第一〇章「こじらせお姉さんといつまでも」
78:お姉さんとの温泉旅行
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
というのは、
これと双璧を成す川端の代表作が『
などとぼんやり考えているうち、僕とお姉さんを乗せた列車もトンネルを抜けた。
車窓から光が差し込み、深緑の景色が
列車はプラットフォームへ滑り込み、静かに停車する。
「あっ。やっと着いたみたいだね」
美織さんは、座席に腰掛けたまま、車窓側を振り返った。
枯葉色っぽい瞳が無邪気に輝き、
釣られてそちらへ目を向けると、古びた駅舎が視野に映った。
正面には「
「さあ裕介くん、早く降りようよ」
美織さんにうながされ、僕は頭上の網棚から荷物を下ろしに掛かった。
二人で席を立ち、旅行鞄やリュックを抱えて、乗降口からプラットホームへ出る。
そそくさと改札を通過し、駅の構外へ踏み出すと、目の前に長閑な景観が現れた。
遠乃原駅前は平日の昼間だからか、車の交通量が少なく、道行く人も
現在地から幾分遠方へ目を移してみれば、自然豊かな山地や樹林が広がっている。
辺りに
とはいえ周囲の雰囲気からは行楽地らしい、のんびりした
JR星澄駅から、
僕と美織さんは本日、隣県郊外の遠乃原へやって来た。
およそ三週間遅れだけど、これから恋人同士で「正月休み」を過ごすためだ。
年末年始は忙しくて、どっちも思うように休暇が取れなかったんだよね……。
僕はバイト先の「スーパー河丸」で、大晦日や三箇日も仕事に駆り出されたし。
美織さんもイラストの案件が片付かなくて、何だかんだと働き詰めだった。
だがしかし、新年も一月下旬にまで至り――
ようやく余裕ができたので、二人一緒に「温泉旅行」のために遠出したのである!
そうして互いのスケジュールを調整し、旅館の部屋も三泊二日の日程で押さえた。
「おおおぉ~……っ! これぞまさしく保養地の光景って感じだね~!」
駅前のあちこちを見回しながら、美織さんは
本日のお姉さんは、ブラウスとニットカーディガンを重ね着し、ロング丈のプリーツスカートで両足を包んでいた。さらにベージュのジャケットを羽織り、革のブーツを
冬の山中にあっても、興奮気味の面差しは
かすかに
「しかも二人で、こっ『婚前旅行』だよ――ドキドキしちゃうよねっ?」
僕は「う、うん。そうだね……」と、短く返事した。
むず
――そう。これって婚前旅行でもあるんだよな、僕と美織さんにとっての……。
自然とそわそわして、微妙な体温の上昇を感じてしまう。
これも「婚前旅行」という言葉が持つ、不思議な魔力だろうか。
いやまあ、今更そんなシチュエーションの変化程度で高揚するのはどうなんだ、とは思う。
僕も美織さんも成人済みの恋人同士で、平時だってひとつ屋根の下に同棲しているんだし。
最近いくら多忙だったと言っても、まるで相手を求める機会がなかったわけじゃない。
むしろ疲れていても三、四日に一回は、どちらからともなく誘っていた気がする……。
が、それはさておき。
やはり「普段の日常を離れて、二人っきりで
ここで今日から過ごす時間は、お姉さんと僕だけの忘れられない思い出になるはずだ。
それを思えば、冬枯れの山地に抒情的な印象も湧くし、文学的な感傷に
僕とお姉さんは、差し当たり歩道沿いのタクシー乗り場へ向かった。
手近な空車のタクシーに乗り込むと、運転手に宿泊先の屋号を伝える。
遠乃原駅前から車で移動すること一五分弱、予約した旅館に到着した。
「遠乃原温泉・
大きな本館の建築は、洗練された和風の
正面玄関から入って、宿泊手続きを済ますと、早速部屋へ案内された。
オンラインで予約した客室は、旅館のWebページに掲載されていた写真で見たものよりも、
さらには部屋の出入り口以外にも、屋外へ通じるちいさな通路があった。何でも日本庭園の先に建てられた「離れ」では、露天風呂に
他にも本館地下には大浴場があるそうだから、まさに至れり尽くせりだ。
「おおおぉ~……っ! お風呂場が三箇所もあるんだね~!」
仲居さんが退室すると、美織さんは再び感嘆の声を
この部屋専用の内湯を
「でも全部のお風呂に
「いや何も『絶対全部のお風呂に入らなきゃいけない』って決まりはないと思うけど……。まあ折角だし宿泊料金分楽しみたい、ってのはわかるけどね」
旅行鞄を部屋の隅に片付けながら、僕は思わず苦笑して言った。
お姉さんと来たら、すっかり気分が高揚しているみたいだった。
荷物を置いて身軽になったところで、ひとまず旅館の外へ出る。
観光バスが停まった駐車場を横切り、二人で表通りまで歩いた。
ほどなく、
「おおおぉ~……っ! 見て見て裕介くん、温泉街だよ~!」
美織さんは三度、周囲を見回しながら感嘆の声を上げた。
「たまにテレビドラマとかに出てくるやつと、ホントにそっくりだね~」
「そっくりっていうか、こっちがむしろオリジナルだと思うけどね……」
軽くツッコミを入れたものの、お姉さんの感想もわからなくはない。
ここの
そういった店が街路沿いに並び、ついつい物珍しさに目を引かれてしまう。
かえって作り物を眺めている気分にさせられ、あたかも映像作品の中に迷い込んだかと錯覚を抱きそうになるほどだ。
