風希が風希と向き合うために(一)


   ◆


 気づくと二人は公園のベンチにもたれていた。

 ツカサと波来がその身をここまで運んでくれたのだろう。

「ここは……?」

 さっきまで路地裏にいたはずなのに、風希は戸惑った様子を見せる。

「長い夢から目が覚めた?」

 隣にいた桔実が、風希が目を開いたことがわかり、面白いくらいぐったりした顔の彼女に話しかける。

 桔実は信じていた。風希が何か変わっただろう、ということを。

「キッちん? 痛っ……」

 二人とも嫌と言うほど殴られた。風希はふいに目尻に涙の雫が浮かぶ。

 しかし、もっとも殴打されていたのは桔実のほうだ。それなのに彼女は笑顔を見せる余裕があった。とてもではないが、風希はそんな顔をする余裕はない。そんな桔実に強さが垣間見えたか、風希は悔しそうな目をする。

「わたしを守ってくれて、ありがとう」

「うる、さい」

 感謝される筋合いなどなさげに、風希は言葉で精一杯の抵抗を見せる。

 第一、風希を守ったのが最初で、自ら犠牲になった桔実であるのに。なんだかおかしい。

「ただの気まぐれよ」

「それでもわたしを守ってくれた事実に変わりはないよ」

 たとえ気まぐれであったとしても、桔実は心の底から嬉しかった。

 風希が誠意の行動を見せたから。

 だが、風希は桔実の言葉が気に入らない様子で。目元を拭ってから彼女をにらみかえす。

「どうしてそう人をイラつかせることを言うの?」

「そうなの? 風希ちゃんはイラだってるんだね、でも私は嬉しいんだよ」

「あなたの感情なんて関係ない!」

 風希の目に涙が浮かぶ。自分のカリスマで奢ったところを見せ、見せかけだけの強者のハリボデをビリビリに破かれた気分だったろう。風希の瞳に浮かんだ涙は自分の怪我が痛いだけのせいではない。きっとそれは悔しいんだろう、そうだろうと桔実はわかっていた。

