風希はここにいていい、風希もここにいて欲しい(一)
後味が悪くなったが、波来たちはカラオケ店を後にした。
ちょっとした非日常を味わった気分だった。
そしていま、なんだか日常が戻ってきた気分である。
無論、ドッペルゲンガーがいることは日常ではないのだが。
もしくは波来がドッペルゲンガーを日常として受け入れているのかもしれない。
「ねえ、波来くん」
「なんだい? 風希」
風希当人をカラオケ店に置いてきた。重い雰囲気の中、もう一人の風希が話しかけてくる。
「私って、ここにいてもいいのかな」
シャッターの降りた町工場の横を通り過ぎた後に、風希が聞いた。
星の見えない夜が続いていた。後ろを向いて町工場の建物の傍らに風希が立ち止まっている。後方に佇む歓楽街の逆光を浴びて、建物も風希もシルエットになっていた。
その輪郭が背景を切り取っていた。
「どこにも行かないで」
また一時的にどこかへ行ってしまうのを怖がり、波来は風希に注視をする。
「波来くん……私は」
「どこにも行かないで、たとえ君がドッペルゲンガー、あるいは幽霊や妖精のたぐいであっても。どこにも行かないで」
それが波来の正直さだった。ここにいてもいいのかな、と言うから湧き上がる感情に彼は揺さぶられた。実直さを伝えるために、彼は言わずにいられなかったのだ。
「波来くん、その台詞、格好つけすぎですよ」
ムードを軽く壊すことを、桔実は心得ているようで。
「僕は不器用だからさ」
「おまけに空気も読めませんし、最悪な彼氏さんですねぇ」
頭をカチンと殴られた気分だが、柑実の思いを鑑み、何も返さないことにする。
「そして波来くんは、風希ちゃんの彼氏さんになったって、自覚してないでしょう?」
「え、ええ?」と、なんのことやらさっぱり、と波来は戸惑う。
「さっき店内で、僕は風希のことが大好きなんだ、って叫んでたじゃないですか」
「あっ……」
本当にそうである。勢いで言ってしまったものの、もう訂正しようがない。
「よかったですね、形式張って告白する手間が省けて」
それがよいか悪いか、それは疑問の生ずるところだが。ここでは俎上に載せないことにする。
この風希が波来を好きだと前々から言っていた。
その返事をあのとき断言したのだ。波来は顔周りが、かーっと熱くなって足先から頭頂までが疼く。
「ありがとう、波来くん」
風希があどけない顔で波来に話す。このときの笑顔は、いつもの笑顔よりも一番綺麗だった。
たぶん一生忘れはしないと波来は思う。
波来が理想とする風希の笑顔だった。
「風希のこと泣かしたらわたし絶対許しませんからね、それだけは忠告しておきますね、彼氏さん」
桔実が肘で小突いて、波来は「あ、ああ」とうまい反応が返せないでいた。
その様子を見て、風希はまた「ふふ」と笑って、吐息を漏らした。
翌週の月曜日、波来は手紙で屋上に呼び出された。
送り主は明記されていない。生徒玄関の靴箱の中に置いてあった。
話があるので、屋上に来いと乱雑な続け字で書かれている。
まさかラブレター?
