64:お姉さんとバイト後輩がついに接触する

 僕とお姉さんは、二人並んで喫茶店へ入った。

 店内の空間は、前方へ細長く伸びた形状だった。内装は白が基調で、シンプルだ。

 あくまで漠然とした印象だけれど、女性客に好まれそうな雰囲気だな、と思った。


 接客の店員さんが近付いてきて、僕らを手近なテーブルへ案内しようとした。

 すでに待ち合わせの相手が来店している旨を説明し、店の奥へ通してもらう。



 晴香ちゃんは、窓際に設えられた四人掛けの席に座っていた。

 僕らが歩み寄ると、椅子から立って頭を下げる。律儀な子だ。


「あの。今日はあたしのワガママを聞いて頂いて、すみません先輩」


「そんなに何度も謝らなくたっていいよ。僕は気にしていないから」


 僕は、軽く指で頬をきつつ、苦笑せざるを得なかった。

 年下の女の子から無闇にびられ続けるのも、実際はかえって居心地が悪い。

 何も知らない他人が見たら、こちらが狭量な人間だと誤解されかねなかった。


 晴香ちゃんは、次いで姿勢を正すと、お姉さんの方へ向き直る。

 顔付きも声色も幾分硬かったけれど、率先して丁寧ていねいに挨拶した。


「……えっと。初めまして、あたしは今井晴香っていいます。明南高校に通う三年生です」


「あ、その。こちらこそ初めまして、花江美織です。普段はイラストを描く仕事してます」


 美織さんも、ぎこちなくそれに応じる。語尾がちょっと上擦うわずっていたけれど、仕方ないか。

 自分の恋人に片想いしていた相手と、こんなふうに対面するのは滅多にないことだろうし。


 僕とお姉さんは、晴香ちゃんとテーブルを挟んで着席した。

 まだ中高生や大学生は夏期休暇中のはずだけど、平日の昼間だからか店内に客は少ない。

 近くの席はすべて空なので、他人に聞かせ難い会話をするには、都合が良さそうだった。

 まあ当然、この状況が事前にわかっていたから、ここを面談場所に選んだんだろうけど。

 晴香ちゃんは「お菓子研究会」に参加しているおかげで、喫茶店には詳しいみたいだし。


 とりあえず、ざっとメニューを眺めて、店員さんに注文を伝える。

 僕はブレンドコーヒー、美織さんがカモミールティーとレモンマフィンを頼んだ。

 晴香ちゃんは先に来店していたので、すでにローズヒップティーとショートケーキのセットが手元に並んでいる。ただし見たところ、手を付けた様子は見て取れなかったけれど。



「いきなり初対面で、こんなことをうかがうのは失礼なのかもしれませんけど」


 ほどなく、晴香ちゃんが意を決したように切り出してきた。


「美織さんは今、おいくつですか。先輩よりも年上だとは聞いてますけど」


 そう言えば晴香ちゃんは、まだ美織さんが何歳なのか知らないんだっけ。失念していた。

 まあ僕としても恋人とはいえ、年上女性の実年齢を言い触らすのは気が引けるせいで、明確に言及してこなかったからなあ。デリカシーのみならず、個人情報に関わる問題でもあるし。