美織さんは、尚も
「こういう街並みを見ていると、殺人事件が起こらないかってドキドキしちゃうよ」
「あートラベルミステリーとかでよくあるよね。旅行先で事件に巻き込まれるやつ」
「そうそう。あとは『人妻湯けむり不倫旅行』みたいな動画も思い出しちゃうけど」
「何それどんな動画見てるの!? 明らかに大人しか視聴できないやつだよね!?」
「単なる仕事用の作画資料だよ~。以前にファンタジー系ライトノベルの挿絵で、女の子が泉で水浴びするイラスト描いたときにちょっぴり参考にしたんだよね」
「……たしかにラノベにはお色気シーンの挿絵だってあるだろうけど。まさか人妻物の成人向け動画を参考にして描かれているとは、誰も想像もしてないよ……」
「ところでお姉さんがショックだったのは、えっち動画に登場した人妻役のセクシー女優さんがまだ二七歳だったことです……。ひ、人妻っていうからバリバリの熟女さんだと思っていたら、まさか自分より年下の女の子が出てくるなんて……」
「いや僕の知らないところで変な動画視聴して、勝手に謎のダメージ受けてないでよ……」
突然落ち込むお姉さんの有様を見て、頭を抱えずにいられなかった。
ついいましがたまでの陽気さと、あまりに感情の落差が激しすぎる。
さて。そんなこんなで温泉街を、のんびり歩いていたんだけれども。
目抜き通りを進むうち、美織さんが急に道の真ん中で立ち止まった。
どうしたかと様子を
それを見て、お姉さんが今何を考えているかが、ただちに察せられた。
「……あー。ここでもやっぱり『作画資料』を撮影していく?」
「う、うん。何となく場違いなことみたいな気もするけど……」
念のために問い
そう、お姉さんは「作画資料」を収集しようとしていたのだ。
珍しい事物を目の当たりにすると、美織さんはそれを写真に収めずにいられない。
イラストレイター兼漫画家(及び広義のデザイナー)ゆえの、独特な習性である。
でもって遠乃原温泉街の情景は、明らかに資料価値が高そうに思われた。
これだけ「和」の情緒が感じられる場所は、都会じゃまず見ないもんな。
となると是が非でも、しっかり撮影しておきたいところだろう。
……しかしながら美織さんは、どうにも
まあその心情も理解できる。この温泉街、何だか通行人まで妙に品がいい。
やはり地元住民も観光客も平均年齢が高めなせいか、自撮りして「ウェーイ」とか言ってそうな人間は、周囲に全然見当たらない。
なので資料収集も、何となく「場違い」な行為に感じられているんだと思う。
それなりに空気を読むところは一応、こじらせているお姉さんも大人である。
「――ただそうは言っても、資料用の写真が
僕は腕組みしつつ、お姉さんの意思を確認するために重ねて問う。
美織さんは「うん……」とつぶやき、居心地悪そうに
ちょっと考えてから、自分なりの意見を伝える。
「じゃあ撮影の際は、極力周りに他の人がいないタイミングを見計らってシャッターを切るしかないんじゃないかなあ。それから被写体に建物を撮るときにも、事前にそこの家主さんから許可をもらうようにしておくとか……」
「う~ん、やっぱりそれしかないよねぇ。いい街並みなんだけどなあ」
「あと撮影許可を頼んでみても、断られた場合は
美織さんは、眉根を寄せて
幸い平日で観光客は少ないし、あまり迷惑になることはなさそうだけど――
上手くいくかどうかは、地域の皆さんが申し出を承諾してくれるかだよなあ。
いや別に画像共有サイトに投稿したりするわけじゃないから、そこまで嫌がられることはないんじゃないかと思うけどね……。
ただまあ、四の五の言っていても仕方ない。
お姉さんは意気込んで、作画資料の収集を試みると表明した。
が、実行へ移る前にいったん、おずおずとこちらを振り返る。
「あのね、それで裕介くん――」
美織さんは、申し訳なさそうな口調で言った。
「今回も資料用写真の撮影中は、例によって君を待たせちゃうけど大丈夫?」
「ああ、僕のことなら気にしなくてもいいよ。――ええっと、そうだな……」
二つ返事で承知し、懸念に関しては心配ないと伝える。
それから付近を見回し、適当に時間が
すぐに街角の茶店が目に入ったので、そこを指し示してみせる。
「とりあえず、僕はあそこの茶店で休んでるから」
作画資料を収集するあいだ、大抵お姉さんは写真撮影に集中してしまう。
これまでデートしてきた際にも、同様の状況は何度となく経験してきた。
なので美織さんが自分の用事に没頭しているときには、僕も最近遠慮なく一人で暇潰しさせてもらうことにしている。
ずっと二人で一緒にいると「何でも相手に合わせてばかりじゃなく、あえて気を
たぶん恋人としての熟練度がレベルアップした結果だと思う。
「あはは、そっか。じゃあ私、この辺りをひと巡りして、写真が撮れないか試してくるねっ」
美織さんは笑顔で言い残すと、足早に
早速手近な店へ飛び込み、店主らしき人物に声を掛けた。
デジタルカメラを両手で持って、撮影交渉に挑んでいる。
それに背を向けると、僕は茶店の方へ歩み寄った。
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