づれって言うしね」

「誰が言ったんですか?」

「そんなの知るかあ」

 愛ファンのおじさんの一人から聞いたんだけど、もともと誰が言ったのなんか知らない。そもそも誰だっていいじゃないか。

 タクシーでカラオケ店に移動する。西園寺は誰の曲を歌うのかと思っていたら、サザンだった。(意外というべきか、やっぱりと言うべきか)

 前奏が流れ始まると、西園寺はマイクを握って立ち上がり、ズテージにでも立つように、ソファーに座っている愛の前に出た。すると、愛の、ちょうど目の高さに西園寺の腰の部分がきた。そこで、愛が見たものは、開かれた社会の窓から覗く、白いものだった。さっき、カラオケ店に入った時、真っ先にトイレに駆け込んだのだけど、その時、慌てててチャックを閉め忘れたのだろう。よく見るとブリーフのようだ。(お前はブリーフ派か)

 西園寺は歌い始めたが、構わず言ってやる。ソコを指さしながら、

「あのー、そこの方、社会の窓が開いていて速水もっこりさんが見えていますけど」

「速水もっこりさん?」

 と後ろを向き確かめている背中に追い討ちをかける。

「どうせ、器と一緒で小さいんでしょうけど」

 その言葉に反応した西園寺がこちらを振り向く。チャックを半分だけあげた間抜けな体勢。そんな、西園寺に言ってやる。

「この変態ブタ野郎」

「あっ、それすごくいいです」

 嬉しそうな顔で言う西園寺。

「ほんまの変態かい」

 ということで、高級官僚とのデートは、本人がほんものの変態とわかったところでお開きとなりました。もちろん、高級官僚のみなさんのほとんどは、こうではないんだろうと思うけど。どうか、良い子のみなさんはくれぐれもマネしないでくださいね。

 


             四

「西園寺さんがさあ、えらく愛ちゃんのこと気に入ったらしくてさ。真剣に交際したいって言ってきてるんだけど。どうする」

「ごめんこうむりのすけ」

「やっぱりそうだよね」

「五十年早い」

「そうかー」

「そうです。嫌です。でもおかしいなあ。あんだけボロクソに言ってやったというのに。なんと言いがいのないヤツだ」

「えっ、そうなの。そんなこと一言も言ってなかったけどなあ。愛さんは、美しいだけでなく優しくて品のある人でしたなんて、冗談は言ってたけど」

「冗談って、アホかー。彼の言ったことはすべて真実じゃ」

「はい、はい」

「何よ、そのバカにしたような相槌。でもさあ、あの男完全なМだよ」

「何でそんなことわかるのよ」

「だって、愛さんのその形の良い膝小僧で蹴られてみたいなんて言ってたよ」

 これは嘘である。この台詞は、愛のボーイフレンドの中の一人で、同じくT大卒のある男に言われた台詞だ。気持ち悪かったので、ここで西園寺のせいにして吐き出してみた。

「ああ思い出してもむかでが走る」

「はい、むしず、です」

「はい、はい、はい、はい。わかっていますよ徹さん。ちょっとボケてみました」

「慣れております。でも本当? 超エリートなんだけどなあ」

「だいたい、超エリートなんて、へんなの多いの知ってるよね。この間、テレビ見てたらさあ、大企業の管理者とかいう人たちが、いかがわしいお店でおむつを履いて、赤ちゃん言葉であやされて喜んでいたよ」

「そんな番組ばかり見てるから、愛ちゃんまでおかしくなっちゃうんじゃないの」

「止めてよね。見たくて見たわけじゃないし。報道番組の中でとりあげていたんだから。でも、頭でっかちの人たちってそういうところあると思わない。お互いの親戚のこと考えればわかるじゃない」

 親戚のほとんどがT大か有名国立大卒で、いわゆるエリートばかり。みんなどこか変わっている。

「確かにそうだね。まともなのは俺たちくらいなものだよね」

「あら~、私はまともだと思うけど、君は相当な変人だと思いますけど」

「えーーーーーーーーーー」

「柄は短いほうが持ちやすいっておばあちゃんが言ってたけど」

「おーーーーーーーー、まあいいわ。じゃあ西園寺さんの件は断っておく」


                  五

「あの~、ものは相談なんだけど…」

 また、徹からの電話だ。

「きたなあ。金の相談なら他を当たってちょんまげ」

「ちょ、ちょ、ちょんまげー」

「何よ。そんな驚くことじゃないじゃない」

「なんで俺が愛ちゃんに借金の相談をしなくちゃいけないんだよ。そうじゃなくて、もう一回模擬デートを受けてくれないかなあと思ちゃったりなんかして」

「う~ん、今度はどんなヤツ?」

「ん? 受けてくれるの? てっきり断られるかと思った」

「いやー、この間のバイト、案外おもしろかったんだよね」

「へえー意外だね」

「日頃私が付き合っているただのボンボンとかバカ息子たちとまったく違う種類の男と会うのって、おもしろいかもって思った」

「うん、うん」

「って、あんたもそのただのボンボンの中の一人に入ってることわかってるの」

「まあバカ息子のほうじゃなければいいや」

「そういう明るいバカはいいわね。暗いバカは使い物にならないけど」

「そんなに褒めるなよ」

「ああもう嫌、バカで。でもまあ、バイト料次第かなあ。実は今度エステに行くことになってんのよね。そこが有名人が通う高級店なんだな、これが」

「わかった。その費用を出せばいいんだね」

「さすが徹ちゃん。ものわすれがいい」

「ものわかりがいい、でしょ。実は今度も断り切れない相手なんだよ。だからさあ」

「まさか、私をビジネスの道具にしようとしてるのか、ブラック企業め」

「うちはホワイトの優良企業だ」

「無印良品ね」

「それって、褒めてる?」

「どう解釈しようと、あなた次第。で、今度の相手は?」

「IT企業の社長なんだ」

「ふ~ん。でもIT企業の社長ってモテるんじゃないの。結構、女優の結婚相手になっているし」

「そうなんだよ。実はその社長もモテるらしくて、これまでも何人かの女優と付き合ったらしいんだけど、なんか物足りないみたいなんだよ」

「何、贅沢言ってるんだか」

「俺もそう思うんだけどね。それはともかく、そいうことで、才色兼備、百花繚乱、泰然自若の愛ちゃんに白羽の矢が刺さったというわけ」

「四文字熟語を並べればいいって言うもんじゃない。それに、『そういうことで』って、どういうことよ。何でそこに私の話が出るのか、論理的につながらないぞ」

「すみません。私が勝手に愛ちゃんを紹介しました」

「まあそんなことだろうと思ったよ。どうせ徹ちゃんの会社の運営システムを作った会社の社長なんでしょ」

「はいご名答」

「わかりやすいわ。でもいいよ、エステ代持ってくれるのなら」

「では契約成立ということでよろしいですね、お嬢様」

 そんなわけで、愛の二人目のデート相手はIT企業の社長となった。ちなみのその男のプロフィールは、年齢三十六歳、有名私立大卒、趣味はトライアスロンとなっていた。いかにも成り上がり者の、中金持ちという感じ。愛が考える結婚相手からはほど遠い。愛はそもそも『成り上がり者』は大嫌いなのである。

 今日の愛は春らしいミントグリーンのミニスカートにセットアップのジャケットという可愛らしさ全開の、フェミニンな洋服を着て出かけた。

「あれ、今日の愛ちゃんの服可愛いね」

 控室に入っていた愛を見て徹が言う。

「服じゃなくて、愛を褒めろ」

「もちろん、愛ちゃんも可愛いけど」

「そぉおー」

 愛が身体を一回転させる。スカートが広がり、太ももが露わに…。それを徹が明らかに見た。別に見られても減るわけじゃないのでいいのだが。

「どこ見てんのよー」

「何も見てないよ」

「嘘、前も見ていたわよね。今の徹ちゃんの視線は明らかに私のスカートの中に向けられていた。現行犯で君を逮捕する」

「できるものならしてください。で、今日の相手だけど…」

 愛のおちゃらけに慣れっこになっている徹は相手にしてくれない。

「うん、ん?」

「なにせ イケイケの社長で、この間愛ちゃんが言ってた通り、態度がそのお、ちょっと鼻につくところがあるんだけど、そこんとこはよろしくね」

「はい、はい。高級エステのために、人身御供のようにわが身を無にして頑張る所存にござりまする」

「なんだか大げさだなあ」

 もちろん、いくらバイトだとはいえ、愛は相手に合わせるつもりなどさらない。エステのことだって、本当のところ、パパにちょっと甘えればお金を出してくれるのだから。今日もただの興味本意と遊び感覚で来ている。

「木村拓也です」

 そうなのである。今日の相手は、どこぞのイケメン有名俳優と同姓同名なのである。もちろん、顔は比較するのも失礼になるほどに、劣っているのであるが。かといって、ひどいブサイクでもない。まあまあよくいる、ただのおっさんである。

「キムタクさんですね」

「みんなにそう揶揄われます。残念ながら全く似ていないんですけどね」

「あら~、よくわかっていらっしゃるー」

 これにはムッとしたようである。おっと、コイツはわかりやすいぞ。

 いかにも高そうな仕立ての良いスーツを着ていて、そこはいかにも、今イケイケのIT企業の社長らしさを現していた。

「月雪愛です」

 それでなくとも美人度マックスの愛が、日夜鏡を見ながら研究した自分が一番きれいで、可愛らしく、かつ妖艶に見える笑顔を拓也に向けながら言う。その瞬間、拓也が落ちたのを、愛は確信した。

「あの~、愛さんはきっとオモテになると思うんですけど、どんなタイプの男性が好きですか」

「本物のキムタクみたいな人」

「こりゃあ参ったなあ」

 拓也が頭を抱えるという昭和な仕草をした。いやだ、じじくさい。それに、本当は『参った』なんて思ってもいないくせに。

「まあ軽い冗談です。私、こうみえて外見はあまり気にしないんです」

「本当ですか?」

「嘘です」

「ぎゃは、は」

 気持ちワリー。まるで尻尾を踏まれた猫のような笑い声出した。

「でも、木村さんも外見で人を選ぶタイプなんでしょう。女優さんと付き合ってたみたいだし」

「まあ、そうなんですけどね」

 否定しないのかよ。鏡で自分の顔をもう一度見て見ろってーの。だけど、顔だけで女を選ぶ社長と、金持ちというだけで男を選ぶ女優っていうのがいるから成立しちゃうんだろうな。嫌な世の中だ。そんな世の中間違っている。

「まったく、『調子のっちゃって』」

 と、ゆりあんレトリイバアのギャグを小さく囁く。

「えっ、何か言いました」

「何か聞こえました」

 質問には質問で返すという荒業を使っておく。

「まあまあ、そのへんで。続きはこの後のデートでしていただいて」

 徹が間に入って、とりなす。

 駐車場から出てきたのは、真っ赤なポルシェだった。同じポルシェでも、拓也の乗るポルシェは品がない車に見えてしまう。

 拓也が運転席を降り、反対側で立っている愛の元へ駆け寄り、ドアを開ける。

「どうぞ」

「ありがとう」

 愛が座ったのを確かめるとドアを閉め、自分はまた運転席へ戻ろうと車を大急ぎで回ろうとしたのだが、焦るあまり何かにひっかかりまるで平泳ぎでもするかのように、空中で両手が開く。目のまえでそれを見せられた愛は、車の中で思いっ切り笑う。

「見つかっちゃいました?」

 運転席へ乗り込んだ拓也が、頭を掻きながら言った。

「はい、しっかり見させてもらいましたよ、空中平泳ぎを」

「参ったなあ」

 そう言いつつ、今回も参ったとは思ってない表情を見せる。

「まあ、いいじゃないですか。ところで、今日はこれからどこへ連れて行ってくれるんですか?」

「どこへでも行きますよ。あの世以外でしたら。はっはっは」

 何ともつまらない。ジョークとも言えないほどのジョークにげんなりする。しかも、そのつまらないジョークを言った自分に受けている。最低、最悪。

「では、あなたの会社に連れて行ってくれますか?」

「えっ、うちの会社に? 今日はデートですよね」

「どうせ、木村さんのデートプランは、湾岸エリアのおしゃれなお店とかだったりするんでしょう。歴代の彼女と回った同じコースよね、きっと。そういうところ、私飽き飽きしちゃってるので」