「私に力があったら、私はあなたをすぐに助けられた、なのに……」

「強くなりたいんだね?」

 はっきり言うと桔実も身体に受けた傷は風希よりももっと痛いはず。より長い時間殴られていたのは桔実だから。だけど彼女は一言も音を上げることをしない。

 いまここで強いのは明らかに桔実のほうだった。

「だったら自分と向き合わないと駄目だよ、風希ちゃん」

「キッちん?」

「強いっていうのはね、喧嘩強さとか人気とかじゃないんだよ」

 はじめから桔実が言っていたことだ。いままで風希は空気のように聞き流していた。けれどいまこの瞬間、風希は真剣な眼差しを見せて、桔実の言葉に明らかに耳を貸していた。

「そんなものがなくても、強く生きることはできる。そしてわたしはそんな生き方を知っている」

 これは、ごまかしてきた日々にさよならする最後のチャンスだ。

 いまこそ風希は真剣になるべきだ。

「真剣に考えて、風希ちゃん。もし強くなりたいんだったら」

 息を絶え絶えに、桔実は一言一言を絞る。

「風希ちゃんが風希ちゃんと向き合うこと、それが強くなるために必要なことだよ」

 そして、桔実は言う。

「夏休み、海に行こうよ。強くなりたいんでしょ。もう絶対に逃がさないよ風希ちゃん」

 桔実は風希の手をぎゅっと握った。

「痛っ……」

「あ、ごめん」

 手の力を柔らかくなってから、風希は握る手にもう一方の手を重ねた。

 桔実はそれを同意と認め、約束をとりつけた。




 翌日、学校の廊下で桔実は波来と行き合った。

 今日は空全体が黒に近い灰色の雲に覆われていた。気分がだだ下がりになる天気である。

「桔実ちゃん」

 気まずい空気が流れる。無視する気はそもそもなかったが、それでも波来のぴりぴりした感じが桔実の心に伝染する。

「何も気兼ねすることないですよ、波来くん。どうしてそんな顔をするですか」

「桔実ちゃん……」

「何か話があるですよね?」

 いつもの調子で桔実が言うので、波来は救われたように顔を綻ばせた。

 しかし、それは一瞬のことで、すぐに顔の形が固くなる。

「話したいことがある」

 おそらく波来は何か隠し事をしていた。その空気を桔実は察する。

「昼休み、いつもの場所に来てくれ」

 そう言って背中を見せる波来は、どこか悲しげに見えたのは桔実の気のせいだろうか。


 毎度、雑談をするための屋上に足を運んだ。

 桔実が来ると波来はすでにそこに居合わせていた。

 これから波来は重大なことを話す。

「この前は、ごめん」

 頭を下げて謝罪の形を示す。先日、風希当人のことを無下にする発言をしてしまったことをここに詫びた。

「いいですよ、私は気にしてないです。あのときわたしを公園まで負ぶってくれた波来くんに感謝してるですし、帳消しでいいですよ」

「うん」

「で、わたしに話すことってそういうことではないですね?」

 そこで言葉に詰まる。

 目を泳がせて、明らかに発言をすることに躊躇いがあるようだ。

 だが、桔実はいつまでも待つ。そのつもりでいた。

「あのとき、あんなことを言ってしまったことには理由があって」

「言い訳ですね?」

「言い訳なら僕が怒られるだけで済む。だけどこれは桔実ちゃんと共有すべき問題なんだ」

 どうやら込み入った話になりそうで、桔実は耳を傾けることにする。

「ツカサから聞いたんだ」

「ツカサさんですか?」

「単刀直入に言うよ」

 謝罪も前置きも重ねておいて、どこが単刀直入なのかわからないけれど、波来はなけなしの勇気を振り絞る顔で、こう言った。

「風希が消えるかもしれない……」

「……えっ?」

 言っている意味がまるでわからない。

「風希本人のことじゃない、僕たちがドッペルゲンガーとして接しているあの風希のほうだ」

 本来ならツカサが風希本人を消しにいくとういうことを前々から言っていた。

 しかし、そういう重複した話ではなく。

「桔実ちゃんは、風希と風希が向き合うことで、風希が風希自身を取り戻すって言ってたよね?」

「うん……そうですよ」

「ツカサも言ったんだ、二人が向き合うときは風希が自分自身を取り戻すことだって。捨てたはずの自分を自分に取り入れることだって」

 そして、残酷にもそこから導き出される結果は、こうだった。

「風希本人が風希自身を取り戻したとき、ドッペルゲンガーは消える」

 そのことをツカサは波来に教えたのだ。

 桔実はただ黙ることしかできない。感情を押し殺すだけで精一杯だった。

「ごめん、だから僕は桔実ちゃんを妨害するしかなくて」

「謝らないでください!」

「桔実ちゃん?」

「波来くん、ありがとうございます」

 そこでなぜ謝意の言葉が出てくるのか理由がわからない様子の波来。

「もし逆にわたしのほうから先に、ツカサさんからそのことを伝えられたら、わたしも反対したはずです。だから波来くんを責めるつもりはないです」

「桔実ちゃん……」

「ありがとうございます」

 そこで涙がぽたぽたと零れ落ちた。

「ありがとう……ございます」

 そのとき、屋上の地面が点描に埋め尽くされる。

 雨音が響き始め、地面を激しく打ちつけた。

「桔実ちゃん……」

 この場に居合わせることがたまらず、桔実はこの場から駆け出した。

 後ろから呼びかける波来の言葉にも耳を傾けず、ひたすら走る。

「わたしは……わたしはなんてことをしたの……。なんて酷いことをしたの」

 涙声になりながら、袖で拭いながら、校庭まで出た。

 そのときすでに雨音が激しくなっていた。

 雨に身体を打たれながら彼女は泣き叫んだ。

「風希ちゃん……風希ちゃん! ごめんなさい、ごめんなさい……! ああ、ああああ……。ごめんなさい!」

 何も知らず、桔実は風希を破滅する方向へと、ことを動かしてしまった。

 知らないことは罪だという言葉がある。人知れず桔実は罪を犯した。

「ごめんなさい、風希ちゃん……うう、ああぁ」

 泣きわめいて、涙なのか雨なのかわからないほど顔がびしょ濡れになる。

「桔実ちゃんは優しすぎるんだね」

 風希の声が後ろから聞こえる。振り向くと、心配の矛先である風希がいた。

「だから桔実ちゃんはとても危なっかしくて、いつも私はハラハラしちゃう」

「風希ちゃん!」

 駆け寄って二人は抱きしめあった。風希もまた雨で濡れている。だけど体温を交換しあうように互いの肌の温もりを感じる。

「風希ちゃん……」

「桔実ちゃんは何も悪くないよ、何も悪くない」

 まるで子供をあやすように風希は言う。桔実はそれを嫌がることはしない。風希は桔実を責めようとしない、だからこそ悲しさに胸が張り裂けそうになる。叱ってくれたほうが気持ちが楽になれるのに。

「ごめん、風希ちゃん。何も知らなくて」

「何も悪くない……悪くない」

 雨の降りしきる中で、桔実が泣き止ませるために、風希は頭を撫で続ける。

 おまじないのように、悪くない悪くないと言って穏やかな顔で風希は桔実を安心させようとした。

「大好きだから、二人とも」

 風希の真心に触れて桔実は、温もりの中で目を閉じる。

「桔実ちゃんと波来くんが私を好きだとわかってる……私は最後まで二人の風希でいるから」

 最後まで穏やかになれず、桔実は何度も風希の名前を親しみと悲哀を込めて、呟き続けた。

「また会いに来るね、いつものように」

「風希ちゃん?」

「私はドッペルゲンガーだから、また一緒に……」

 温もりが消えて名残になった瞬間、桔実の身体が落ちる。

 風希がその場から消えた。

 また会えるから。

 しかし、今生の別れは近づいていた。

「風希ちゃぁあん!」

 雨はまだ上がりそうにない。桔実の嗚咽を隠すように。

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