第2話  あの日捨てたもの

哲也は一人っ子で甘やかされて育った分、わがまま放題で内弁慶な子だった。一方で、そういう子にありがちな人見知りで、外面は大人しい子でもあった。小学校に入ってもみんなとなかなか打ち解けることができず、いつもひとりで過ごすことが多かった。そんな哲也を待ち受けていたのはいじめだった。

 無視から始まったいじめは、やがて、教科書が隠される、机の中に「ウザイ」と書かれた紙が入れられる、筆箱に針が入っている、下駄箱の靴に泥を詰められている、廊下でわざとぶつかられる等々にエスカレートしていった。あの時は、自分の居場所から自分が剥がされていく感覚だった。

「花島君」

 振り返ると、隆二が立っていた。当時学級委員長をしていた隆二から声をかけられ、哲也はどうしたらいいかわからなかったが嬉しかった。

 その日、哲也は久しぶりに空を見上げた。吸い込まれそうな紺碧色がどこまでも広がっていた。

 その後も唯一味方になってくれたのが、隆二だった。いじめられていることは両親にも言えず、どん底にいた哲也を隆二が救ってくれたのである。隆二が介在することで、いじめはなくなった。以来、哲也は隆二と友達になり、やがて、子供ながらに、心友と思えるほどの存在になって行く。

 中学生になっても、偶然二人は一年、二年と同じクラスだった。そのことが哲也の心の支えにもなっていた。おかげで学校生活は楽しいものだった。だが、 二年生の秋になって、事件は起きた。

 隆二自身がいじめの対象にされたのである。正義感の強い隆二が、小学校時代に哲也を助けたように、ひどいいじめにあっていた女の子を庇ったことが原因だった。今回は相手が悪かった。もともと不良グループとしてみんなが恐れていた生徒たちだった。自分がいじめられた経験を持つ哲也にとって、隆二がどんないじめにあったかは想像に難くなかった。全身の骨が軋むような哀しみと苦しみを覚えた。

 だが、隆二は決して哲也に助けを求めなかった。そのことによって、哲也までもがいじめの対象にされることを避けようという隆二の優しさだったのだろう。結局、隆二は鉄道自殺を図った。この時、哲也は人はこんなに簡単に死んでしまうものなのだと思い、泣けなかった。

 残されたノートには、いじめの内容といじめの加害生徒の名が書かれ、最後に、両親に対し、自殺することを詫びると同時に育ててくれたこに対し感謝する言葉が書かれていたが、哲也のことについては何も書かれていなかった。敢えて書かなかったのだろう。そこにも隆二なりの思いがあったと、今は思う。

 しかし、哲也はそんな心友を捨てた。正確に言えば、そんな生易しいものではなかった。いじめの加害生徒たちに自ら隆二の情報を流した。友を売ってでも自分を守ろうとした。そんなのが心友であるはずもない。あまりに最低で、卑劣で、愚かな行動だった。哲也は自分が再びいじめの対象になることが、どうしようもなく怖かった。それほどに、小学校時代のいじめが深いトラウマになっていた。それでも、いや、それだからこそ自分のとった行動には弁解の余地がない。

 今の自分は柔和で、温和で人当たりがいい人と思われている。会社でも、力のある上司にうまくすり寄り、要領よくそれなりの出世をしてきた。何のために歳を重ねてきたのだろう。歳月は自分を鈍磨させるだけだった。

 だが、そんな自分の裏には、どんなに記憶を縫い繋いでも、いつも冷徹でまがまがしい黒さを持った自分がいる。今改めて心の中にある中学時代の卒業アルバムを開いて、自分の内側に爪を立てる。

 

 頭は悪くなかった哲也は、大学を卒業して大手メーカーに就職した。数年が経ち、哲也は生産管理部の主任になった。その翌年、哲也の部署に久しぶりにt短大卒の女子社員が配属されるることとなった。『新卒』『女子社員』というワードだけで、部署の男性社員たちはみんなソワソワしていた。だが、主任の哲也は、その社員の教育係を命じられていたので、そんな気持ちにはなれなかった。 

 そして、4月1日、中村静香という名の女子社員が哲也の部署にやつてきた。みんなの前で、顔も身体も緊張のため強張りながら自己紹介する静香を見て、哲也は可愛いと思った。大きいけれど、垂れ気味な目はキラキラと輝いていた。鼻は高すぎず、ちょこんという感じで真ん中に置かれているのが良かった。口はやや厚ぼったく、唇がぬれぬれとしていた。際立った美人というわけではなかったが、その柔らかい印象が好感を持てた。わかりやすく言えば、哲也の好みの顔だった。

 教育係としてマンツーマンでずっと一緒に過ごすうちに、静香も哲也に心を開いてくれるようになり、自然に二人の距離は縮まっていた。仕事終わりに一緒に喫茶店に立ち寄るということから始まり、やがて食事を共にするようになり、バーで酒を飲むことへと発展するまでにそれほどの時間はかからなかった。教育係がその相手に恋することはルール違反なのかもしれないけれど、そうした規範を軽々超えてしまうのが若さというものだろう。ただ、あらぬ噂が二人にとってマイナスとならないよう、上司にはきちんと報告し、『本気なら』という条件のもと了解をとっていた。