「なるほど。だからといって、うちの会社に行っても何も面白くないですよ」

「ありきたりのデート場所へ行くより、ずっと面白いと私は思うけど」

「そうですか。やっぱり愛さんて、ちょっと変わってますよね。わかりました。じゃあ、これからうちの会社をご案内します」

 車で走ること約2〇分。ITビジネスで成功した多くの企業がテナントとして入っていることで知られた六本木の有名高層ビルの駐車場に入った。

「さあ、着きましたよ」

 このビルに入居していることを誇るような顔を見せながら言った。

 高速エレベータで、あっという間に28階に着く。ドアが開くと、目の前に受付が広がっていた。どうやら木村の会社はワンフロア借りているらしい。家賃だけでも相当な費用がかかるはずだ。しかし、さっきからずっと気になっていたことがひとつある。それは、木村が鏡を見る度に髪を直していたことだ。車の中のミラーで、エレベーターの鏡で。

「ここが受付です。今日は休日なので、受付嬢はいませんけどね」

「ところで、木村さんって鏡好きですよね」

「えっ、鏡ですか?」

「ああ、自分では意識していないんだ」

「何のことでしょう」

「さっきから鏡を見つけては髪を直してましたよね」

「そうなんですかねえ、自分では意識してないんですけど」

「嘘ですね。ナルシストだからですよ」

「僕がナルシスト?」

「そうでしょう。自分のことが世界で一番好き。私もそうだからわかるんです」

「わかっちゃいました。実はそうなんです」

「でも、それって、経営者としてはどうかなあ」

「別に関係ないと思いますけど」

「えっ、そう思わない?というか思えない?これは、飛んでも八分、車で一〇分、歩いて三〇分だ。ダメだこりゃあ、この会社はいずれ潰れる」

「そんなバカな」

 と木村。

「そんなバナナ」

 と、愛。

「悪い冗談は止めてくださいよ」

「ごめんなさい。私、冗談が言えなない質なので」

「そんなバナナ」

 と、今度は木村が返す。

 こいつ返しは悪くないのだけどなあ。自覚症状がないところが、問題だよね。

「さて、話は変わるけど、私、受付嬢にどうでしょう」

「えっ、本気だったら嬉しいです」

 満面の笑みを浮かべていう木村に冷水を浴びせる。

「本気なわけないでしょう。絶対ないです、はい。私今伯父さんの会社で秘書のバイトしているけど、時給二万円だから」

 本当は8〇〇〇円だけど。

「それは高い。高すぎる」

「私の価値って、そのくらいなのよ、おわかり。しかし、部屋広いですね」

「まあまあ、です」

「ちなみに、社長室ってどこですか」

「えーと、あの奥の部屋です」

 そこだけ別格の雰囲気が漂っている。愛はさっさとその部屋へ向かう。木目調のドアを開けると、典型的な成金社長の悪趣味な部屋になっていた。

 とにかくバカでかい机が窓際の奥に、ドンと置かれていて、入ってきた人間を圧倒する。愛は、そんな机の上に勝手に腰を下ろしながら言う。

「ひょっとして、こういう社長机に憧れていました?」

 自分の机の上に座られたことに、一瞬不快な表情を見せたが、器が小さいと思われたくなくて、慌ててそれを消して答える。

「まあ、そうかもしれないですね」

「ダサイ」

「今、何て?」

 聞こえているくせに~。

「あ~ら、聞こえませんでした? ダサイっておっしゃいましたのよ、私」

 ムッとしたであろうが、堪えている。

「男のロマンみたいのようなものですよ」

「マロン?」

「栗じゃないわ」

「あれ~、マロンって栗のことじゃないからね。マロンって言うのは、フランス語で栃の実のことだから。ちなみに、英語では栗のことをチェストナットって言うのよ」

「へー、意外に物知りなんですね」

「意外とは失礼千万でありんす。教養が溢れちゃってごめんちゃい。能ある鷹はツノ隠すって言うのにね」

「そこが惜しいですね。能ある鷹は爪を隠すなんですけどね」

「私は女だから、ツノ隠し」

「よく意味がわかんないんですけど」

「でも、これがロマン? なんか違う。ごめんなさいね、私、顔が綺麗な分、口が悪くて」

 やっぱり成金社長が品がないと改めて思う。あの徹の社長室だって、ここに比べればもっと機能的だ。

「ついでに言わせてもらうと、この椅子、まるでマフィアが座る椅子みたいよね」

「はい、そうです」

 ついに開き直った。おもしろくなってきた。この男の化けの皮を剥がすのが今日の目的なので。一応、事前に徹に話したら、今回は愛の好きなようにやっていいと言われた。ああ見えても徹は本物のぼんぼんなので、この手の偽ボンボンのことはあまり好きでないらしい。

「座ってみていい?」

「どうぞ」

 もう完全に不貞腐れている。机から降りた愛が一周して、椅子に座り、背もたれに身体を預ける。もともとそんなに大柄ではない愛が座ると、まるで小さな女の子ががふざけて父親の椅子に座ったような感じになり、ものすごく可愛くなってしまう。先ほどまで怒っていた木村の顔が緩む。

「なんか可愛いですね」

 そう言わせてしまう自分が憎い。

「あ~ら、そう。木村パパ」

「止めてくださいよ、パパなんて」

 照れているんだかなんだかしらないがデレデレしている。

「デレデレするな」

「はい」

「ところで、あの写真」

 愛が指さしたのは、社長室の横の壁に飾ってあった一枚の写真。よくありがちな、有名芸能人とのツーショット写真だ。しかも、三枚あり、そのいずれもがいわゆるアイドルの女の子。

「ああ、あれですか。いいでしょう」

「ダメ。社長室にああいう写真を飾るのは最低よ。ある有名な投資家が言ってるんだけど、社長室に有名人と並んで映っている写真がある会社には投資しないって」

 これは本当の話。ただし、愛がパパから聞いた話だけど。

「それはなぜ」

「考えればわかるでしょう」

 そろ理由もパパから聞いたような気がするが忘れたのでごまかしておく。

「まあ、そうですね」

 木村も自分なりに納得しているようだ。

「しかも、アイドルの子。ひょっとして、お宅、オタク」

「なんですか・今のダジャレ?」

 そういうつもりじゃなかったけど、結果的にそうなっただけ。

「偶然だから。でも、そうなんでしょう」

「オタクって悪いんですか」

「誰もそんなこと言ってないでしょう。オタクですかって聞いただけよ」

「オタクですよ」

 怒ったように言う木村。

「ちなみに、今一番好きなのは誰?」

「う~ん、欅坂の渡邉理佐かな」

「へえー」

「へえーって何ですか」

「へえーとしか言いようがないじゃない。個人の好みなんだから。でも、平手ちゃんとか白石ちゃんみたいな王道にいかないところはいいわね」

「じゃあ、愛さんの好きなタレントとか俳優は?」

「それはねえ、ヒ・ミ・ツ」

 口を指で覆い、言う。

「それはズルイよ。僕だけ言わせて」

「私も教えるなんて一言も言ってないけど」

「しかし、社長室に芸能人との写真飾るのダメなのかなあ。僕は悪くないと思うんだけどなあ。じゃあ、愛さんとのツーショット写真でも飾りましょうか」

 おっと、油断していたら反撃に打って出てきた。

「五十年早いでーす」

「アチャー」

 と自分の額を叩く仕草をする。動作がいちいち古い。もはやツッコムのもうざいので無視する。

「女優と付き合ってたとか言ってたけど、本当はお金をちらつかせて、アイドル未満の子を引きずりまわしてただけなんじゃないの」

「まあ,あたらずとも遠からずです」

「やっぱりね。東京都迷惑防止条例で逮捕しちゃうぞ」

 ウィンクをしながら可愛く言う。

「なんか色っぽいですね」

 二やけた顔を愛に向けて言う。何で男って、こうもバカなんだろう。

「そうかしら。困ったわね。この美貌に色っぽさまで加わっちゃったら、もう鬼にきんぼうよね」

「きんぼう?」

「金の棒でしょ」

「確かにそう書くけど、かなぼうって読むんです」

「何で?」

「何でって、習わし」

「習志野?」

「ならわし」

「奈良の鷲?」

「だから、習慣の意味のな・ら・わ・し」

 少し小馬鹿にしたような顔をして、身体を愛のほうに近づけて言う木村に天罰を与える。

「香水くさ~いイ。さっきからずっと思っていたけど。つけ過ぎ~い」

「えっ、そうですか」

 自分の身体の匂いを確かめるようにしているが、自分でも思い当たるのだろう、しゅんとしてしまい無口になる。男ならしゃんとしろ。

「そろそろお時間なんですけど」

 いつまでもはっきりしないので言ってやる。

「えっー、そんなあ。延長はないんですか」

「延長?、風俗か。ところで、ここの会社は何んか飲み物出てこないの」

「ああ、すみませんん。今日は女の子がいないので。でも、ビルの地下の喫茶店から持ってきてもらえると思うので、愛さん何にしますか?」

「コーヒー」

「わかりました」

 それから一〇分後、届いたコーヒーをソファーで飲んでいる愛の前には、キムタクとはほど遠いキムタクが、脱力した表情で座っている。

「何ボーっとしちゃってるわけ。あなた、この私とデートしたかったんでしょう」

「そうなんですけど、僕、会えたことで満足しちゃうタイプなんですよね」

「それじゃあ女にはモテないわね。どう女性を楽しませるかだから」

「そうかあ」

「面白い話のひとつでもしたら」

「面白い話ですか。あっ、ひとつだけ知っています」

「とりあえず、それでいいから聞かせて」

「では。うちの家の近所に一匹の犬がいました。その犬は、顔も身体も白いんだけど、尾っぽ白かったんです。尾も白い、おもしろいって」

「はい、ダメー。おもしろくもなんともない。だいたい、その話、誰でも知っているし、そんな子供だましのネタで大人の女性を楽しませることなんてできっこないでしょう」

 時計を見ると、模擬デートの終了時間を少し過ぎていた。

「では、木村様、いやキムタク様、お時間になりましたので、これにて失礼いたします」

 そう言って立ち上がり、まだソファーに座っている木村に、最高の笑顔を振りまき、

「バイバ~イ」

 と小さく、そして可愛く手を振って部屋を出たのデア~る(吉岡里帆ふうに言ってみた)

 今日も模擬デートの結果を書いて、徹に送る。

 ちなみに、木村の減点箇所は以下のとおり。

①自分をいい男だと思い込んでいる。(大きな勘違い)

②自覚のないナルシスト。(これはもう救いようがない)

③歯が黄ばんでいる。(どうしたら、あんなに汚くなれるんだ)

④口が臭いのと体臭の強さを香水でごまかそうとしている。(両方が混じって、えげつない匂いだった。私、匂いに敏感なので)

⑤眉毛がゲジゲジ。(きっと胸毛も生えている。見たことないし、見たくもないけど)

⑥ヘアースタイルがへんなのに、鏡を見る度に髪を直していた。(ちなみに、直しても変わったとは思えない。ノンスタイルの井上的な男か)

⑦おもしろい話のひとつもできないオタク(おもしろいのは顔だけ)

⑧キムタクと同じ名前(これは、どうしようもないのかもしれないが、できれば名前を変えてほしい)


                 六

 はじめは頼まれてイヤイヤやったバイトだったが、次第におもしろくなっていた。それまで愛が付き合っていた大学の同級生のボーイフレンドや、少し年上のお金持ちのボンボンたちとは全く違う人種の男たちとの出会いは、愛の男を見る目を少しづつ変えていた。『女』とは明らかに違う『男』という動物に興味を持ち始めていた。もし『男学』というものがあれば、その研究者になってもいい。ないのなら、自分が作ろうか。それが『学』ならば、学会も必要で、自分がその会長になるのだなどと、たかだか二人の変人に出会っただけで、わけのわからぬ妄想まで抱く始末であった。