 美織さんは、紅茶をスプーンでき混ぜながら、まだ少し緊張した表情で回答する。


「裕介くんより七つ年上で、二八歳です」


「……そうですか。とてもお綺麗ですね」


 晴香ちゃんは、伏し目がちにうつむくと、考え込むような口調で言った。

 薄墨色の大きな瞳が深い色をたたえ、テーブルの天板に視線を当てている。


 僕は「お綺麗ですね」という言葉について、ちょっと反芻はんすうしてみた。

 聞き方次第じゃ、アラサーにしては綺麗だ、という皮肉にも取れる。

 しかし晴香ちゃんは、失恋の原因になった恋敵に対してでも、さすがに面と向かってまで嫌味を言うような子じゃないと思う。とすれば率直な感想か、単なる社交辞令だろう。


 さて一方の美織さんは、かすかに愛想笑あいそわらいをのぞかせながら、そわそわしていた。

 対面している相手は年下の女子高生にもかかわらず、妙な卑屈さがただよう物腰だ。

 これじゃどっちが失恋した側なのやら……

 しっかりしてくださいよお姉さん、本当に。



「たしかお二人って、雛番で一緒に暮らしているんですよね?」


 晴香ちゃんは、再び顔を上げると、殊勝しゅしょうな面差しでたずねてきた。

 まずは同棲生活に関して、事実関係を確認しておくつもりらしい。


 真っ向から問いただされ、美織さんはまた見るからにあわてていた。

 ちいさく首肯し、やや前へ身を乗り出す。声色も少し変だった。


「そっ、そうです。マンションで、かれこれ三ヶ月ほど前から」


「ひとつの部屋を、お二人が分け合って住むようなかたちで?」


「……え、はい。元は私が一人で住んでいた部屋ですけど――」


 居住形態に関して案外突っ込んで訊かれ、美織さんは面食らった様子だった。

 だが、いささか呼気をあらげつつも、すぐに真剣そのものの顔付きで宣言する。



「今じゃ私が裕介くんを、しっかり扶養してあげています!!」



 …………。


 たっぷり三秒余り、時間の流れが制止したのではと錯覚してしまった。

 晴香ちゃんは、またたきすることさえ忘れ、石化したように固まっている。

 世界が灰色にこおり付いて、虚無の静寂に包まれたかと思われた。

 僕も咄嗟とっさに何を言えばいいかわからず、ただ息をむしかない。


 それでようやく、美織さんも自らの失言に気が付いたみたいだ。

 微妙に顔の色が青白くなって、頬や額に汗のしずくが浮かびはじめる。やばい。

 また初対面じゃ説明し難そうなことを、うっかり口走ってしまいましたね……。



「……えっと、あの。先輩を、フ、フヨウ、ですか?」


 ややあって、おもむろに沈黙を破ったのは晴香ちゃんだった。

 まだ色々と思考が追い付かず、戸惑いを隠し切れない様子だ。


「その扶養というのは、面倒を見るって意味の――?」


「あっ、あのですね! それはつまり何と言うかっ!」


 美織さんは、椅子から腰を浮かせると、ますます前傾気味の姿勢になった。

 テーブルに乗せた両手で上体を支え、相手の言葉をさえぎるようにまくし立てる。


「扶養というのは、養うというか、むしろ養われている部分もあってですね――わば共同生活における対等な関係のひとつ、というか!! 固定観念にとらわれず、男女二人が適材適所で役割分担するような、進歩的な暮らしを目指しているっていう、そういうことですたぶん!!」


 突如、お姉さんの謎理論が炸裂さくれつした。扶養という概念に対する斬新ざんしんな主張だ。

 僕らの共同生活って「固定観念に囚われない、進歩的な暮らし」だったんですか。

 まあ、たしかに見方によっては当てまっていると思うけれど、完全に初耳です。

 あと辞書的な意味で言えば、明らかに扶養の語義を間違っている。

 美織さんの御尊父ごそんぷって、高校の国語教師でしたよね? 大丈夫? 


 などと心の中で、僕はツッコミ入れまくっていたんだけれど――

 晴香ちゃんは、沈思するような仕草のあと、真面目な顔で問い重ねてきた。


「そ、それはつまり……『二人で助け合って、家政をりしている』ってことですか?」


 ――まさかの好意的な解釈!? 駄目だよ謎理論を真に受けちゃったら!! 


 思わず晴香ちゃんに対してまで、心の中でツッコミ入れてしまった。

 だが美織さんは、我が意を得たとばかり、乗っかっていこうとする。


「ええ、そうです!! まさに二人の助け合いなの!!」


 ――なんかわかんないけど、綺麗な言葉にすり替えようとしちゃってる!? 


 お姉さんが必死に失言を誤魔化す様子を、僕は気を揉みながら見守っていた。

 晴香ちゃんは「なるほど……」とうなずいて、尚もたしかめるように続ける。


「すると、互いに代わる代わる食事を作ったり、お掃除やお洗濯をしたりしているんですね」


「……ふえっ? ――え、ええ当然!! その通り!!」


 問い掛けられて一瞬ぽかんとしたものの、美織さんは改めて力強く肯定した。


 ……とんでもない大嘘だった。


 同棲開始して以来、約三ヶ月。

 お姉さんが率先して食事を作ってくれたことって、合計何回ありましたかね。

 初めて二人で一夜を明かした日の夕飯以外、ほとんど思い出せないんですが。

 実は最近じゃ掃除や洗濯も同様で、僕が一人で家事の大半を引き受けている。

 美織さんのパンツやブラジャーさえ、心を無にして手洗いしているからね! 



 しかし晴香ちゃんは、お姉さんの言葉をそのまま信用したらしい。

 ローズヒップティーをひと口飲んでから、神妙な声音でつぶやく。


「お二人共、相手をきちんと尊重して暮らしているんですね。凄く素敵なことだと思います」


 晴香ちゃんは、ちょっとさびしげに微笑んだ。


「あたしは子供だから、自分がそういう関係を築くところまでは想像できなかったなあ……」


 僕は、以前に「休日は何をしているか」と訊かれたことを、ふと思い出した。

 あのときには何となく、掃除や洗濯をして過ごしている、と答えたけど……

 それに対して、晴香ちゃんは妙に尊敬の念を抱いたような反応を示していた。

 そうして、実家暮らしの自分には想像もできない、なんて言っていたっけ。


 この子が家政にたずさわることを、今でも同じようにとらえているのだとすれば。

「男女が二人だけで、協力して生活していく」というのは、やはり未知の状況だと考えているのかもしれない。それゆえにまた、お姉さんにおとっているのではないか、とも。


 でもまあ、それは晴香ちゃんの圧倒的誤解なんですけどね!! 


