九月一日の殺意

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大人のフリースクール1

 電車を降りた高柳たかやなぎ公太こうたは、帰途につく人々を避けながら駅前の道を渡り、右手に握る緑色の長っ細い名刺に目を落とした。

 今朝方、自宅の郵便受けに挟まっていた、広告用と思しき名刺だ。

 表には『大人のフリースクール:メメント・モリ』としか書かれていない。裏面には駅から市民体育館までの略式地図と、ボールペンの手書きで日時が書かれている。 

 普段なら即座にゴミ箱に放り込んでいる名刺だが、なぜだか誘われてみる気になった。

 公太は鼻を小さく鳴らして名刺をポケットに押し込み、左手をランニングバックのスリングにかけ、駅前の繁華街へと入っていった。

 並ぶ看板が赤く灯り、割引券を握った呼び込みがぽつりぽつりと立っている。田舎というには人が多く、都会というには垢抜けていない。駅の反対側には珍しくも優秀さで名のしれた公立中学があるせいか、やんちゃそうな若者もどこか落ち着いた雰囲気だ。

 近場にこんな駅があったとは、と暢気のんきに歩いていた公太だったが、ふいに眉間に皺を寄せる。

 繁華街のど真ん中を、独りの小柄な少女が、苦しそうに歩いていた。

 艷やかな黒い短髪で、目を隠すように前髪を垂らした少女だ。一見して大人びた綺麗な顔立ちをしているが、高校生ならまだ制服を着ている時間だ。かといって、小学生ならひとりで歓楽街を歩いたりはしないだろう。もちろん、家が近くにあるなら話は別だが。

「……どうすっかな……」

 公太は誰にいうでもなく呟いた。人と会わない生活が続き、独り言が増えていた。

 いくら都市近郊のおとなしい歓楽街とはいえ、高校生にも見えないくらい幼い少女が歩くのはどうだろうか。表情からして何かしら事情があるのだろうが、近頃は突如として暴走する車もあれば、人を殺傷せしめて誰でも良かったとのたまうバカもいる。大人になってから死ねとは言わないが、死に急がなくてもじきに死ねると教えてやらねば。

 いらぬ節介だと分かっていた。だが、公太は押し込んでいた名刺を取り出し、少女に声をかけた。

「こんばんは」

 少女はビクリと肩を震わせ、恐る恐る振り向いた。

「……こんばんは」

 緊張しているのか、消え入るような声だった。

 公太はもう一度「はい、こんばんは」と口に出しつつ、会話の糸口を探した。

 こんな時間にひとり? ナンパみたいでダメだ。 

 いま何してるの? もっとダメだろう。

 塾の帰り? 少女は手ぶらだ。それはない。それに子ども扱いして大人だったら困る。

 公太は歩きだした少女に少し離れてついていき、見つけた質問をぶつけた。

「どう? このあたり、夜の散歩は楽しい?」

「……何? ナンパですか?」

 少女は訝しげな目をしていた。二人の脇をゆるゆると車が通り、間際に伸びたヘッドライトの光が少女の横顔を照らした。普段は陽に当たらないのか、妙に生白い肌をしていた。

 すっと通った鼻筋、涼しげな黒い瞳は大人びていて、表情のほうは幼さを感じる。うつむいて歩いていれば平気だろうが、顔を上げればナンパ男に絡まれるのも時間の問題だろう。

 ただ、想像していたより気が強そうだった。それに、小学生にしてはドスの利かせ方が上手すぎる。中学生だろうか。

 テキトーに検討をつけた公太は大げさに首を傾げながら、おどけるような口調で言った。

「えっと、とりあえず、通報はしないでもらえます?」

「……返答によりますけど」

「何の返答……って、そうか。俺は高柳公太です。今からフリースクールに行くんですよ」

「なんで敬語? てか、ふりーすくーる?」

 少女は眉間に深い皺を寄せて、たどたどしく公太の言葉を繰り返す。

 すかさず緑色の長っ細い名刺を見せると、眉間に刻まれた皺がますます深くなった。

「……これ……本気ですか? フリースクールって……怪しすぎません?」

「ですよねぇ? 俺も、結構、驚いたんですよ」

 言いつつ尻ポケットから自分の名刺入れを出す。開くのは実に二カ月ぶりだ。一枚、出して顔をしかめる。会社の名前とアドレスが入ったままだった。

「俺は、元・営業の高柳公太です。怪しいモンじゃないですよ」

「……元・営業って……どこからどうみても怪しげなんですけど……?」

 少女は不信感を隠そうともせず、指先でつまむようにして名刺を取った。

「……営業二課……? もしかして、スカウト?」

「いえ。残念ながら、ただの飛び込みですよ。それ前の職場の名刺でして」

「前の? 今は?」

「ああ、えっと、今は、無職なんですよね」

「…………は?」

 絶対零度の単音。営業時代を思い出させる音色に、公太は幽かに片笑みを浮かべた。

「いえまぁ。社会復帰のためにも、学校に通おうかと思いましてね?」

「それで、これぇ?」

 言って少女はメメント・モリの名刺と公太の顔を見比べる。

 しくじったかな? 直感的に思った。ただでさえ無職になったばかりである。しかも場所は歓楽街で、相手は中学生と思しき少女。もし警察を呼ばれれば、悪意はなくても有罪になりうる。