 そんなわけで、もっともっといろんなタイプの男に出会いたい。そういう意味では、徹の仕事のバイトはうってつけだった。今後も『男学』研究のためにさらなる冒険に出るのだ。

「ねえ、徹ちゃん、登録会員に職人とかいないの」

「職人? なんでまた職人」

「ちょっと興味あんのよね」

「どんな興味」

「いろんな興味」

「あっ、そう。で、何の職人?」

「それは何でもいい。職人なら」

「ふ~ん。そりゃあ探せばいるだろうけど。そういう人たちって、生真面目で一途な人が多いから、愛ちゃんがちらっと色気を示したら、ドツボにはまっちゃうかもしれないじゃん」

「ドツボにはまって、さあたいへん」

「そんな冗談言ってられなくなるかもしれない」

「いいじゃない。みんなから反対されるけど、二人は息苦しいほどに愛しあって、恋にがんじがらめになっちゃうの。ああ、私はどうしたらいいの」

「勝手にしてくれー」

「あ~ら、冷たいわね。そういう時こそ、われらが正義の味方の徹ちゃんが間に入って解決してくれるんじゃないの」

「そんな妄想に付き合っていられるほど僕は暇じゃあ~りません」

「バケモノ」

「バケモノって何だ」

「いや、バカモノだった」

「へんな間違いするな」

「わかりましたよ。で、見つけてくれるの」

「とにかく探してみるよ。見つかったらまた連絡する」

それからしばらくして徹からメールが届いた。登録会員の中から愛に紹介してもいいと徹が判断したという三人の候補職人のプロフィールが送られてきた。(もちろん、相手も愛に会いたい人というのが前提であった)

 なるほど、写真を見る限り、三人とも一癖も二癖もありそうな雰囲気を持っている。おもしろそうだったので、三人全員に会いたいとも思ったが、それはそれで疲れそうでもあったので、よりによって松居英機という、字は違うが、国民栄誉賞をとった野球選手と同じ名前の家具職人の男と会うことにした。

 その日は徹が別の仕事の関係で不在で、秘書の結衣ちゃんが立ち会うことになった。結衣ちゃんは今徹と付き合っている。というか、何度も振られた徹が、諦めずにアプローチし続けた結果、ようやく結衣ちゃんがОKを出したらしい。俺の情熱が通じたんだと徹は言っていたが、あまりのしつこさに結衣ちゃんが根負けしたというのが本当のところだろう。なにせ、徹は結衣ちゃんの直接の上司でもあるので、ひっとしてパワハラしたんじゃないのかと疑いたくもなる。今度結衣ちゃんに本音を聞こう。世の中からパワハラをなくそうというのが私の信条なのだから、などと本気でもないことを考える。

「愛さん、おはようございます。今日は私が社長の代わりに立ち会いますので、よろしくお願いいたします」

 控室で休んでいた愛のところに、初めての立ち合いのせいか、いかにも緊張した顔の結衣ちゃんが入ってきて挨拶をする。

「うん。徹ちゃんから聞いているから大丈夫だよ」

「そうですか。不慣れなため、失礼がありましたら、何なりとご指摘ください」

「はい、はい。そんなに硬くならなくても大丈夫だよ。顔ガチガチだよ。せっかく『可愛い顔』してるんだから、もっと笑顔で」

「そうですね」

「おっと、否定しないんかい」

「いや、そのお」

「冗談、冗談。でも、相変わらずいい脚してるねえ」

 とスケベ親父のようにミニスカートからすらりと伸びた生足を舐めるように見て、よだれを掬う真似をする。

「ええー、止めてください」

 後ろに下がりながら、両手で足を押さえる。

「う~ん、こういう場にしてはスカート丈が短すぎるね。化粧はいつもより若干抑え気味で好感が持てるけど。全体的には八十点というところかな」

「とりあえず合格点ということでよろしいですか」

「そうだね。じゃあ、松居さんの詳細プロフィールを見せて」

 入口のところで立ったままだった結衣が資料を愛の座るテーブルの上に置こうと近づいてくる。その時、愛はちょっと自分の足を結衣の足の前に出した。ふいをつかれた結衣は愛の計算どおり、身体を斜めにして、お尻を愛の顔の前に突き出す形になった。その豊満な尻を顔の前で両手で受けながら、

「隙ありー。マイナス十点。どんなところに敵が潜んでいるかわからないんだから、気を抜くでない」

 愛は結衣で遊んでいる。

「そんなの無理です」

 さすがの結衣もやや怒り気味である。

「しかし、弾力のあるお尻やね。さぞかし、徹も喜んでおることであろう」

 慌てて体勢を立て直す結衣。

「もう、愛さんたら」

「ところで、結衣ちゃんってオナラする」

 まだ少し時間があるので、さらに結衣で遊ぶ。

「えっ、何ですか?」

「聞こえなかった?オナラするって訊いてるの。放屁とも言うけどね」

「ほうひ?」

「放つという字と屁って書くんだけどね」

「へっ?」

「だから、オナラだって言ってるの」

「すみません。そりゃあ、人間ですから」

「やっぱりね。結衣ちゃんって一人暮らしでしょう」

「はい」

「この間テレビで、独身の女の子の部屋の隠し撮りっていうのをやっててね」

「へー、そんなのあったんですか」

 嘘だけど。

「そうしたら、その子が平気でオナラをするわけ。歩きながらとか、料理作りながらとかさあ。ところ構わず」

「そんなあ」

「誰も見ていないと、みんなそうなんじゃないの。結衣ちゃんも、そんな可愛い顔して、部屋ではブイブイいわしてるんじゃないの」

「やめてください。そんなことないです」

 怒りと恥ずかしさで顔を赤らめながら言う結衣。

「別に隠さなくたっていいでしょ。ただ、そんな結衣ちゃんの姿を想像すると、おもしろいなとか徹は知ってるのかなあなんて思ってね」

「徹さんの前でしたことなんかありません。でも、そんなこと言ったら、愛さんだって…」

「私はするよ、当然。生理現象だからね。お風呂に入って、その泡が背中を通って登っていく様は、『快感』です」

「へえー」

「へえーって、いちいち本気にするな」

「はい、すみません」

「でもね、日本には放屁合戦絵巻っていうのがあるの、知ってる」

「またあ」

「信用してないな。サントリー美術館にちゃんとあるんだよあら。調べればわかるけど。平安時代だったか、室町時代だっか忘れちゃったけど、実際に放屁合戦したらしいよ」

愛は妙な知識がある。

「へー」

 と感心したように言う結衣に、

「オナラだけにね」

「そういう意味なかったんですけど…」

「どっちが勝ったか判定するわけだけど、これがほんとの、奈良(ナラ)判定なんちゃって」

「もういいですか」

 呆れ気味の結衣が部屋を出て行く。ようやく落ち着いて、愛が松居のプロフィールに目を通していると、再びドアが開き、結衣が松居の到着を知らせた。

 さっそくマッチング部屋に入ると、黒のパンツに黒のジャケット、中に黒のティーシャツという全身黒づくめの男が待っていた。殺し屋かと、心の中でツッコム。長い髪を後ろで束ねている。妙にギラついた大きな目、不必要に高い鼻、髭のせいか小さく見える口。

「クセが強いー」

 思わず千鳥のギャグが出る。しかし、笑いを堪えているのは結衣だけで、松居はしらっとしている。そもそも千鳥を知らないのであろう。あ~あ、つまんない。

「あの~、私、松居英機と言います」

 愛のギャグを無視して松居が自己紹介する。しかし、その声が、見た目からはまったく想像もつかない高い声であったため、愛は思わず辺りを見渡してしまった。

 いったいどこからこんな音が漏れてくるんだろうか。吹き出したくなるのを、なんとか我慢する。

「こちらが、月雪愛さんです」

 何事もなかったかのように、結衣が愛を紹介する。結衣は愛より先に松居に会っていたのだから、この声は事前に知っていたはずだ。こんな笑える話、事前にオイラにも知らせておけよ。ひょっとして、先ほどの辱めの恨みをここでかえしたかな。結衣ちゃん、あとでお仕置きだ。

「なかなか変わった声ですね」

 愛にしてはやさしく言う。

「すみません、へんな声で。声変わりしなかったんですよ」

「誰にでも欠点の一つや二つあるものですわ。だから気になさらなくてもよくってよ」

 と、社交辞令を言っておく。本当はかなり辛いが。

「そう言っていただくと助かります。でも、愛さんみたいな方は欠点なんてないですよね」

「そんなことないですよ。私にも大きな欠店が一つあるんですよ」

「えっ」

「美し過ぎるっていう」

「はあ」

 はあって言ったか、この男は。なんだこの間抜けなリアクションは。気の利いたことが言えないのかよ。

「そんなリアクションでは女性にモテませんことよ」

「そうですか、勉強になります」

「貴乃花か」  

 真面目かっていうところを間違えた。

「はい?」

 はい?どうなってるんだ、この男の頭の中は。

「じゃあ、この子」

 と、横に建っている結衣をさす。

「結衣ちゃんって言うんですけど。この子の欠点は?」

 松居はじっと結衣を見てからおもむろに言った。

「可愛い過ぎるところですかね」

「はい、不合格、失格です。正解は足が臭いところ」

 本当の欠点をばらす。徹から聞いていた。結衣は無言で怒りの目を愛に向ける。すると松居が、

「それだったら、僕は耳毛が長いです」

 どさくさに紛れて、何わけのわからないカミングアウトしてるのよ。

「耳毛が長い?まあ、鼻毛が長いよりはマシですけどね。しかし、ともかく松居さん、その見た目と声のギャップはやっぱりすごいですね」

「よく言われます。ただ、その分みなさんよく覚えてくれます」

「そりゃあそうでしょうね。忘れたくても忘れられない声ですものね。ところで、松居さんは家具職人さんなんですよね」

「ええ、そうです」

「なんかカッコイイですね」

 もちろん、これもお世辞である。

「そんなことないです。地味な仕事ですし」

「あらあ、いいです。私、周りに派手な人間しかいないもので。地味な人って興味あるんですよね」

「変わっていらっしゃいますね」

「いえ、あなたほどではないです」

「面白いですね。カーハッハッハ」

 引き笑いが気持ち悪い。黒づくめだし、へんな声だし…。

「まるでカラスみたい」

 愛は嘘をつけない人間なのだ。私が悪いのじゃない。こんなことを言わす神様が悪い。

「カッカッカラス。カーハッハッハ」

 狭い室内に響き渡る不気味な声に、愛は近くに立っていた結衣を呼び寄せ耳打ちをする。

「アレ、何とかしてくれない」

「そうおっしゃられても」

「顔と声のギャップが凄すぎて、もう帰りたくなっちゃった」

「そんなー、ダメです。私、社長に叱られてしまいます」

「わかった。じゃあさあ、さっさと進めて」

「あのお、さっきからお二人で何かお話しされてますが、まさか私の悪口じゃないでしょうね」

「いえ、そのまさかです」

「ちょっとー、それは酷いな」

「私もそう思って止めなさいって言ったんですが、この子がずっと話してるもので」

 と愛は結衣を指さす。

「えっ、嘘ー」

 信じられないという顔で愛を見る結衣。結衣はまだまだ愛の怖さを知らない。

「見て見て松居さん。本当のことを言われて、この子真っ赤な顔になっちゃって。そういうとこが可愛いわよね」

 実は真っ赤な顔して怒ってるのだが、そんなのお構いなしだ。

「もぉう、愛さんたら。そろそろ外出の時間です」 

 結衣もさっさと終わらせたいらしい。

 外に出ると、太陽がまぶしかった。早速日傘を出す。そんな愛を松居は遠くのものを見つめるよう目を細めて言った。

「素敵です。まるで一枚の絵から抜け出したみたいですね」

 なんの衒いもなく素直に言っているところは見直したのだが、なにせ声が…。愛はこの声だけで本来『ごめんなさい』だ。バイトだから我慢してはいるが。

「スッカラケッチー」

 何の意味もなく(というか、この言葉自体意味がないらしいが)、イッコーさんの真似をして、少しおかまチックな声で言ってみた。声には声で対抗しようと。

「ところで」

 愛のボケを完全スルーした。スッカラケッチーをスルーするっていうのは、ある意味驚きだけど(普通、なんか言う)、こういうセンスの無さがこの男の魅力を半減させていると、冷静に分析する愛であった。

