第37話
やがて、見たことのある高級セダンが交番の前に急ブレーキで停車すると、またビバリーヒルズからやって来たようないでたちのミカが車から飛び出してきた。
「テッペイ!」
ひとこと叫ぶと、ミカは我が子を抱きかかえた。哲平の腹の位置でバイクにまたがっているテッペイをかき抱くものだから、ミカのキューティクルのきいた髪が哲平の鼻先をくすぐる。ああ、またこの香りだ…。本当に制服着ていなければどうにかなってしまう。
「桐谷さん。またお世話になってしまったようで…」
ミカが哲平の顔に間近な位置で語りかける。哲平は彼女の息を顔で感じることができた。
「いや…」
哲平は自分の顔が赤くなるのをヘルメットのバイザーで隠した。
「コッペイは本当に病院が嫌なんですね」
「コッペイ?」
「ええ、名前がまぎらわしいんで、自分が名付けました」
しっとりとした白い肌の眉間に、ちょっとしわを寄せてミカが嫌そうな顔をした。
「テッペイはどうやってここへ?」
「コッペイはどうも花屋の車に忍び込んだようですよ」
哲平はコッペイから聞いた一部始終をミカにも告げた。
「そうですか…桐谷さん本当にありがとうございました。さあ、テッペイ、帰りましょう」
「コッペイ、またな」
ミカがコッペイを抱き上げようとすると、コッペイは手足をバタバタさせてむずがった。声も張り上げて白バイから降りようとしない。
「テッペイったら、そんな悪い子しないで…一緒にいらっしゃい」
ミカが、コッペイを押さえこもうとするが、上品な女性の腕では5歳の男の子の動きを制圧することはできない。
「こら、コッペイ!」
テッペイはいきなりコッペイの頭にゲンコツをくれた。
「正義の味方は、お母さんを困らせないぞ」
大きな拳で小さなコッペイの頭をゴツン。音はするが、痛くもあり、痛くもなし。若い頃、拳の喧嘩に明け暮れた哲平ならではの絶妙なちから加減だ。
コッペイはいきなりのゲンコツ初体験に驚いて動きが止まったが、母親のミカはもっと驚いた。
「桐谷さん。うちのテッペイになんてことを…」
ミカの目は怒りで震えていた。
「清野さん、自分はコッペイを怒ったんじゃないですよ。しかったんです。見てごらんなさい。コッペイの目を」
コッペイは、ミカにしがみついて目に涙を溜めながらも、毅然とした目で哲平を睨んでいる。
「いい眼してるじゃないですか。自分より力の上の男に反発してこそ、男は育つもんです」
しばらく哲平を睨んでいたミカ。やがてコッペイを抱きかかえて車に乗ると、挨拶もせず乱暴に走り去っていった。
「あーあ、桐谷警部補。お母さん怒らせちゃった…」
ミカの車を見送る哲平の背後に、いつの間にか若き巡査部長が立っていた。
「軽いゲンコツくらいで大騒ぎしやがって…俺ん時は親父からガチな往復ビンタだったぞ」
「警部補の乱暴な子育て論は、あのセレブには通じませんよ」
「うるせい、署へ親に無事引き渡したと報告しろ」
再びゲンコツを繰り出しそうな哲平の勢いに、若き巡査部長はすぐさま黒電話に飛びついた。
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