 デートの帰り道、いつものように静香の住むアパートまで送っていくと、ちょっと恥じらう姿を見せながら静香が言った。

「あがって行く?」

 そう言われた瞬間、哲也は様々な状況を頭に浮かべてしまった。男という動物の幼稚なところだ。

「いいの?」

「うん。コーヒーくらい出すよ」

「そう」

 本当にコーヒーだけという意味なのか。まだ女性と多く付き合った経験のない哲也には判断がつかなかった。

 静香の部屋は、一人暮らしの若い女の子の部屋にしては余計なものがあまりなく、シンプルだった。みずみまで掃除が行き届き、小ぎれいに整頓された家具は趣味のいい明るい色の籐製品で統一されていた。強いて女の子らしいといえるのは、うさぎのぬいぐるみがベッドの枕もとに置かれていたことぐらいだった。

「まあ、そこに座って」

 初めて女の子の部屋に入ってどうしていいかわからず、所在なさげに立っていた哲也に静香が声をかけた。

「うん」

 二人掛けのソファーに座る。静香がコーヒーを淹れるためにキッチンへと立ったのを機に、哲也は改めて部屋の中を見回す。すると、小さな机の上の写真立ての中のあった一枚の写真が目に入った。その瞬間、哲也の心は凍りついた。すべての重さが半分になっていく。

 そこには、小さな女の子と手を繋いでいる中村隆二の姿があった。中村という姓はありふれた姓であったため、中村静香から中村隆二を思い浮かべることはなかった。それに、顔も隆二と静香は全く似ていなかった。

「ああ、その写真ね」 

 二人分のコーヒーをお盆に乗せて近づいてきた静香が哲也の目線に気づき言った。

「私が5歳で、兄が中一の時の写真」

「そう」

 哲也は静香の顔を見ることができなかった。

「私が一番好きな兄の顔なんだ。いい笑顔でしょう。もう亡くなっちゃったけどね…」

 前髪に隠れて目の動きは見えなかったが、きっと濡れていたに違いない。

「そう」

 自分の声が水中をゆっくり浮上するあぶくのように思える。

「さっきからどうしたの。『そう』としか言わないし…、怖い顔してるし…」

「ごめん。あまりの偶然に、何と言ったらいいかわからなかった。彼と僕は小、中と一緒だった。同じクラスになったこともある…」

 何も知らない静香の顔にパッと陽が射した。

「えっ、ほんとう? 嬉しい」

 静香の素直な気持ちなのだろうが、哲也の胸の奥が鈍く疼いた。

「ねえ、兄ってどんなだった。なにせ兄が亡くなった時、私まだ小さかったから記憶がほとんどないんだ」

 『そんな残酷なこと訊くなよ』と、心の中で応える。

「いいヤツだった」

 何もない空間を見つめて言った。

「そう。そうなんだ」

 哲也の言葉をじっくり噛みしめているようだった。室内の空気が行ったり来たりしている。哲也は罪悪感にさいなまれた。

「友達ではなかったけどね」

 敢えて嘘を言った。逃げてしまった、そんな自分が嫌だったけど、これ以上隆二のことについて訊かれるのが辛かったのだ。

「あら、残念。きっと兄と哲也さんは仲良しになれたと思うのにね」

 静香のまわりだけ明るくほころんで見えた。

「さあ、どうかな。あっ、コーヒー冷めないうちに飲もうよ」

「ごめんなさい、気づかずに」

 向かい合って、お互い無言でコーヒーを飲んでいると、一層気づまりな空気になる。静けさが四方から押し寄せてくるようだった。

「ねえ、静香の学生時代の卒業アルバムを見せてくれないかな」

 深い意味があったわけではない。思いつきだったが、沈黙を破るにはいいアイデアのような気もした。もう少しこの部屋で静香と一緒に居たいと思ったからだ。結局、その日は静香の小、中、高校時代の卒業アルバムすべてを見るだけで帰宅した。きっと静香は、哲也のことを誠実な男と『勘違い』したに違いない。

 帰りのタクシーの中で、哲也は静香との交際を止めるべきかどうかを考えた。だが、もう遅かった。哲也は静香のことを深く愛してしまっていた。幸い静香は何も気づいていない。静香の両親に挨拶に行くことになった時は少し緊張したが、両親が隆二と哲也の心の結びつきを知っているはずもなく、静香と哲也の結婚を心から祝福してくれた。哲也が28歳、静香が20歳の時だった。

 あれから間もなく20年になる。今夜の娘の一言が自分の汚れた過去のすべてを思い出させた。

 今になって思う。隆二は最後まで自分を信じていた。哲也のことを守り抜こうとした。だから、自分がいじめにあった時、自ら哲也との連絡を絶った。隆二はそういう男だったのだ。それなのに、自分は自分のことしか考えていなかった。歪んだ感情によって引きちぎられた自分。あの時、隆二に憎まていたらどんなに楽だったろう。ほんとうは、隆二に伝えたいこと、伝えなければならないことがたくさんあったような気がする。

 自分は中村隆二と中村静香という二人の人間を裏切ってしまった。今頃になって深い深い後悔の念に襲われる。だが、すべての責任は自分にある。今の自分にとって、静香は大事な大事な存在だった。静香に対する思いは今どろどろに溶けて混ざり合っているけれど、このまま静香を裏切り続けることはできない。

 明日、静香にすべてを話そう。この話を聞くことは静香にとっても辛いことだろう。だが、もう避けては通れない。話すことによって、どんな結果が待ち受けているかもわからない。でも、今はそのすべてを受け入れる覚悟はできている。一つのことがゆっくり終わっていくような心地よささえ感じる。これが、遠く置き忘れてきた日々の中で、心友だった隆二に唯一応える方法だと思うから。

 気がつくと、すでに空が白んでいた。夜明けの最初の光がさしている部屋の中で手のひらを見ると、ぽっかりとした空間が残っていた。

 

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あの紺碧の空の下で シュート @shuzou

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