「松居さんって、馬の耳に蓮佛美沙子よねえ」

「はい?」

「だから、馬の耳に蓮佛美沙子って言ってるの。知らない?」

「知りません」

「馬の耳に餞別ともいうけどね」

「ああ。馬の耳に念仏ですね」

「そうとも言う」

 そうとしか言わない。

「ところで」

 やっぱり、そのまま続けるのかい。

「今日のデートなんですが、愛さんの趣味が絵画鑑賞と聞いているので、まずは美術館に行って絵を見て、その後イタリアンの店で食事をして、最後に甘味処で甘いものを食べたいと思います」

 全部言っちゃったよ。最初にネタを見せた上で手品を見せるみたいで間が抜ける。この後のデートをどんな感情で過ごせというのだろう。自分の彼氏じゃないからいいものの、とんでもないおバカだ。それに、自分の趣味は絵画鑑賞なんかじゃない。誰が嘘の情報を告げたのだろう。犯人はきっと徹だろう。松居に私の趣味を聞かれ、適当に答えたのだろう。仕返しは倍返しだ。

「松居さんって、真面目な方なんですね」

 と皮肉を言って見た。

「そうなんですよね。バカがつくくらい真面目なんです」

 どこぞのCМで見た台詞だが、自分で言っちゃあダメだっちゅうの。

「真面目に、バカってつくもんなんですかね?」

「はい?」

「まあ、どうでもいいんですけどね」

「じゃあ行きましょうか」

 愛は身体全体で拒否反応を示していたのに、松居はさっさと歩き出した。しかも、その足取りの早いこと。見る間に先に行ってしまう。女に合わせるという発想がないのだろう。自分勝手な男だ。こういう男はセックスでも自分勝手に違いない。自分のしたいことだけをして、さっさと先に終わってしまい、横の彼女を無視して、満足げな表情ですぐにタバコ吸い始めるのだわ。挙句の果てに『どう良かった?』とか言っちゃたりするのよ。そして、女に『こんなの初めて』とか言われるとすぐに本気にしちぁうわけ。ほとんどが嘘なのにね。もう最低と、遠ざかる松居を見ながら勝手に想像していた。すると、さすがに気づいた松居が戻ってきた。

「すみません、僕歩くの早いんですよね」

「そうみたいですね。てっきりお帰りになるかと思いましたわ」

「いえいえ、すみません」

「ていうか、女の人に合わせるのが『なかのりさん』だと思いますけど…」

「そのお、『なかのりさん』って何ですか?」

「えっ、何にも知らないんですね。世間のこと」

 本当は世間というほど大げさなものではなく、先日女子高生が使っていたのをたまたま聞いて使っただけなのだが。

「うち、テレビないんです」

 テレビのせいにするな。

「テレビは無関係。『なかのりさん』って言うのは、基礎って言う意味ですよ。あの民謡の『なかのりさん』の前の歌詞ね。今これ女子高生の間で流行ってるんですよ」

 流行っているかどうかは知らないが…。というか、流行っているとも思えないが。

「なるほど、木曽節の『木曽のなあ』の『木曽』と『基礎』をかけてるんですねえ…」

「そんなに真面目に解説されてもねえ」

「それにしても、愛さんは民謡もやってるんですか」

 誰も民謡をやってるなんて言ってない。

「ええ、みんようみまねでって、嘘。民謡なんかやってませんよ」

 どこまでも真面目な顔して聞いている、なんてつまらない男なんだろう。百回ぐらい噛んだ後のガムみたい。

 その後、松居が連れて行ったのは、私鉄の駅から徒歩で二十分も歩いたところにあるマニアックな美術館だった。館内に入ると、どんよりとした重たい空気が流れていた。その理由はすぐにわかった。展示されている絵がどれもこれも暗いのである。こういう絵が松居は好きなのかもしれないが、愛はこういう辛気臭い絵は苦手である。とたんに憂鬱になる。お前の趣味になんで私が合わせなければならないのよ。あほんだら、ボケ、カス、クズとあらんかぎりの罵詈雑言を心の中で叫ぶ。もちろん、口には出さなかったけど。

「私、ちょっと気分がすぐれないのでロビーでお待ちします」

「ああ、そうですか。じゃあ僕一人で見ていますね。せっかく来たので」

 と言い残してさっさと観賞に戻ってしまった。普通大丈夫ですか、見るのをやめてどこかで休みましょうかとか言うだろうに。自分勝手にもほどがある。踏んだり蹴ったりラジバンダリー(ラジバンダリがわからない人は、ネットで調べてねー)

 結局、松居がロビーに戻ってきたのは一時間後だった。この間、愛は徹に電話をして、ずっと文句を言っていた。途中、会議中だったらしい徹が愛の文句に適当な相槌を打ったため、怒りの矛先を徹にも向けた。辟易とした様子の徹が、バイト料を三倍にするから勘弁してくれと言ったので、そこで手を打った。

 タクシーで青山にあるイタリアンのお店に行く。横道に入ったところにある、こじんまりとしたいい店だった。店の選択は悪くない。

「いい店ですね」

「ネットで調べたら女性が喜ぶイタリアンの店の第三位に入っていました」

「あのねえ、なんでも正直に言えばいいってっもんじゃないんですよ、松居さん」

 それにどうせネットで調べたのなら、一位の店にすれば良くなくない。とはいえ徹にバイト料三倍を提示されたので、ここでは柔らかく忠告した。

「ああ、そうなんですね。勉強になります。こういう時はなんといえばいいんでしょうか」

「そうですね。たとえば、素敵なあなたに合う店を探していたら、このお店に出会えました、とかね」

 自分で言ってても身体がムズ痒い。

「さすがですね、愛さん」

 あれまあ信じちゃったよ。知ーらないっと。店はおしゃれな感じだったけど、洗練されすぎてないところが良かった。そのことを店主に告げると、内装はできる限り自分たちでやったとのこと。もともとセンスのいい人なのだろう。席に着くと店主がメニューを持ってきた。

「実はこのお店、イタリアンなんですけど、カレーライスが有名なんです」

 そういう『なのにグルメ』が今流行っていることは知っている。それにしても、初めてのデートでカレーライスをチョイスしてしまうところがダメなところだ。

「で、今から私たちもカレーを食べるわけ?」

「せっかくですから」

 三倍になったバイト料が頭を過る。この男のためじゃなく、バイト料のために我慢する。

 運ばれてきたカレーは、どう見ても普通のカレーだった。よく言えば昔懐かしい味というのだろうが、要するに特別においしくはないということだ。

 自分がしゃべらないと会話が弾みそうもなかったので、話をふる。

「私、ヨーロッパの古い家具が好きなんですけど、松居さんどう思います?」

 この質問は、松居の気持ちに火をつけてしまったようだ。とたんに饒舌になった。やがて、自分の作った家具の自慢話に発展し出したので、一応合いの手を入れておく。

「よっ、じまんばなしー」

 とまるで打ち上げ花火の掛け声のように、口の横に両手を軽く添えて言ってやった。

「いや~、その~」

 ばつが悪かったのか、話をストップさせて再びカレーを食べ始める。そして、添え物のラッキョウをひとつ口に入れたまま話を続けようとしたのだが…。その瞬間口からラッキョウが見事な放物線を描き、スローモーションのように愛の皿の横にポトリと不時着した。これは何? 私は何を見せられてるの さすがの愛もこれには切れた。

「オーマイゴッド」

 結局、予定にあった甘味処に行くこともなく模擬デートは終了した。


                  七

 徹の会社のアルバイトを継続してはいるが、かといって愛の生活ぶりに大きな変化はない。相変わらず、伯父さんの会社(ちなみに伯父さんはその会社の会長である)の受付嬢をしながらボーイフレンドとのデート三昧な日々を送っている。ただ、徹の会社のバイトのお陰で、生活が今までよりバラエティに富んだものとなったことも確かではある。

「なんか最近愛ちゃん、イキイキしてるね」

 朝食の食卓で、いつもは食べないトーストに手を出そうとした愛を見て、パパが言った。思わず、トーストから手を引っ込める。今日は愛の嫌いな会長の愛人のおばちゃんが会社に来る日なので、力をつけておこうと思っただけなのだ。あのおばちゃんは、おばちゃんのくせして、なんだか愛をライバル視してくるのだ。そもそも、会長なんか愛にとっては対象外だって言うのに。きれいで可愛いというのも良し悪しだと思う愛であった。

「そうなのよね。休日の度にウキウキした顔して出かけるのよ」

 今度はママの番だ。二人してうるさい。

「ついに本命が現れたのかな」

 パパが半分哀しそうな顔をしながら言う。

「違う、違う。私の理想はチョモランマよりも高く、富士山さんよりも綺麗なんだから」

「なんだかよくわからない喩だなあ」

「ともかく安易な妥協は絶対しないから、大船(おおふな)に乗った気持ちでいいよ」

「おおふなじゃなくて、おおぶねね。でも、そんなこと言ってたら、いつになっても相手は現れないよ」

 などと、困ったような顔を作りながらも、内心の嬉しさが顔ににじみ出てしまっている。ほんとうは、お嫁になんかいってほしくないのである。そんなパパがかわいい。

「大丈夫。女はいざとなったら現実的になるから」

 ママの醒めた答え。でも、ママは現実的になれなかったから失敗しなかったんじゃないのと、二人を見ながら心の中で毒づく愛。

 朝食を終え、二階の自室で出勤の準備をしていると、携帯が鳴った。

 ボーイフレンドの一人からだ。

「はい、マツジュン」

「やめてよ、照れるじゃない」

「照れるなよ、ただあだ名を言っただけだから」

「相変わらず冷たいね。ところで、来週の木曜日、愛ちゃんの誕生日だよね。時間とれる?」

 大学病院の息子で自らも外科医の松本淳(通称、マツジュン。間違ってはいないので始末に悪い)というボンボンからのデートの誘いだ。家柄、本人の学歴、経歴、年収、将来性などから言えば、愛の結婚相手の有力候補のひとりといって良い。しかも、先方は本気だ。定期的に会っていて、これまでに二回ほどプロポーズもされているが、愛は適当にはぐらかせている。何せ顔が好みじゃない。愛の好みは、菅田将暉と坂口健太郎と竹内涼真と松坂桃李とを全部合わせたような顔なのだ。そんな人、世の中にいるはずもないけれど。それに、その日は12人からデートの申し込みがきている。

「うんとねえー、その日は交通整理がまだできていないので、なんともわかりかねまする」

「交通整理?」

「まあ、こっちの符丁でーす」

「不調?愛ちゃん、どこか悪いの?」

 さすが医者。すぐにそちらに頭が働く。

「そのふちょうじゃないわ。ともかく、今はわからないので、後日改めてこちらからメールでお答えいたします。では」

 そう言って、さっさと電話を切る。

「そろそろ時間よ」

 階下からママの声がする。

 結局誕生日は、女友達の美穂子と過ごすことにした。特定の男とデートすると、後々いろんな噂がかけめぐり面倒くさいからだ。

 その誕生日の翌日の夜、パパから話があると言われた。書斎に来るようにとのことだったので行ってみる。ドアを叩く。

「入って」

 中からパパの、いつもとは微妙に違う気取った声がする。気に食わないので、ドアの陰に隠れ、パパがドアを開けに来るのを待つ。案の定、愛が入ってこないのを訝しく思ったパパが近づいてきてドアを開けた。

「ワッ」

 待ち構えていた愛が、開いたドアの陰から思い切り飛び出して、パパを驚かす。

「あっ、あっ、あー」

 パパはオカマチックな変な声を出しながら、腰でも抜かしたんじゃないかと思うようにへなへなと後ろに下がった。自分で驚かしておきながら、そんなパパの姿に興ざめした愛は冷たく言い放った。