 とりえず通報だけは避けようと、公太は営業トークをしかけた。

「もしよかったら、一緒に来てみませんか?」

「は? なんで私が?」

 大人びた顔に、あからさまな不快が溢れ出ていた。

 しかし、元・営業屋としては聞き慣れた返答でもある。飛び込みで業績を稼いできた公太にとって第一声の拒否反応は挨拶に等しい。

「やー、ほら。こんな時間にこんなとこを歩いてるくらいですし、失礼ながら同じ社会不適合者らしく、物は試しにどうでしょう、という感じで……ダメです?」

「……本気で言ってます? というか、大丈夫?」

 少女の様子が不審から気遣うようなそれへと変わった。興味はチャンスとイコールだ。

 公太はここぞとばかりに胸を張る。

「もちろん大丈夫ですよ! 俺自身は無職ですし、その名刺も信じられないくらい怪しい代物ですけど、ここ、日本ですし!」

「……なんかヤバそうだったら、すぐ警察に電話するけど」

「もちろん、もちろん! ヤバそうなら、すぐに通報しましょうね!」

「え?」

 少女は苦笑気味に唇の端を吊った。呆れられているのは間違いない。けれど呆れられるだけのことをしているので否定はしない。だから、適当な単語を探すつもりもない。

 公太は、少女の気配に親しみを覚えていたのだ。


 死にたい。


 冗談が半分、本気も半分。若かりし頃、よく同じ感情を抱いた。思春期を越えて生きているのも、生と死を比べ、どちらも無駄なら生きてみようと選んだだけだ。

「いや、実はですね? ひとりで行くのは、ちょっと怖いかなって思ってまして」

 だから、公太は嘘を吐く。

 実際には恐怖などない。すでに仕事は辞したし、両親も彼には無頓着。正確にどうなのか尋ねたことはないが、少なくとも死んだところで父は嘆かないだろう。

 残念ながら恋人はいないし、友人関係の九割は薄っぺらくて中身を伴わない。気にしたほうがよさそうなのは自分の生き方くらい……なのだが、そっちについても空っぽだった。

 中高一貫してほとんど無感情に生きてきた。大学は高校の担任に勧められたところを選んだし、特に誇れるような経験を積むこともなく卒業した。中堅大学の卒業生にとって新卒というブランドを生かせる就職先は多くなく、何も考えずに営業職を望んだ。

 もっとも、その判断自体は間違いではなかったが。

 当時、営業になりたがる人材はすでに減少傾向にあり、自ら営業を望んだ逸材として楽に潜り込めたからだ。おかげでそれから三年間、順調に仕事を重ねることができた。

 それはひとえに彼の、物怖じしない、という才能に依っていた。

「――で、そちらは、なんでこんな時間にひとりで出歩いてたんですか?」

「……今それ聞く? まぁいいけど」少女は試すような片笑みを浮かべた。

「誰か、殺してくれないかなって思ってさ」

 やっぱり。

 ほくそ笑みつつ足を進める。

「なるほどですねぇ。それってつまり、自分をってことですよね?」

「そうだけど……驚かないんだね。ちょっと意外」

 拍子抜けしたかのように息をつき、少女はメメント・モリの名刺を眺めた。

「メメント・モリ、って、なんだっけ? なんかで聞いたことがある気がする」

「世界史とかじゃないですかね? メメント・モリ。死を想えとか、死を忘れるな、とかそんな風に訳す、ラテン語の文句ですよ」

「……そうなんだ……」

 呆けたように呟く少女の瞳は、きらきらと輝いていた。

 中学生くらいのころは、彼もメメント・モリという単語に心惹かれた。当時は正しい意味に興味はなく、ただ『死を想え』という訳語に胸を躍らせていたように思う。

 過ぎ去った思春期を思い返しつつ公太は微笑みかけた。

「ちょっと、カッコいいですよね」

「――ッ!?」少女は顔を赤らめ、名刺を押し返す。

「ち、違うし! 別に、気になったとかそういうんじゃないから!」

 分かりやすい。公太は口元が緩みそうになるのをこらえて言った。

「まぁ、暇ならちょっとだけ付き合ってください。意外と面白いかもしれないですし」

「……まぁ、暇だし、いいけど……てかさっきから、なんで敬語なの?」

「俺、これでも元は営業ですからね」

 退職してからすでに一カ月を経ている。仮にいま社会復帰できたとしても、次の上司も先輩も年下だ。そうする必要があるかはときどきだろうが、年下相手の敬語に慣れておくべきだ。

 公太は久々の他者との交流に心和ませながら、少女とともに体育館に向かった。


 ……途中、慣れない土地に道が分からなくなり、少女に助けてもらうはめになったが。

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