 いや、美織さんが絵を描く仕事で家計を支え、僕が炊事洗濯などを担当するっていう――

 この状態こそ「適材適所の役割分担」だと見做みなすのなら、たしかに互いを尊重した協力関係であるとは思う。元来この現状って、お姉さんには自分の仕事に集中して欲しいから、僕が好んで家政を引き受けているせいでもあるし。

 同棲当初はある程度、家事も分担していたんだけどね……。


 だがいずれにしろ、美織さんはあえて誤解を否定するつもりはないみたいだ。

 おもむろに椅子へ腰掛け直すと、カモミールティーのカップを口元で傾ける。


「別段大人だからって、一緒に暮らす相手のことを尊重しているつもりじゃありませんけど」


 お姉さんは、話し相手をおもんぱかるような、優しく穏やかな笑みを浮かべた。


「純粋に好きな人との関係だから、大事にしたいなって……いつもそう思っているだけです」


 ――結局いいこと言ったみたいな体裁を装って、そのまままとめちゃった!? 


 密かに愕然がくぜんとしていたら、美織さんが隣から横目でこちらへ合図を送っている。

(どうにか上手く切り抜けたったよぉ~!)と、目元の表情が言外に語っていた。

 ぬああ、そりゃたしかに僕がお姉さんの経済力を部分的に頼っていることとか、逆にお姉さんが僕に家事を任せっきりにしていることとか、色々誤魔化せたかもしれないけど! 

 晴香ちゃんは、僕と美織さんの間柄を真面目に把握したがっているんですよ!? 


 いやまあ晴香ちゃんを失望させるとまずいという点では、それも仕方ないのはわかる。

 今更お姉さんの発言を訂正して事実を告げたら、余計にややこしくなりそうだし……。


 なんて、内心じゃ忸怩じくじたるものを抱えながら、僕はあれこれと煩悶はんもんしていたんだけど。

 晴香ちゃんは、美織さんの言葉に「自然体なんですね」と、素直な所感を述べていた。



 それから、また次の話題へ移ろうとする。


「ところで美織さんは、先輩のどんなところが好きになったんですか?」


 晴香ちゃんは、僕とお姉さんを改めて順に見てから言った。


 これはおそらく、恋人同士に対する定番の問い掛けだろう。

 もっとも、ここでは幾分特殊なニュアンスを帯びた質問でもある。

 あと僕としては隣で回答を聞かされるのが、酷く居たたまれない。


「その、裕介くんのことは全部好きなんですけど……」


 美織さんは、ちょっとだけ考えるような間を挟んでから言った。


「どこかひとつだけ挙げるなら、やっぱり人柄かな?」


 思いの他、ありふれた返答だった。少なくとも、無難に聞こえる理由だろう。

 でもお姉さんが僕に好意を向けてくれる要因は、端的にはそういうことになるのか。

 皐月さんから聞いた話によれば、実際はわりと複雑な背景もからんでいるはずだけど。


 とりあえず、無駄に奇矯ききょうな答えじゃなくて、ほっとした。

 突拍子とっぴょうしもないことを言い出されると、それに続く会話を取りつくろうにも困るからね。

 聞いていて恥ずかしいのは変わりないものの、気疲れせずに済むぶん多少助かる。

 僕は、密かに安堵あんどしそうになった。



 ところが、その直後のこと。


「本当に人柄を好きになっただけで、真剣交際しようと思ったんですか」


 晴香ちゃんは、やり取りを意外な方向へ展開させてきた。

 控え目な口調だけど、声音に切実な響きがもっている。


「真剣っていうのは、つまり『将来のことも考えて』って意味ですけど」


「……も、もちろん裕介くんとは、ずっと一緒に居たいと思ってるけど」


 美織さんは、ちょっと目を白黒させつつ答えた。

 恋人の内面に好意を示した点に関して、まさか食い下がられると思わなかったんだろう。

 正直言えば、僕もかなり意表をかれた。殊更に念押しして問い質す意図がわからない。


「あの。実は今日、美織さんにお訊きして、一番知りたかったことなんです――」


 晴香ちゃんは、ゆっくり深呼吸してから言い直した。


「大人の女性でも、人柄を好きになっただけで男性と真剣交際できるのかなって」


「……大人の女性は人柄だけが理由で交際するのはおかしい、ってことですか?」


 いくらか当惑した様子で、美織さんが逆に訊き返す。

 晴香ちゃんは、それに首肯すると、再び話を続けた。



「だって先輩はフリーターじゃありませんか。『普通』は大人の女性だったら、社会的な立場や年収も踏まえて、自分と釣り合いが取れそうな異性を恋愛対象に選ぶと思います」

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