「何それ、かっこ悪。それに今、パパ、オネエみたいだったよ」

 愛の指摘も何のその。パパはいたずらされたことに怒っていた。

「いやー、驚いた。こういうの、止めてくれないかな。家の中でもおちおちできやしないじゃないか、まったく」

 そう。愛には前科がある。それも前科十犯ぐらいの。いたずら好きな愛は、家人はちろん、来客にも平気でいたずらを仕掛ける。中でも、徹は絶好の餌食だ。なので、徹は愛の家に来ることを極端に嫌がる。

「ごめんね、パパ。でも、ちょっとは楽しかったでしょ」

 パパが大好きな、愛の可愛さマックスの笑顔を向けて言ってあげる。

「バカ言うな」

「あら可愛い。照れちゃって」

「親をからかってどうするんだ。とにかく入って」

 パパは書斎机の椅子に座り、その前の椅子に愛を座らせる。珍しく神妙な顔をしたパパが目の前にいる。

「パパ、なんか顔が怖い」

「生まれつきだ」

「そんなことないよ。パパはいーつもハンサムで優しい顔してるよ。特にママに対してはね」

「パパだって、真面目な話をするときは、真剣な顔になる」

「するってーと、会社ではいつもこんな顔をなさっていらっしゃるってーわけですか」

「いったい何時代の人間だ。そろそろ、時々使う、そのへんな言葉遣いも止めなさい」

「は~い、わかりました」

 今日のパパには冗談も通じないらしい。

「ところで、愛は昨日の誕生日で24歳になったんだよな。パパからのプレゼントはママに渡してあるから後で受取りなさい」

「えっ、何プレゼントしてくれたの?前にお願いしていたエルメスのバーキン?」

「まあ、そんなところだ」

 パパの顔が一瞬ゆるむ。何事も隠せない性格。なんていい人なの、パパは。

「ふ~ん」

 でも、敢えて嬉しそうな顔はしてあげない。だって、今のパパは怖いんだもん。

「で、あの約束は覚えているね」

「えっ、あの約束って?」

 とぼけるがもちろん覚えている。できればパパが忘れてくれていることを期待したんだけど。

「24歳になったら、勤め、といってもアルバイトだけど。とにかく、仕事を辞めて、家で家事手伝いをしながら花嫁修業に専念するという約束だ。すでに、伯父さんにはパパのほうから連絡してある」

「ずいぶん手回しがいいのね。でっ、会長は?」

「特に何も言ってなかったけど」

「そんなはずないけどなあ。愛ちゃんのことが愛人の次に好きだって、毎日耳元で囁かれてるんだから」

「なんだそりゃあ。本当か?」

「ウソぴょん」

「もう、本気で伯父さんに注意しようかと思っちゃったじゃないか」

「でも、あのおじいちゃん、なかなか危険だよ。あの年で結構若い子にモテるから。パパと同じで」

 会話の中で、何気なく相手を褒めるというテクニックをここでも使う。

「パパはそんなことはない」

 とか言いながら、ちょっと嬉しそうなパパ。どうして男って、こうも単純なのだろうか。

「それで、花嫁修業って何するの?」

「そのことはすでにママと相談して決めてある。生け花、茶道、書道、料理、日本舞踊、英会話、その他だ。スケジュールはママと相談して決めなさい」

「えーーーーーーーーーーーーーーーーー」

「そんなに驚くことはないだろう」

「だって、だって、そんなにいろんなことやったら、他に何もできなくなっちゃうじゃない」

「もう何もしなくていいから。これからは、愛ちゃんが理想の花嫁になるためだけのことをしてほしい」

「そんなことやらなくても、愛は理想の花嫁になれると思うけどなあ…」

「それはない」

 ここだけは毅然として答えたパパ。あらあ、バレてるの?

「だって」

「だっても、にっちもさっちもブルドッグだ」

 パパが放った痛恨の親父ギャグ。なんかパパ可愛い。頭をポンポンしてあげようと、椅子から立ち上がり、パパのところへ近づくと、パパもびっくりして立ち上がってしまった。

「何だ、何だ」

「何で逃げるのよ。頭ポンポンしてあげようと思ったのに」

「もーお、止めなさい。そういうのは、愛ちゃんが男からされるものだろう」

 どこまでも真面目なパパは正論しか言わない。

「真面目かあ。つまんな~い。せっかくパパに優しくしようと思ったのに」

 これにはパパも照れちゃって、デレデレ状態になる。

「とにかく、そういうことだから、明日から頑張ってね、愛ちゃん」

 と、顔を引き締めて、引導を渡された。

 その日の一週間後から、地獄の花嫁修業が始まった。それでも最初はわりとゆるやかであったため、夜はボーイフレンドとの楽しいデートや女友達と遊ぶ機会もあったのだが…。次第にタイトなスケジュールとなっていき、遊ぶ時間が極端に減ってしまい、唯一の楽しみは土日にたまにする徹の会社のアルバイトくらいになっていた。


              八

 家事手伝いと言っても、実際のところママはほとんど家事をしないから、愛は月雪家に一人いるお手伝いさんの和美子さんから教えてもらうことになる。お手伝いのお手伝いって、なんかへんとか思いながら。和美さんはママから言われているらしく、案外厳しい。掃除の仕方、洗濯物の干し方、畳み方に始まり、買い物も一緒に出掛けて品物の選び方などを教わる。もちろん、家に帰った後の料理も一緒に作っている。その内容も次第にハードになっていく。

 当初、生け花や茶道などの習い事は昼間だけと聞いていたのに、夜のコースまで受けさせられることになり、ほとんど愛にはプライベートの時間がなくなってしまった。

 ひどい、非人道的だ、労働搾取か、まるでブラック企業だなどなど、愛が知っている限りの言葉を使って、パパとママに訴えるが、相手にしてくれない。

 そんな愛の船出を誰よりも面白がったのは徹であった。恐らく、ママから情報を得たのであろう、さっそく電話がかかってきた。

「ねえ、ねえ、おばさんから聞いたんだけど、愛ちゃん花嫁修業中なんだって」

 言葉のはしはしに笑いがにじみ出てしまっている。

「何よ、その嬉しそうな声。もう、ママったらおしゃべりなんだから」

「まあまあ、おばさんは愛ちゃんのために、僕にもサポートしてほしいと知らせてくれたんだから」

「徹ちゃんにサポートしてもらわなくちゃならないことなんてないよ。そもそも、徹ちゃんに頼むなんて、ママも男を見る目がないわね」

「それはどういう意味?」

 納得がいかないらしい。身の程知らずめ。

「そういう意味よ」

「あっ、そう」

「切れてる?」

「別に。それで、結構ハードなんだって?」

「そう。ママに鬼のようなスケジュールを組まれてるの。おかげで、自分の時間がなくなって、まったく遊べなくなって困っているの」

「そう。それは可哀そうだ」

「まったく感情がこもっていない」」

「バレちゃった? でもそうすると、もううちのバイトもできなくなるのかな」

「いや、それは大丈夫。さすがに土日は解放してくれるから。それに私もちょっとしたお小遣いはほしいし、息抜きもしたいしね。面白そうな案件なら引き受けるよ」

「それは良かった。しかし、愛ちゃんも大変だね。へっへっへ」

「人の不幸を笑うな。しかも、そのおかしな笑い方やめてくれい」

「だって、あの愛ちゃんが必死に花嫁修業をしているかと思っただけでもう面白いもんね」

「バッカじゃない。こっちは真剣に悩んでいるっていうのに…」

 そう言った後、急に黙り込んでしまった愛に、徹が勘違いした。

「えっ、ひょっとして、愛ちゃん泣いてるの?」

「何で私が泣かなけりゃならないのよ。そうじゃなくて、今話しているうちに飛んでもなくいいアイデアが浮かんじゃったわけ。前々から思っていたんだけど、私ってやっぱり天才かも」

「その説には、私は乗りません。だいたい、『やっぱり』って、どれだけの自信家なだろうね。それに、内容を聞かなければ何も判断できません」

「冷静にツッコムな。でもね、これから話すのは徹ちゃんの会社にとってもいい話だからさあ。どうしよっかな。タダっていうわけにはいかないかも…」

「おっとー、もったいつけるねえ。そんなにハードル上げちゃって大丈夫?」

「なら話すの止めようか」

「まあそう言わず、とにかく話してみてよ。それから考えるから」

「愛ちゃんの発想力をバカにするでない」

「わかったよ。わかったから早く言って」

「どんどん聞きたくなってきたでしょう。じゃあこれから話すから、その汚い耳の穴をかっぽじって聞くのじゃ。わかったか、下級侍」

「下級侍って何?それに、そんな下品な言葉を使わないの。顔に似合わないから」

「ということは、顔が可愛いってことは認めてるっていうことよね」

「はい、はい、そうでーす」

「私が今やっている花嫁修業の内容を、そっくりそのまま徹ちゃん会社の結婚相談所で講座というかコースとして組み込むっていう案なんだけど、どう?」

「ん?」

「あったま悪いなあ。一つ聞いたら、せめて三つくらいわかれって、つーの。お釈迦様みたいに」

「それ、聖徳太子じゃねー」

「黙れ、若造。そこでは、料理や生け花、茶道といった定番講座だけでなく、洗濯物の畳み方、野菜の選び方といった実践技術を教えるだけでなく、姑との付き合い方といった生々しい講座も開くの。そうすれば、これから結婚しようという女性にとってはありがたいものになるから、女性会員が増えるでしょう。さらに、そんなことまで身に着いた女性と出会えるということで、きっと男性会員も増えると思う。他社との差別化になるんだから、受講料はなるべく安くすればいいのよ。いろんな技術や技能の師範の免許持ってて、使いこなしてない人なんていっぱい知ってるし、そういう人たちを使えばいいしね。どお、いいことづくめだと思わない?」

