237 お勉強のお時間
『時間が合えば検討する』などと言っていた俺たちだったが、結果的に言えば、全員揃ってイリアス様の勉強会に、ガッツリと参加することになっていた。
小さな女の子に迎えに来られて、笑顔で『さあ、行きましょう!』などと言われたら、さすがに断れないよな?
その後ろで穏やかな笑みを浮かべている一人の執事がいたのだが……黒幕が判ったところで、意味は無い。
まぁ、イリアス様の主目的はメアリとミーティアだったみたいなので、二人だけ差し出して、俺たちは遠慮する方法もあったのだが、心細そうなメアリたちの視線にも、また勝てなかった。
それに、ちょっと予想外なことに、ハルカとナツキが思ったよりも乗り気だった事も大きい。
執事のビーゼルさんが言っていた『知っていて損は無い』事に加え、実際に『知ろうと思ってもその機会が無い』事が理由のようだ。
実際この世界、何かしらの勉強をしようと思っても、なかなかに難しいのだ。
何故なら、まず教師が見つからない。
日本ならちょっと探せば、低価格のカルチャースクールから、料理教室、音楽教室など、色々な物が見つかるが、こっちにそんな物は無い。
仮に教師を見つけられても、専門職故に、必要な謝礼は高い。
戦闘技術などであれば、冒険者に依頼を出すことで学ぶことはできるが、通常、まともな技術がある冒険者のランクは高く、つまりは依頼料も高額になる。
その上、ラファンなどではその高ランクの冒険者自体がいない。
俺たちも戦闘技術の向上のため、一時期、師匠になってくれそうな人はいないかと考えた事はあったのだが、そんな事情もあって諦めたのだ。
それを考えれば、タダで領兵と一緒に訓練する経験が積めたり、貴族の子女が受けるような授業を聞ける事は、非常にありがたい事なのだろう。本来は。
だがしかし。勉強と聞いて尻込みしてしまうのは、学生の本能ではあるまいか?
――ま、良い経験なのは間違いないし、一つ頑張ってみるか。
「ですから、この場合の挨拶は――」
授業は予想外の形で進んでいた。
案内された部屋にいたのは、少しふくよかな三〇代半ばほどの女性。
てっきり、その人が授業をするのかと思ったら、そんな事は無く、俺たちが席に座った後、前に立ったのはイリアス様だった。
どうも、イリアス様の復習も兼ねて、これまで習った事を俺たちに教えるという形を取るらしい。
女性教師――名前はシデアと言うらしい――は基本的には口を出さず、時折注釈を入れたり、ちょっと訂正をしたりするのみである。
まぁ、出発まで残り五日。
この時点でイリアス様に対する授業が終わっていなければ、それはそれでマズいだろう。
それに俺たち(具体的には、メアリとミーティア)に教える事で、イリアス様の習熟具合も把握でき、更には年下には負けられないというプライドを刺激して、自学自習を促す意図もあるようだ。
――シデアさんがニコニコと人の良い笑みを浮かべつつ、コッソリと俺たちに教えてくれたところによると。
「相手の爵位によって挨拶が変わるのは解ったのです。でも、爵位が判らない場合は、どうするのです?」
そんなわけで、当然主役はイリアス様、脇役がメアリとミーティアで、俺たちはモブ。賑やかし。エキストラ。
後ろの方に座ってのんびりと話を聞いている。
矢面に立たされるメアリとミーティアは大変だなぁ、理解できるのかなぁ、とか思っていたのだが、目がぐるぐるしているメアリはともかくとして、ミーティアの方は話を理解して、時には質問すらしている。
そんなミーティアの様子に、シデアさんも驚いたように、「とんでもなく優秀ですね」と漏らす。
幼い頃から教育を受ける貴族の子女ならともかく、ミーティアはごく普通の市井の子供なのだ。
家で勉強を教えている時にも優秀だとは思っていたが、やはり一般的に見ても、かなり賢かったらしい。
ちなみに、俺たちの方は……まぁ、普通?