波来は網に肩を食い込ませるように屋上のフェンスにもたれる。フェンスの隙間から風が抜けていくのを感じる。夏なのに、風の抜ける甲高い音のせいで、蒼い寒空が高みに存在すると勘違いしそうだ。
次第に耳鳴りがして、音に鈍感になっていく。
そのとき砂利を砕く靴音を立て、手紙を出した当人は現れた。
「風希!」
波来を手をあげて、風希を迎えようとした。
その行動への反応に視線を、よそに向ける。卑しいものを見るキツめの瞳で見る。風希当人とすぐわかった。
「気安く呼ばないで」
冷たく格好つけて風希はスタスタと歩み寄る。
水を被り、惨めな姿になって、しかも命まで助けられてしまった。面子を潰されたと、感じていないわけがない。
だから波来は、笑みを返すのにも慎重になった。
彼女が胸ポケットから何かを取り出した。
「これ返すわよ」
波来から奪い取ったスマホだ。
乱暴に保管してあったのか、ケースカバーが傷だらけだ。
無作法に手で波来のほうに放り投げ、彼は慌てて不器用に指を伸ばす。
あわわ、と言いながら波来はスマホをキャッチする。
「じゃあね」
とっととその用事を終わらせたかったのか、素っ気ない返事で風希はすぐさま背中を向ける。
「それだけ?」
あっけなさ過ぎる会話のやりとりに、波来は思わず聞いてしまう。
風希が上履きを磨り減らす音を立てる。首を前に垂れ、襟首を見せた状態で、彼女は立ち止まった。
「それだけ」
「ふうん、そっかありがとう」
「お礼を言われる筋合いもないし、勘違いもしないで」
顔を見せたくない様子だった。風希は顔を俯けたままで、もしかしたら毎度の形相を作っているのかもしれないし、泣きそうな顔をしているのかもしれない。
「あなたが私を助けてくれたからスマホを返しに来たわけじゃない」
風希がそう言うのだから、そうなのだろう。波来は心中でそう断定する。
「あなたの動画、ネットから全消去したから。拡散された分はどうにもならないけどそこは容赦して」
普通はそこまでしない。それが人を安易に傷つけた後始末であることは間違いないが、それでもこんなことまでするとは、波来は思ってもいなかった。
「あ、ありがとう」
「お礼を言われる筋合いはない!」
そう言って突っぱねる風希当人は、相変わらずの風希だなと思う。
だが波来が心配していることはまだある。紙人形を風希自身に預けたとはいえ、ツカサは必ずもまた彼女のもとへとやってくる。
「風希はこれからどうするの?」
「わからないわよ、私が一番わからない。だから……だから私が一番怖いわよ」
そう考えるのも道理だ。波来は頭を掻いて、悪いことを聞いてしまったと悔い恥じる。
「そっか、ごめん」
「なんで謝るの?」
そういう聞き方をされると波来も萎縮してしまう。
だからそのまま自分の欠点をまっさらに晒す。
「僕は空気を察するのが苦手だから」
「そうね。とてつもなく罪深いわ」
やはりいつものようにこの風希当人は風希だ。
けれど存在を消される畏怖を、彼女は持っている。
そんなことをわずかにしか知らない波来が罪深いのも最もだが。知ったら知ったでもっと罪深い。すべてを知るなんてできるわけないから、わかってるよなんて言うのは簡単過ぎて罪は重い。
「これからも僕をいじめるんだね、風希は」
「……そうね」
これでいいのだろうか。波来は嫌な気持ちは消えなかった。けどそれよりも胸が切なさで痛むのが気になった。ただそれだけ。
「せいぜい気をつけなさいね、女は怖いって察しないと、あなたはとんでもないイザコザに巻き込まれるわよ」
事実、巻き込まれてたわけだが。
風希は相変わらず背中を見せたまま語り続ける。決してこちらを見ようとはしない。
「ありがとう、風希」
「だからお礼を言われる筋合いはないっていうの。本当にわかってないんだから。いつもいつも空気を読めなくて、イライラする」
そう言ってから、歩みを再開する。
一度だけ彼女が振り向いた。
「じゃあね、波来」
そう言ってから足早に校舎内に入り、遠くから踊り場を駆ける靴音を響かせた。
夏なのに涼しすぎる高所は、吹き荒ぶたびに胸の奥が冷える。
波来も早々に退散したい。
「波来くん」
また風希が来た、何か忘れ物をするドジでも踏んだのだろうかと思ったが。
彼女が波来くんと言うはずがない。
「……風希?」
ドッペルゲンガーの風希だと、ワンテンポ遅れて気づいた。
風希が到来したおかげか、周りの空気がそよ風となり、波来の半袖から涼気が通り抜ける。
「波来くん……風希っ? その間はなんですかぁー」
風希の背後から賑やかしに少女が姿を見せ、波来に茶々を入れる。
桔実だ。
「いや、さっきもう一人の風希に会ってたから」
「知ってる、さっきすれ違ったから」
今日は何の巡り合わせか、風希と二度目のご対面だ。
風希は最近、自分に似合う笑顔を見つけたようだ。それも波来が求める風希の理想に近づくためだろう。
決して彼女が着せ替え人形だとは思ってない。もし彼がそんなこと思いでもしたら、それは裏切り行為だ。それくらいの道理は読めている。
「ほら、風希ちゃん」
なんか今日の風希はもじもじしている。
何か言いにくいことでもあるのだろうか。
桔実を連れているということはそれだけ重要なことで。
風希は身体が強ばっている。
「ねえ、波来くん」
「なあに? 風希」
「夏休み……、海に行こう!」
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