「おー、それは面白いかも。さすが愛ちゃん」

「どうだ、参ったか」

「恐れ入りました」

「でね、ものは相談なんだけど。このアイデアを無償で徹ちゃんに譲るから、徹ちゃんの会社の企画会議に私を呼ぶということにして、私の自由時間捻出の協力をしてくれない」

「なるほどね。相変わらず悪知恵が働くね、愛ちゃん」

「悪知恵じゃなくて、機転がきいてるって言ってほしかったわね」

「いいよ。でもその代わり、また模擬デート入れてもいい?」

「しょうがないなあ。で、今度の相手は?」

「中小企業の社長」

「中小企業の社長かあ、なんか面倒くさそうだなあ」

「頼むよ」

「わかった。ところで、その後結衣ちゃんとはどうなってるの?」

「まあまあだよ」

「まあまあ? 別に隠さなくてもいいじゃないの、お湯くさい」

「いちいちわざと間違えないでくれる。ツッコムの面倒くさいから」

「はーい、すみまシェーンはアラン・ラッド主演のアメリカ映画」

「・・・・・」

「何で黙っちゃうのよ。で、本当のところはどうなのよ。まあキスぐらいは済ませているだろうけど、その先は?」

「何でそんなこと愛ちゃんに報告しなくちゃならないんだよ」

「だって、保護者だもん」

「頼んだ覚えはないけどなあ」

「頼まれなくたって、スーパーボランティアの精神で無償でやっております」

「尾畠さんに怒られるわ」

「たとえ、全世界が徹ちゃんの敵になったとしても、愛ちゃんが君を守る」

「どうやって守るんだろうね」

「そんなこと、君が心配するな」

「ああ見えて、徹ちゃんって頼りないから」

「ああ見えてって、今誰と話してるわけ」

「おっと、そこにいたか」

「さっきからいるわ」

「そんなことはいいから白状しなよ。何ならカツ丼でもとろうか?」

「今時、刑事ドラマでもカツ丼なんてとらないわ」

「わかったから、早く教えて」

 さすがに面倒になった徹が白状した。

「深い関係になりました」

「深い関係? てっ言うことは最後までいっちゃったっていうことよね。この、ドスケビッチー・オンナスキー」

「何それ?」

「ロシアの文豪」

「それはドストエフスキー」

「いつから変わったの」

「変わってないわ。しかし、疲れるなあ」

「何よ、その親戚みたいな気安い口調」

「ずっと前から親戚だわ」

「あらあ、そうなの。でもさあ、それってセクハラじゃないの」

「何でだよ。恋人同士の合意の上だ」

「ゴーイドンってか」

「コンセンサス」

「コンセントさす?」

「愛ちゃんさあ、そろそろいい加減にしてもらえます」

「冷たいなあ。私って、徹ちゃんだけを頼りにここまで生きてきたっていうのに、その徹ちゃんにそんなこと言われたら、愛ちゃん、寂しくて死んじゃうんだから」

「嘘つけ。腐るほど愛ちゃんにかしずくボーイフレンドがいるじゃないか」

「そう言えば、最近ひとり腐ったよ。愛を捨ててハワイの大学へ逃げた」

「留学ね」

「そうも言うけどね。そう言えば、最近ママも愛のことウザがるんだ。この間なんか、愛ちゃんと話すのもうゴリゴリだって言われた」

「ゴリゴリ? コリゴリだろう。でも、また閃いちゃったことがあるんだけど、最後にひとつだけいい?」

「な、なんだよ。怖いな。本当に最後にしてよ」

「うん、約束する。またも徹ちゃんの会社へのサジェスチョンだから感謝して」

「ふ~ん」

「それでね、徹ちゃんのところの結婚相談所、今は若い人だけが対象じゃない。でも、人生100歳時代と言われる超高齢化社会の昨今」

「おっ、ドエライことになってきたぞ」

「黙って聞け」

「はい、はい、失礼致しました」

「そうなると、徹ちゃんのところでも、ビジネスとしてはいずれ高齢者も対象にすべきだと思うの。すでに、そういう会社もあるらしいけど」

「それはその通り。うちでも、ちゃんと考えてるよ」

「そこでよ。他社との差別化を図るために、さっきの花嫁講座と同じようにいろんな講座を開くの」

「なるほど。で、どんな講座?」

「シルバーの場合、男女に関わりない講座のほうがいいと思うの」

「うんそうかも」

「それでね、たとえばこんなのどう。たとえば、『穴場の格安墓地巡り』とか、『餅が喉に詰まった時のベストな対処法』とか、『こんな入れ歯の保管法は間違いだ』とか、『あなたの寿命を延ばす楽しい嫁のいびり方』とかね」

「ふっふ、面白いね。そういう発想、いつたいどこから出てくるんだろうね。そこだけは感心するよ」

「そこだけはとか言うな」

 花嫁修業の内容をコースとして開講するという愛のアイデアは採用された。おかげで、外出の理由づけもできるようになり、だいぶ自由時間もとれるようになった。なんだかんだといっても、徹は頼りになる『友達』だ。花嫁修業のほうも順調に進み、あの愛にも少しは女らしさが身についてきていた。



                  九

 夕食後に自室のベッドで足を投げ出し音楽を聴いていた時、部屋の外でママの声がした。

「何?」

 ドアを開けると。ママは無言で部屋に入ってきた。なんか顔が不愛想。えっ、私、何かやらしたと、ここ数日の自分の行動を振り返ってみるが思い当たる節はない。

「ちょっと話があるので、ママの部屋へ来て」

「えっ、ここじゃダメ?」

「ダメー」

「わかった。じゃあ行くから待ってて」

「すぐに来てよ。ママ忙しいんだから」

 なんか面倒くさいなあと思いつつも、ママから言われれば行かざるを得ない。

 ママの部屋に入ると、ママはいつになく真剣な顔をしている。そのママの顔を改めて見ると、その上品な美しさに圧倒される。

「ママって、どうしてそんなに綺麗なの?」

 とたんにママの顔が緩む。別に気勢をそぐつもりではなく、思ったままを口にした。

 でも、効果てきめんだった。

「あらあ、そぉお」

 ママは人に顔を褒められて否定したことがない。全部受け入れてしまう。根っからのプリンセス気質だ。

「愛ちゃんも、とっても可愛らしくてよ」

 親子で褒め合ってどうするんだと、自分にツッコむ愛。

「ありがとう。ママの子だもん。それに、ママ最近スタイル良くなってない?」

「ああ、わかる?。最近、ティラミスしてるの」

「ティラミス? それってスイーツだけど。ティラピスのことじゃない」

「ああ、それそれ」

 ママの言い間違いは朝飯前(ん? 日常ちゃはんじ?)だから慣れてる。

「でも、ピラティスって言うのが正解らしいよ」

「そうなの。なんかややこしいわね。ティラピアっていうのもあるじゃない」

「ああ、あれはママ、人面魚だから」

 ティラピアは人面魚とイコールじゃない。余計にややこしくする愛。すると、ママが、

「えっ、それはピラニアって言うのよ愛ちゃん」

 もう収拾がつかない。

「ところで、愛ちゃん、このところの化粧、ちょっと濃くない?」

「えっ、そおお」

「平日はそうでもないんだけど、たまの日曜日に出かける時の化粧が少し濃いわよねえ」

「あら、そうかしら」

「ママはちゃんと見てるんだからね。愛ちゃんはもともとママの大好きなパパの顔を受け継いで…」

「はいはい、ママがパパを大好きなのはわかっています」

 娘の前でも平気でのろけてくるママって、どういう感性してるんだろう。

「わかっていればいいんだけど。それで愛ちゃんはパパの顔に似て、もともとママよりもさらに派手な顔つきなんだから、薄化粧でも十分すぎるくらい綺麗なのよ。だから、化粧は濃くしないほうがいいわ」

「は~い、わかりました。で、話って?」

 このまま放っておくと、ママのことだからどんどん話がズレそうなので、先を促す。

「そうそう、大切なお話があるの」

「なあに。怖い話?」

「そんなことなくてよ。むしろいい話よ」

「ふ~ん」

「愛ちゃんの花嫁修業も一段落したじゃない。だから、そろそろお見合いをしてはどうかと、パパが言ってるの」

「お見合い?」

「って言うか、すでにパパが相手を見つけてるの」

「もぉお、勝手にどんどん進めないでよね」

「それはそうなんだけど。実はなかなかいい人なのよ。あの、みず友銀行の頭取さんの次男坊なのよ。家柄は申し分ないし、イケメンらしいし、もちろん頭も悪くないし…」

「だから何だって言うのよ。まるで封建時代の政略結婚みたいじゃない」

「そんなことないのよ。私も長男だったら反対したんだけど、次男坊だから、そのことはあまり意識しなくて大丈夫。それに、愛ちゃん、前々からママは顔だけで結婚したから失敗したんだって言ってたじゃない。だから、パパにはとにかく家柄のいい方というか、わかりやすく言えば、う~んとお金持ちを探してってリクエストしてたの」

「確かにそうは言ったけど、まだ見合いはしたくないよー」

「なぜよ。愛ちゃんだってそろそろ結婚を考える歳でしょう」

「それもそうなんだけど…」

「何をごちゃごちゃ言ってるの。なんかへんよ。誰か好きな人でもできた?」

「いないわけじゃないよ」

「ほんとなの?」

「まあね」

「何よ、その曖昧な答え。いずれにしても、写真や経歴書が近いうちに届くから真剣に考えてね」

「はいはい、は~い」

「そう言えば、徹ちゃんもまだ結婚してないのよね。確かもう35になるんじゃない。みんな心配してるらしいわよ。ママが思うには、徹ちゃんって、留学経験者じゃない」

 確かに徹は短期間だけど、留学経験がある。

「でも、ママだってそうじゃない」

 ママも留学経験がある。

「そうなんだけど。それでね、つい気取っちゃうところが女の子にもてないんじゃないかと思うの。たとえば、トマトのことをトメイトウとか言っちゃうじゃない。しかも、時々日本語をそのまま英語発音しちゃうのよね。スモモってあるじゃない。スモモは英語でプラムなんだけどさあ」

 この時点でママはおかしくてしょうがないらしく、声が笑っちゃってる。

「それなのに、徹ちゃんたらさあ、スモーモって言っちゃったのよ。ねえ、おもしろいでしょう」

「あれ、それって、この間ママが言っちゃったヤツじゃん」

「あれ、そうだったかしら」

 出ましたママの天然ボケ。

「でも、徹ちゃんにはちゃんと彼女がいるから大丈夫だよ」

「そうなの。心配して損しちゃった」

「別に、損はしてないと思うけどね」 

 と、そこへ一匹のチワワが入ってきて、尻尾を振りながら二人に近づいてきた。和美さんが目を離した隙にこの部屋へ紛れ込んだのだろう。

「あらあ、ワンちゃんが来たわよ。どこんちのワンちゃんかしらね」

「やーねー、ママ。うちの子よ」

「で、名前は?」

「名前? う~んとねえ」

 考えるふりをするが思出せない愛。チワワがそんな二人の様子を見て、小首を傾げている。

「和美さんに訊いてよ」

 投げやりな愛。

「それって、どうよ」

 どっちもどっちもだ。そこへ和美さんが現れた。

「すみません、奥様、チビちゃんがそちらへ行ってしまったようで…」

「ああ~チビだ」

 二人して声をあげる。ひどい話だ。うちの子よとか言ってるけど、和美さんちのワンちゃんと言ったほうがいい。ワンちゃんが和美さんとともに消えたところで、ママが突然大きな声をあげた。

「あっ、パパに電話するの忘れちゃった。大変。愛ちゃん、携帯貸して」

「いいよ」

 ママに自分の携帯を渡す。するとママは何度もパパに電話をしていたが、繋がらないようだった。

「何度電話してもツーツーとしか言わないの」

「パパ仕事が忙しいんじゃないの」

「そうなのかしら。でも、今日はこの時間帯にはいるって言ってたのよ」

 もしかして、もしかして、ママのことだから。

「ママ、何番に電話した?」

「ん? 09087〇〇〇××…よ」

「それ、私の携帯番号だから」

「ええー、そうなの、やだー」

「いやなのはこっちのほうよ」

「でも、私の携帯からかけてるんだから、電話は繋がるんじゃなくて」

「ママ、それ私の携帯だし」

「あっ、そうだった。私ったら」

 そう言って、愛に携帯を返そうとするので、

「パパに電話するんじゃなかったの」

 世話がやけるママ。日本は平和だ。

「ああそうだ。早く言ってよね」

「もうダメ。ママにはついていけない」

 ようやく本来の目的であるパパへの電話に成功したママ。

「でも、ママつて本当に天然よね」

「愛ちゃん、ママは天然じゃないのよ。パパという生け簀の中で育てられた養殖なのよ」

「ワオー、なんだかよくわかんなにけど、カッコいい」

「ありがと」

「じゃあ、ママ。私はこれで豚のカツラです」

「豚のカツラ?」

「トンヅラ」

 この家は大丈夫なのだろうか。


 


                  十

 今度の相手は中小企業の社長だという。代々印刷会社を営む会社の三代目で、年齢は55歳。バツイチ。まだ独身の娘が一人いるらしい。なんだか面倒くさそうな匂いがするが、まあいいかと思う。

 今回は愛が花嫁修業で忙しくて事前に写真を見ていなかったが、どうせアルバイトなので別にどんな男でもいいというやり投げになっていた。いや違う、投げやりだった。

 当日、いつものように事務所に行く。一階でエレベーターに乗り込んだところ、先客が一人いた。チビ、デブ、ハゲの三拍子揃ったそのお方は、愛と同じ階で降りた。いや~な予感の通り、そのお方は愛より先に徹の事務所に入った。ただ、他の用事できた人ということもあるので、とりあえずは少し遅れて愛も事務所に入る。

 結衣ちゃんに呼ばれ、いつもの応接室に入ると、やっぱり、あのお方がソファーに座っていた。チビ、デブ、ハゲ。徹は、愛に一番伝えなければならない、この大事な情報を敢えて伝えなかった(言えば断られると思って)。詐欺師、ペテン師、騙し打ち。徹のヤツ、許さないぞ。あまりのことに、「失礼しました」と部屋を間違ったふりをして、踵を返して帰ろうと後ろを向いた時、部屋に入っきた徹と鉢合わせになった。

「おっと、月雪さんじゃないですか」

 にこやかな顔をした徹が、愛の身体を両手を開き、正面から受け止める。まるで、愛が徹の腕の中に飛び込むような形になり、危うく徹に抱きしめられそうになる。ギリギリのところで止まったからいいものの。何で徹にまだこの汚れのない、清らかな身体を捧げなければならないのよ(ほんとうかどうかは別にして)。