基本的に単なる知識なので、暗記するだけ。
実際の場面で活用できるかは別にして、理解できないような物は無い。
俺とトーヤ、それにユキは単に話を聞くだけだったのだが、ハルカとナツキは興味深そうにメモも取っていたので、困った時にはそれを見せてもらえば良いだろう。
たぶん、必要性は無いと思うが。
そんな感じで、半日ほど授業を受けたりしていると、なんだかんだと言葉を交わす機会も多くなる。
俺たちを授業に引っ張り出した人の意図が、イリアス様の学習意欲を高める事にあったのか、それともメアリたちとの仲を深める事にあったのかは不明だが、三日も経てば、比較的リラックスして、一緒にお茶の時間を楽しめる程度には仲良くなっていた。
当然、お茶とお菓子は子爵家から提供されるのだが、昨日、ミーティアがポツリと『ハルカお姉ちゃんたちが作るお菓子の方が美味しいの』と漏らしてしまった。
メアリによって、即座に黙らされたミーティアではあったが、その言葉にイリアス様の方が興味を示してしまう。
『どんなお菓子を食べているんですの?』と。
クライアントにそう言われ、俺たちに無視ができるはずも無い。
そんなわけで今日のお茶菓子は、ハルカたちが提供したアップルパイである。
「まぁまぁまぁ! すごく美味しそうです!」
「皆様はお菓子作りもされるのですね?」
テーブルに並んだアップルパイに目を輝かせるイリアス様と、ちゃっかりとご相伴に与りつつ、俺たちの方に不思議そうな視線を向けてくるシデアさん。
イリアス様がメアリとミーティアにばかり構う関係で、逆に俺たちは彼女の方と親睦を深めているので、別に問題は無いのだが。
「大した腕ではありませんが。冒険者をしていると、なかなか買えないような素材を手に入れる事もできますから」
「いえ、これで大した腕では無い、と言われると、料理人も困ってしまいますよ」
ナツキの謙遜に、シデアさんが苦笑を浮かべる。
まぁ、ミーティアじゃないが、昨日食べたお菓子と、今日ナツキが提供したお菓子。
食べ比べれば、確実にナツキのお菓子の方が美味しい。
これは、単純に腕の問題では無く、使っている素材の違いと、お菓子を作った経験の違いもあるのだろう。
歴史の積み重ねがあるレシピを知っているというのは、確実に大きなアドバンテージなのだから。
「イリアス様は貴族でも、あまりお菓子は食べないのです?」
「お父様はとても倹約家なのです。必要な部分には使いますが、不必要な部分や普段の生活では無駄なお金は一切使いませんの」
ミーティアの素朴な疑問に、イリアス様は少し苦笑して首を振る。
今回のアップルパイは、ストライク・オックスのミルクから作ったバター、それをたっぷりと使った逸品。
もし値段を付けるなら、一切れ分の素材で軽く金貨が飛んで行くような、そんな高級菓子である。
やや甘さ控えめのリンゴの甘酸っぱさと、濃厚なバターの香りがなんとも言えない。
家で食べた時は、この上に更にアイスまで載っていたのだが、今回それは無し。
そのアイスにしても、俺たちだって素材を自前で用意できなければ、とても食べられないほどの原価が掛かっている。
――いや、数時間で数十枚の金貨を溶かすトーヤぐらい思い切れれば可能だろうが、たかが菓子にそんな金は使えない。普通の経済感覚では。
「確かに、気軽に買うのは難しいでしょうね。あ、せっかくですから、まだ温かいうちに召し上がってください」
ハルカが納得したように頷き、イリアス様とシデアさんにアップルパイを勧める。
こんなときでも焼きたてを提供できるのは、やはりマジックバッグの大きな利点だろう。
「それでは、遠慮無く頂きますね」
「頂きます。――わぁっ! すごく美味しいです! こんなに美味しいお菓子、初めて食べました!」
アップルパイを一口食べ、素直に感嘆の声を上げたイリアス様と、声こそ上げなかったものの、口元を押さえて目を丸くするシデアさん。
イリアス様はそのままパクパクと、お皿の上のアップルパイを見る見るうちに消費し、とろけるような笑みを浮かべている。
そんな笑顔に誘われるように俺たちもまた、アップルパイに手を付ける。
――うん、やっぱ美味いな。
パイ生地のサックリと軽い感じが、コンビニとかで買う菓子パンのアップルパイとは全然違う。
あとは特徴的で濃厚なバターの香り。
バター自体が日本で市販されている物よりもずっと美味しく、焼きたてである事も影響しているのだろう。
あえて不満点を挙げるのならば、やはり砂糖がちょっと重く感じる事と、シナモンの香りが無い事だが、これに苦情を言うのは少々贅沢という物だ。
「……あぁ、もう無くなってしまいました」
パクパクと食べていれば無くなってしまうのも当然早く、俺が半分も食べ終わらない前に、イリアス様の皿は空になっていた。
少々はしたなくもフォークを口にくわえるイリアス様に、すかさずシデアさんから注意が飛び、イリアス様がしょんぼりとするが、どちらかと言えば注意された事よりも、無くなった事に意気消沈している様子。
俺はいつでも食べられるから譲っても良いのだが、さすがに食べかけはマズいよな。
と、思ったのだが、そんな事を気にしない人がここにいた。
「イリアス様、ミーの食べる?」
「……っ! い、いえ、大丈夫ですよ? それはミーティアが食べてください」
フルフルと迷うようにフォークを震わせながらも、イリアス様は笑顔を浮かべ、きっぱりと断った。
それを見て、シデアさんは満足そうに頷く。
それも教育という事なのだろうが、やっぱり貴族って、ちょっと窮屈だなぁ。
