第56話

 達也は警戒心を解いて、解錠ボタンを押した。


『開きました。ありがとうございます。あれ?荷物が湿ってる。おかしいな…』


 達也が入口にまわって、ドアを開けようとした時、珍しくブルースが激しく吠えたてている声が聞こえてきた。達也はブルースを止めようと慌ててドアを開けたが、そこで見た光景に達也は思わず凍りついた。


 外玄関から入ったところで、次郎が昏倒して痙攣を起こしている。

 遠目から見ても、嘔吐や失禁をしていることがわかった。慌てて駆け寄ろうとした達也を、ブルースが物凄い形相で吠えて近寄らせない。そして達也の足を止めたブルースは、踵を返すと次郎が手に持っていた書類封筒を咥えて、物凄い勢いで外へ駆けだしていった。


「ブルース!」


 ブルースは弟の叫ぶ声にも振り向くことはなかった。封筒を咥えたまま、老体の最後の力を振り絞って駆け続けた。


 一方訳の解らない達也は、とにかく次郎に駆け寄る。次郎が苦しみで大きく見開いた眼の瞳孔が収縮しているのがわかった。大量の涎、嘔吐、失禁。そして、痙攣。達也は直感した。ソマンだ。一刻の猶予もない。達也は救急車と警察、そして自分の病院に、至急PAMを搬送するように連絡した。この機転が後に次郎の命を救うことになる。


 連絡した各所の人と資材を待つ間、達也はタオルを口に巻いて、次郎に付き添っていた。見ると書類封筒を持っていた次郎の指先が、炎症を起こしている。皮膚からの吸収か…。実際にスプーン一杯のソマンが庭にまかれていたのなら、タオルごときで達也の死を防ぐことは出来ない。

 しかし、ソマンが封筒に仕込まれること知ったブルースは、垂れ流れる前に封筒を咥えて飛び出していったのだ。達也はブルースの奇行の意味を悟った。ブルースは人間の弟を救うために、兄として毅然とした行動を取ったのだ。


 警察と救急車と病院からの搬送車が同時に到着した。まず血中のソマンを中和させなければならない。達也は、何よりも先にPAMを次郎に注射した。そして救急隊員に細かい指示をすると、次郎を上田総合病院へと搬送させた。警察の事情聴取を受けながらも、達也はブルースの安否が心配で仕方がなかった。


 翌々日、達也は洗浄されたブルースの遺体と対面することになる。ブルースは力の限り走って、達也とよく遊んだ空地へ出ると、そこで力尽きたのだ。人通りがないその空地でブルースの遺体は放置され、警察の捜索でようやく発見された。その頃には、ソマンの殺傷力も消えていた。ブルースの硬くなった遺体を抱きながら達也は人目をはばからず泣いた。愛犬とは言え少し大げさだと言う人も居たが、ふたりのことは誰もわからない。ブルースは達也にとってペットではない。欠け替えのない兄弟であったのだ。

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