「帰るのは契約違反だぜ」

 耳のあたりで囁く徹。

「あんただって、肝心な情報を伝えなかったんだから契約違反よ」

「まあ、そんなこと言わずに一役かってよ」

 今回はこのバイト料で買うものを決めてしまっていたし、しょうがないと我慢する。しかし、愛はこの日に限って、典型的なお嬢様ファツションで来てしまっていた。それはこの模擬デートの後に、最近気に入っているボーイフレンドとの本当のデートを入れていたからだ。フォクシーのベージュのワンピースに、イエローのカーディガン。靴はブルーノマリ。ハリーウィンストンのネックレス。ケリーのバッグ等々。ああ、あのオヤジとの模擬デートとなれば、リアル版美女と野獣になっちゃうじゃないのと嘆く愛であった。

 愛がオヤジの座るソファーに近づくと、オヤジが立ち上がった。ちっさい。150センチくらいだろうか。

「こちら、山中信也さん」

 と、徹が紹介する。どこかで聞いたことがある名前。頭だけ下げるオヤジ。オヤジの身長を事前に聞いていなかった愛は、よりによって今日はいつもより高いハイヒールを履いてきていた。結果、オヤジより20センチは高い。必然的にオヤジの毛のない頭を上から見下ろす形になった。

[ハゲとるやないかい」

 正直な愛は正直に言った。

 笑いをこらえている徹と結衣。で、オヤジはてっきり怒るかと思いきや、少しニヤけた顔で、

「わしがハゲとるってか。そんなわけアルマーニ」

 アルマーニときた。さらにその後、自分の頭を触り、

「あっ、ほんまや」

 やっかいなオヤジが来ちゃったぞ。

 一連のギャグが終わったところで、愛が一応挨拶する。

「初めまして。私、月雪愛と申します」

 飛び切りの営業スマイルを浴びせておく。

「あっ、どうも」 

 何だあ~。『あっ、どうも』だと。いい年こいたオヤジの挨拶か。おまけに、よく見れば前歯が一本欠けているし…。ああ、先が思いやられる。

 やっぱりさっき帰っておけばよかった。そんな愛の思いを無視して、徹が事務的に進めていく。一通り二人を紹介し、「ではどうぞデートへご出発ください」と陽気な笑顔でさっさと送り出された。

 ビルを出ると、一階の大きなガラスに二人並んだ姿が映って見えた。その異様さは、大きな女が小さな宇宙人を掴んでいる、あの有名な写真のようだ。ただ、宇宙人にしてはオヤジが太り過ぎているけれど。

 それに、さっきから隣で「フーフー、スース―」と音がする。ひょっとして、このオヤジの鼻息か。ああ嫌だ。

「とりあえず喫茶店でお話ししましょう」

 このまま外を一緒に歩くのは耐えられそうになかったので、無理矢理喫茶店に誘う。いっそのこと、このデート、喫茶店で終わらせてもいい。

「いいよ、俺は」

 オ、オレはだと?かりそめにもデートだっていうのに、オレって、あまりにも品がない。幸い、喫茶店は近くにあった。店に入ると、愛はさっさと店の一番奥の席を目指す。とにかく目立ちたくないのだ。

「改めまして、山中信也と言います」

 名刺を愛に渡しながら再び自己紹介をする。

「と言っても、ノーベル賞をとっていないほうのね」

「そんなの、一目見た時からわかっていましたよ。安心なさってください」

 似ても似つかないので、誰でもわかるっていうのに、もう定番の挨拶になっているのだろう。その証拠に、妙に嬉しそうである。

「別に安心はしない」

 とオヤジ。

「安心しろって」

 と愛。

「それに、私、三代目なんですよ。といっても、Jソウルブラウザじゃないんですけどね」

「あかん、あほくさ、しょうもない」

 と、知ってる大阪弁を三つ並べてみる。

「ヤカン?」

「あほか。あかんや。私、こう見えて大阪生まれで東京育ちのニューハーフでんねん」

「なんか言ってることへんなんだけど」

「そんなことはどうでもいいっての。さっきから聞いていれば、くだらないことばかり。ちなみに、ブラウザじゃなくてブラザーズですから」

 出来得る限りの冷たい言葉で言った。

「あっそう。ところで、愛さんて美人ですよね。ひょっとして、パンツ履いてなかったりして。美人はくめい、なんちゃって」

 最低ー、初めて会った女性にこの下ネタ。

「山中さん、わが日本国にはセクハラって言う言葉があるのご存知ないんですか?」

「ちょっとした冗談ですよ。もうしませんから」

 急に声が小さくなったが、本当に反省してるのか怪しいものだ。徹にきつく言っておこう。全世界の女性を代表して。

「ここはフィリピンパブじゃないんですから」

「あれえ? 俺がフィリピンパブに通ってるの、よくわかったね」

 お前のその冗談がだよと言ってやろうと思ったが、

「そういう顔してますよ」

「へえー、そういう顔ねえ」

 そこは感心するところじゃないだろう。

 正面に座るオヤジの顔を改めて見ると、鼻の下に黒いものがちろっと見える。『鼻毛』だ。しかも、ふっとい。思わず目を背けたが、また見てしまう。怖いものみたさというのだろうか。

「あのお、伸びてますけど」

「何が?」

「鼻の下」

「ああ、それは昔から」

 何を寝ぼけたことを言ってるのだ、このオヤジは。全然気づく様子もなさそうなので、はっきり言ってやろうと、少し前のめりになると、何を勘違いしたのか、オヤジも顔を寄せてくる。バッカじゃないの。慌てて顔を引いて、口を大きく開け、はっきりと、噛んで含めるように言ってやった。

「は・な・げ」

「あっ、ちょっと待ってね」

 と、鼻の下に手を伸ばし、鼻毛を確認する。しかし、さして驚く様子もなく、まるで顎髭を撫でるがごとく触っている。きったな~いい。どうするのかと見ていると、人差し指で一気に鼻の穴に押し込んだ。さいあく~。

「これでもう大丈夫」

「いや~、そんなの、ちょっと鼻をフンてしたらまた飛び出ちゃいますよ」

「ハナでフン忠臣蔵なんちゃって」

 そう言って、先ほど鼻毛を鼻穴に突っ込んだ人差し指を、おしぼりで拭きやがった。これだから、「おしぼり」は怖い。

「ま~あ、くだらない」

 ここで話題を変える必要があると思った愛が、オヤジに訊く。

「山中さんの趣味って何ですか?」

「釣り。といっても、丘釣りのほうだけどね」

「どうせフィリピンパブで釣ってるんでしょう」

「当たりぃ。よくわかるね」

「しょうもない」 

 心の声が口に出たが、オヤジは何も感じていないようだ。日頃から独身の一人娘にあれこれ言われ慣れているのだろうか。

「他の釣り堀じゃ無理そうだしね。それに、山中さん、釣っているつもりで釣られちゃってるのってわかります」

「こりゃあ参った」 

 と言って、オヤジお決まりの自分の頭を叩くってやつを見せた。

「ところで、俺、いくつに見える?」

 出ました。日本一くだらない質問。最近なぜか中高年の人によく訊かれるけど、まったくもってどうでもいい質問だと愛は思っている。しかも、こちらが『おいくつですか?』などとうかつにも訊いてしまった時にも『いくつに見える』と返されてしまうことがある。『お若いですねえ』という返事を期待しての質問だろうけど、そのやりとり自体が面倒くさいったらありゃしない。さっさと自分の本当の年齢を言ってもらいたいものである。『お若いですねえ』と言ってる人の半分以上がお世辞なのもわからないのだろうか。しかも、このオヤジに関しては、事前に55歳と聞いているし。(お互いのプロフィールを事前交換しているのを忘れていいるのか).ということで、敢えて上を言う。

「65歳でしょう」

「えっ、何て?」

「だから、65歳でしょ」

 てっきり、本当の歳より下に言うと思っていたのだろう。当てが外れたもので、逆切れした。

「嘘だろう」

「本当の歳より下に言って。若~いとか言ってほしかった?」

「そういうことじゃねーけどさあ」

 『ネーケド』だって。何と品のない。

「そう思ってたんじゃネーノ。本当は55歳でしょ」

 ねーけどにはネーノで返す。

「何だ、知ってたのかよー。そりゃないよ」

「そりゃないよって言ったって、お互いのプロフィールを事前交換してるじゃない。私はよく見てなかったために失敗して今ここにいますけどね」

「俺も、追加で送ってもらった顔写真だけは舐めるように見たけど、後はよく見てなかったな」

 『追加で送ってもらった顔写真』だと? 徹のヤツ、許可なく私の写真を使うな。

「わっ、気持ち悪ぃー」

「何がだよ」

「今、舐めるようにって言ったじゃない。もう犯罪レベル」

「犯罪ラベルってか」

 レベルをラベルと言うのも典型的なオヤジギャグなので、無視。

「金を出して送ってもらった資料なんだから、何しようと俺の自由じゃないか」

 理屈は正解だが、とにかく気持ち悪い。

「最低、最悪」

「ええー、そんなに怒んなくてもいいんじゃないの」

「・・・・・」

 もう口をきくのもウザイ。すると、オヤジは焦ったのか、先ほど鼻の穴に突っ込んだ指を拭ったおしぼりで、その脂ぎった額を拭いた。おまけに、返す刀で(この使い方は間違ってるかもね)、テーブルまで拭いた。中年オヤジの言う、おしぼり最強説を垣間見た。中には、脇汗を拭いたり、鼻をかむツワモノ(?)までいるらしい。ああ恐ろしや。

「おしぼりは手を拭くためだけにあるんですけど」

 このまま無言でいて、さっさと帰ろうかと思ったが、思わず口に出てしまった。

「あのねえ、これもどう使おうと、カラスの勝手でしょ」

 そうきたか。

「私が見えないところでしたら、カラスの勝手ですけど」

「おっとー、ノリがいいね。気に入ったぜい」

「別に気に入らなくても結構です。ただ、お宅のラベルに合わせただけですから」

「お宅って、冷たい言い方だねえ」

 無視。

「そいでさあ、あなた、どんな趣味?」 

 『そいでさあ』なんて日本語は初めて聞いた。何と答えようかと迷ったが、敢えてここはごく普通の答えにしておく。

「映画を見ることくらいですかねえ」

「映画ねえ。じゃあ、これから一緒に映画でも観に行く?」

「いや、ご遠慮しておきます」 

 ここはきっぱり断っておく。なんでこんなオヤジと並んで映画を観なけりゃならないのよ。それに、どさくさに紛れて手を握ってくることだってあり得る。

「じゃあ、この後、どうする?」

 『する?』じゃあなくて、『します?』だろうに。さっきからずっと言葉遣いが気になっている。

「さっきからずっと気になっているんですけど、その言葉遣い?」

「言葉遣い?」

 何の自覚もないようだ。

「そうです。初めてお会いしたばかりなのに、その友達的な言い方やめていただくと嬉しいんですが」

「そんなカタイこと言わないでよ。歳が離れているからこそ、距離を縮めなくちゃダメでしょう」

「別に距離を縮めたいなんて思ってないですけど」

「そんなあ、照れちゃって」

 ダメだこりゃあ。物言えば唇寒し最上川。あれ、どこか違うなあ(物言えば唇寒し秋の風と、五月雨を集めて早し最上川というともに芭蕉の句が混じっちゃったのだ。惜しいなあ、愛ちゃん)。まあいいか。愛は偏差値は低くないけれど、常識がちょっと人様とズレているので。