授業でも食事の作法なんかが語られる事があったのだが、なかなかに面倒くさかったし。
ある程度は覚えたが、きっちりやろうと思ったら、絶対美味しく食事なんかできそうもない。
「しかし今更ですが、よろしいのですか? 私たちが提供したお菓子を食べても」
名残惜しそうにフォークを置いたイリアス様に、ナツキがそんな事を尋ねた。
もちろん、提供する前には、執事のビーゼルさんなどにもきちんと確認を取っているので、これで俺たちが何か言われるような心配は無いのだが、想像以上にあっさりと許可が出たのは少し意外だった。
「これに警戒するようでしたら、護衛の依頼など致しませんわ。それに、皆さんはディオラお姉さまのご紹介ですし」
まぁ、毒殺を警戒するぐらいなら、護衛依頼なんかできないか。
それこそ、護衛の最中に殺す方がよほど楽だろうし。
――だが、それよりも気になった点が一つ。
それに引っかかったのは俺だけではなかったようで、すぐにナツキが聞き返した。
「ディオラ、お姉さま? 失礼ですが、ディオラさんとのご関係は?」
「血縁としてはお母様の姉、私の伯母様のお子様に当たります。簡単に言うなら、従姉妹の関係ですね」
これまでのやり取りから、ネーナス子爵家とは何か関係があるとは思っていたが、想像以上に近い関係だった。
「……そうなると、ディオラさんも貴族、なのでしょうか?」
「えぇと……そのあたりは少し微妙なところがありますね」
ここで貴族に関して簡単に説明しておくと、レーニアム王国の場合、必ず貴族として扱われるのは貴族家の当主とその配偶者になる。
その子供は、厳密には貴族ではないのだが、扱いとしては親の爵位の一つ下、例えばイリアス様であれば男爵相当として扱われる。
親の爵位の影響が無くなるのは、独立して別家を立てたり、婿入り、嫁入りしたとき。
上手く他家の当主と婚姻できれば貴族のままでいられるのだが、当然ながら当主の数よりも子供の方が多い。
貴族の場合、一夫多妻、そして稀には多夫一妻もあるわけだが、それは配偶者の地位と共に、子供の数も増やす事であり、必然的に大半の子供は、平民に落ちる事になる。
さて、ディオラさんに話を戻すと、彼女の父親自体は小さいながらも男爵家の当主であり、未婚の彼女は男爵の一つ下、騎士爵としての扱いを受ける事になる。
だが、だがここで少し複雑なのが、彼女の家での立場。
まず、ディオラさんの母親は側室であり、男爵の正妻は別にいる。
しかし、男爵家の子供はディオラさんただ一人。
つまり、男爵家の跡継ぎ候補はディオラさんのみなのだ。
こういった場合、普通はディオラさんが婿を取って家を継ぐ事になるのだが、問題となるのは正妻との関係。
万が一、正妻に子供ができた場合、ディオラさんが継嗣となっていては困るので、正妻としては婿を取って欲しくない。
かといって、結婚して家を出てしまっては、跡継ぎがいなくなるので男爵としては困る。
不憫である……。
「少し困った方なのです、あそこの正妻は……」
ネーナス子爵家の教育係になるだけあって、シデアさんもその辺りの事は知っているらしく、困ったように笑みを浮かべている。
ついでに正妻の年齢も教えてくれたのだが……ちょっと子供は厳しくないか?
日本ならギリギリ何とか……という年齢ではあるが、こっちだと常識的に考えれば不可能という年齢らしい。
「未だ諦めない正妻も正妻ですが、男爵が優柔不断なのが一番の問題なのです! お姉さまが可哀想です」
イリアス様は、プンプンとばかりに両手を振って、不満を口にする。
ディオラさん、現代日本なら、まだまだこれからの年齢だが、こちらの常識では結婚がちょっと厳しくなるお年頃だからなぁ。
ちなみに、ディオラさんとしては半ば諦め気味らしい。
未婚のまま男爵家を継ぎ、養子を取って跡継ぎとすることすら考えているとか。
「でも、現状でも騎士爵、将来的には男爵になる可能性、高いんですよね? 何で冒険者ギルドで働いているんでしょうか?」
「お姉さまの家は、こう言っては何ですが、領地を持たない名ばかりの男爵家ですから、仕事が無いのです。ですので、収入を確保する目的と、あと、結婚相手もできれば見つけたい、と言っておられましたね」
冒険者は通常よりも晩婚。
それを考えれば可能性はあるが、その目的にラファンはどうなんだろう?
ディオラさんがラファンの副支部長になってそれなりに長い事を考えれば、答えは出ているような気もする。
「貴族って大変なの。冒険者の方が気楽で良いの」
「いえ、冒険者の方が大変……でも、こんなに美味しいお菓子を……? もしかして、冒険者って……?」
やれやれ、とでも言うように首を振るミーティアに、イリアス様が否定しようとして、ふと空になったお皿に視線を向ける。
そんなイリアス様に、メアリが慌てたように言葉を掛ける。
「い、いえ、イリアス様、冒険者は凄く大変ですから! 食事に事欠くような冒険者も多いですから! ハルカさんたちがスゴイだけですから!」
「で、ですよね? ディオラお姉さまから聞いた話と全然違ったので、ちょっと混乱してしまいました」
ホッとしたようにウンウンと頷きつつ、イリアス様が俺たちの方にチラリと視線を向けたので、俺たちもまた同意するように、苦笑して頷く。
無いとは思うが、イリアス様が冒険者に憧れる、なんて事があっても困るしな。
こんな感じで、出発までの五日間、俺たちは結局一度も屋敷の外に出る事も無く、出発の日を迎えたのだった。
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