第52話
ミカが指定したレストランに、哲平は約束の時間より早めに着いた。
もとよりキュイジーヌなどという言葉を今まで聞いたこともない哲平である。フランス語で名前すら読めないレストランの席に着くと、相当場違いなところへ来てしまったと後悔し始めた。
服装もライダーの皮ジャンにTシャツ。浮きに浮きまくっている。あたりを見回すと、他の客がこちらを盗み見している。哲平が劣等感にさいなまれている一方で、実は他の客たちはその長い脚と均整のとれた逞しい肉体が伺い知れる皮ジャンの男を、アクションスターの誰かであると囁き合っていたのが実情だ。
そんなことは哲平にわかるはずもなかった。
白い室内の中で黒を主張するもうひとりの客が居た。
見ると連れはいないようだ。しばらくするとその男は、ナイフとフォークを置き、ミネラルウオーターの入ったグラスを持ち上げ、ライトに透かし始めた。そして、鋭い声でギャルソンを呼ぶ。
「こんな雑菌が浮遊している水が飲めるか。さっさと変えてこい」
ギャルソンが慌てて空のグラスを持ってきて、その男の前でミネラルウオーターを注ごうとすると、またその男が難癖をつける。
「そんな曇ったグラスに、俺が飲む水を入れるつもりか」
哲平は呆れてその男を眺めていた。潔癖症も度を越している。切実な喉の渇きを知らない奴ほど、あんなことを言うんだ。
「GDでも吸って、死んじまえ」
男が黒目がちな瞳を怒りに膨らませて呟いた言葉を、哲平は聞き逃さなかった。意味はわからなかったが、職業柄物騒な発言をするその男の顔を記憶のファイルの中に保管した。
「お待たせしてすみません」
ミカがやってきた。薄いメイクにラベンダーのアイシャドーが印象的だ。上品で繊細な服でありながら、今日は多少肌の露出部分も大きく、セクシーな印象がある。哲平との食事の為におめかしをして来たのだろうか。
「別に…遅れてませんよ。自分が早く来すぎたんで…」
店の雰囲気というよりは、ミカの華麗な出で立ちに気後れして、いつもの哲平らしさが出ない。ギャルソンがメニューを持ってきたが、カタカナ書きはあるものの、何が何やらさっぱりわからない。
「何かお飲みになります?」
「いえ、今日はバイクできましたから…」
ミカとの会食を無事に終わらせるために、すすめられても飲まないようにわざとバイクでやってきたのだ。
結局、オーダーはミカに任せて、哲平は食事が来るまで水ばかり飲んでいた。
「今夜は母親じゃないはずなんですけど、テッペイの話しをしてもいいでしょうか?」
「どうぞ」
「テッペイは桐谷さんにお会いしてから、なんか変った気がします」
「そうですか…」
「昔は大概のことはわかったんですが、桐谷さんにお会いしてからテッペイが何を考えているのか、わからなくなって…」
「それって、自分を責めてます?」
「半分…」
「まいったな…はっきり言いますけど、それは自分に会ったからではなく、そういう年頃になったんですよ。今、男になろうとしてるんです」
テッペイは目の前の水の入ったグラスを飲み干した。
「今までは、お母さんが…」
「ミカと呼んでください」
ミカが毅然と哲平に言った。しばし言葉を飲んだ哲平ではあったが、ミカの勢いに押され言いなおす。
「今までは、ミカさんがコッペイを守っていたけれど、やがてコッペイは成長して、今度は彼が家族を守るようになるんです」
「頼もしいような、寂しいような…」
ふたりの間に、食事が運ばれてきた。どのナイフとフォークを使うのか迷ったが、面倒になった哲平はとにかく一番大きいナイフとフォークを掴んだ。
哲平はナイフの扱いに苦闘しながら言葉を続ける。
「ふたりで寄り添って生きてきたから、気持ちはわかりますが、いつかコッペイが飛び立って行くことを、ちゃんと覚悟しておいてくださいね」
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