「まあ、いいです。それより…」

 時計を見てみると、模擬デート終了まであと一時間半もある。そりゃあそうだ。まだ始まったばかりなんだから。どこかレストランにでも連れて行くか。試す意味で訊いてみる。

「ガストロノミージョエル・ロブションって知ってます?」

「プロレスラーの名前か」

 あほちゃう。知らないなら知らないって言え。

「さすが博識ですね」

「だてに年取ってはいない」

 はい、残念ながら、あなたはだてに年とってます。

「ちなみに、さっきのはフレンチレストランの名です」

「ハレンチ?」

「もう言うことなすこと、最低ですね」

「だって、そんなの知らんがな。ガストは知ってるけどな」

「はい、はい、そうでしょうとも。あっ、そうしたら、私の知っている洋食屋さんというか、レストランに行きません?」

 自分の行きつけの店にこのオヤジを連れて行くことなんてできないので、一度だけ大学の友人に連れていってもらった店にする。その店は一応、洋食屋を謳ってはいるが、客の要望に応えているうちに、今では和洋中のなんでもある。どうせ味音痴のこのオヤジにはぴったりの店だ。それに、そこならここから車で行ける。何がなんでも、このオヤジと一緒に歩きたくない。万が一ボーイフレンドにでも観られたら、何を言われるかわかったものではない。

「ああ、いいね。まだ昼食食べてないし」

「じゃあ、早速行きましょう」

 さっさと立って歩き出す愛の後ろをちょこちょことついてくるオヤジ。店の人にタクシーの手配を頼むと、すぐに車はやってきた。およそ20分で店に着く。昼のランチ時間を過ぎていたため店は比較的空いていた。席に着くなりオヤジは言った・

「いい店だね。さすがお嬢ちゃまはいい店を知っている」

「今お嬢ちゃまって言いました?」

「だって、お嬢ちゃまでしょう」

「『ちゃま』はないでしょう。私、帰りますよ」

 さすがにブチ切れたので顔面いっぱいに怒りを露わにして言った。すると、これはマズイと思ったのか、とたんに慌てて両手をこすりながら、

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 まるでハエのようだ。ちょうどその時、店員がメニューを持って現れた。

「いらっしゃいませ。ご注文が決まりましたらお呼びください」

 店員が去った後、オヤジはメニューを見ながら愛に訊く。

「この店は何がおいしいの?」

「トンカツです」

「ああ、トンカツね。じゃあそれは頼むとして、せっかくだからもっといろいろ頼もうよ」

 この後、ボーイフレンドとのデートがあるので、お腹にたまるものは口にしたくない。

「いえ、私は小食なので」

「え、そんな遠慮せんでいい。何せ安いし、金ならある」

 『何せ安いし』『金ならある』。ケチなくせに金持ちアピールというドン引きな言葉だ。安くなかったらトンカツしか頼まないつもりだったのかよ。デートで値段に反応すること自体、品がない。もっともこの男に品を求めること自体無理がありそうだけど。それに、『金ならある』発言も、この手の中年小金持ちのオヤジがよく言う台詞。

「いえ、結構です。山中さん、黄金虫っていう童謡知ってます?」

「バカにするな。それくらい知ってるわ」

「そうですか。あれ、コガネムシは金持ちだっていう歌詞ですよね」

「そうそう」

「まるで、山中さんみたいですね」

「確かに俺は金持ちと言えば金持ちかもな」

 自分で言っちゃったよ。金持ちと言っても、小金持ちなのにね。

「そういう意味で言ったんじゃないんですよ。あの歌詞に出てくるコガネムシって、ゴキブリのことをさすらしいんですけど、知ってましたらた?」

 何回も言うが、愛は常識はないが、へんな知識はあるのだ。

「へえー、そうなのか。だから?」

「それ以上は何も言えません」

「えっ、それってどういう意味?」

 コガネムシと小金持ちをかけたのと、コガネムシがゴキブリのことをさすという二重の意味をオヤジにかけて言ったんだけど。わかんないヤツはわかんないままでいい。

 何も気づかないオヤジは値段が低いことに安心したのか、急に気が大きくなったようで、ビールを始めいろんな品を選んだ。愛は野菜サラダや軽いものを数品頼む。お互いの注文品が決まったところで、オヤジが、まるでラジオ体操をするかのように右手を大きくあげて店員を呼ぶ。

「お~い」

 ちょっと離れたところにいた店員を偉そうに手招きしながら呼びつける。何か嫌な予感がする。

「まずはビールを一つ。それからこれとこれとこれ。あっ、それからこれもね」

 一通り注文が終わったところで、

「この店はおしぼりを出さないのか」

 大好きなおしのりぼりが出て来ないことに、怒気を含んだ声で言う。この店は、ビニールに包まれたウエットティッシュが席の小さな箱の中にはいっているのだ。それを店員が説明すると、

「なんだよ。そんなの先に説明しろよ。なあ」

 と愛に相槌を求める。お願いだから、私を巻き込むのは止めて。愛は、箱の横に大き目な字で書かれている説明書を指さす。

「ああ、これね」

 お前は何様だあ。その上から目線を止めろ。こっちが恥ずかしくなる。改めて、自分の行きつけおの店を紹介しなくてよかったと思う。

 昼間から酒を飲み始めたこの男は、この後どんどん調子に乗り、オヤジギャグやらダジャレを連発するという地獄ような場面がやってくることになる。

その日風邪気味だった愛が咳をすると、

「今度咳をする時はちょっと待って」

「はっ?」

「せきの五分まつ、なんちゃって」

「さぶ~い」

 『関の五本松』のこと言ってるのだ。『関の五本松』のことを知っている自分もどうよと思うけど。愛の周りにはおじ様(このオヤジとは違って、みんな品がいい)も結構いるので、古いことも知っているのである。

 しかし、これが悪夢の始まりだった。ビールから日本酒に変えたあたりから山中のエンジンが全開になった。

 おつまみの白菜を箸でつまみあげ、

「人生はくさい時代、とか言っちゃって」

 さっきからこのオヤジが使う『なんちゃって』とか『とか言っちゃって』とかにイラついていた愛は無視する。

「じゃあ、白菜食べて歯~くさいってのはどうよ」

「つまんない」

「あれ、これもダメか。じゃあ」

 今度はボトルに入れた一升瓶を指して言う。

「一升瓶は、一生ビン」

「くだらない」

「そんなこと言うなよ。そう言えば、今まで言わなかったけど…」

「はい、今まで聞かなかったけど」

「マジ受けるんですけど~」

 中年オヤジのこれはきつい。その容姿とのギャップが異様だ。いつたい、どこで覚えたのか。

「マジ気持ち悪いんですけど~。いったい、その言葉どこで覚えたのよ」

「娘が言ってた」

「ああ、なるへそね」

「今、なるへそって言ったよね。それって、『たんま』とかと同じで昭和死語だぜ。若い人は使わないと思うけどなあ」

「はい、私、10万飛んで56歳ですから」

「デーモン閣下か。あれ、俺今何の話をしてたっけ?」

「今まで言わなかったけど、の先です」

「そうそう、俺、こう見えて昔はモテモテだったんだよ」

 突然のモテ話。

「こう見えて?」

 しかし、これも中年オヤジに多い台詞のひとつだ。若い頃の武勇伝とか、若い頃やっちゃやってましたみたいな発言と同じレベルのバカバカしさ。そんなの聞かされて女の子の気持ちが動くと思ってること自体、馬鹿げている。

「そうだよ。そう見えない?」

 誰が信じろというのか。

「こう見ても、どう見ても、申し訳ないけど、まったく見えませんね。女性は、その人が過去に本当にモテたかどうかなんて一発で見抜けるの、知ってます?」

「俺のはほんとなんだけどなあ」

「そういうことにしておけばいいんじゃないですか」

「それってどういう意味だよ」

「意味なんてないでーす。しかし、中高年の人の中に、時々得意げに鼻の穴を広げてそういう発言する人、結構いますよね」

「俺の鼻も広がってたか?」

「あなたの場合は元からですけど」

「はっ、はっはっ」

「ついでだからいいますけど、前歯は入れておいたほうがいいですよ」

「そうなんだよな。食べてる時、間に挟まっちゃうことなんかあってさ」

「汚な~い。それに、歯がないと間抜けな顔に見えますよ。さっさと歯医者に行けばいいでしょう」

「暇がないんだよ」

 どう見ても、そんなふうには思えない。

「そうとは思えないですけどね。ともかく、山中さん、もうそろそろ現実を素直に受入れたほうがよろしくてよ」

「そうかい」

「そうです。さあ、迷える子羊よ、胸に手を当てて祈りなさい。アーメン」

 と、十字をきってみせる愛。あっけにとられたオヤジは一瞬だけ静かになった。

 しかし、それはほんの一瞬で、まるでゾンビのようにすぐに復活したのである。

「ここで都々逸をひとつ」

「ド・ドイツ?」

「国のドイツを言い淀んだんじゃないわ」

 ここだけ真面目にツッコまれた。

「江戸時代の演歌みたいなもんだ」

「演歌なんて興味ないし」

「興味ないなんて言うな」

「他人の趣味に口出すな」

 何を言っても、こオヤジは驚かないようだ。

「演歌は日本人の魂だ。日本人のくせに演歌に関心がなくて、ええんかい」

「結局、ダジャレかい」

 愛もダジャレは結構言うが、それでも多少は知性のカケラくらい盛り込んでいるけど、このオヤジのはカケラのカケラもない。

「はい、そんです。アタシがへんなおじさんです。はい、へんなおじさんたら、へんなおじさんってか」

 座りながら踊る真似をする。

「すってんころりん」

「すってんころりん?」

「ズッコケたという意味よ」

「おっとー、これはいただき」

 といって、手にメモる仕草をする。

「さんまかあ」

「食べ物の?」

「明石家さんま」

「わかってるわい」

 とオヤジが言うので、

「こっちもわかってるわい」

 と、わけのわからぬ返しをした愛。マズイ、これは泥沼に陥いっていると気づく愛。

「さあ、気分を変えて、じゃあ、都々逸を披露しま~す。ちょうどここにソーセージがあるんで、それに関連したヤツね」

 と、おつまみのソーセージを指す。

「お好きなように」

「肉屋の夫婦に双子が出来た。これがほんとのソーセージってね」

 愛にとっては初めて聞く、へんな節をつけて歌うオヤジ。

「何それ」

 これって下ネタ?私はいったい何を聞かされているのだろうか。

 浮かない顔の愛を見たオヤジはさらに続ける。

「あっ、気に入らなかった。じゃあ今度は川柳をひとつ」

「はい、はい、はい」

 こうなったら、愛もやけである。

「友白髪(ともしらが)約束したのに亭主ハゲってね。あっ、これって俺のことか」

 自分の額を軽く叩いて言うオヤジ。遂に出ました乗りツッコミ。

 すると、そこに、いつ頼んだのかイワナの塩焼きが運ばれてきた。

「イワナなんて、言わないで~」

 顔を両手で挟み、身体をよじって言う。デブの「ムンクの叫」びを見た。気色悪。さらにさらに攻撃は続く。

 顔をメニューで塞いだかと思ったら、横から顔を出し、

「ひょっこりはん」

 このオヤジにしては、比較的新しいネタを出してきた。

 ここでようやくトンカツが運ばれてきた。愛はオヤジのことは無視してトンカツを食べることに集中する。

「ねえ、ねえ、愛さん」

 やむを得ず顔をあげる。

「トンカツって、なんでトンカツって言うか知ってる?」

「そりゃあ、豚のカツだからでしょう」

 面倒くさいので、普通に答えておく。

「じゃあ、鶏肉だったら?」

「トリカツ」

「じゃあ、取り扱い説明書は?」

「トリセツ」

 まんまと引っかかってしまった自分が腹立たしい。

「いったい何なんですかあ。もう、どうでも好きにしてください」

「あらあ、お嬢様がそんなイヤラシイこと言っちゃいけません」

「そんな意味で言ったんじゃないけど」

 そんな愛のことは無視するオヤジ。

「お嬢様とかけて」

「突然だなあ」

「クローゼットの中と説く」

「クローゼットの中?」

 一瞬でも考えてしまった自分が嫌だ。

「その心は」

 なんだ、なんだ?と愛。

「ムシューダ」

 店中に聞こえるような大きな声で言いやがった。確かに、今のところ、へんな虫はついていないし、今日に限って香水をつけてこなかったから無臭だけども、だ。さすがにもう付き合いきれない。我慢の限界だ。

「私、トイレに行ってきます」 

 そのまま帰るつもりだ。背中に、

「いっといれ」

 という声を聞きながら、レジでここまでの代金を支払い、領収書をもらう。これは徹に回す、この後の分は本人に払わせるよう店員に言って店を出る。

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