風希を切り捨てて、繰り上がった風希(一)
◆
桔実は気づいていた。偶然にも風希本人がこのカラオケ店に入ったことを。さきほど桔実が自分たちの部屋の前を、ドア一枚隔てて風希が通り過ぎるのを見たから。
遠近法の典型みたいに奥行きを感じる廊下に、距離の均等を保ってルームドアが並ぶ。
朝に行なったぶつかり合いの続きをしようと桔実は考えていた。
本物の風希がドアを開けて、部屋に入るのを見る。意を決して桔実が部屋に入ろうとした。
そこで肩をむずっと掴まれた。
「やめたまえ」
取り巻きの一人かと思って、ギラッと目を剥き、うるさいです、の一言を放とうと振り向いた。
が、それは風希たち仲間ではない。
有名進学校の制服姿の装い。今朝方に会った男子だった。
彼がかける特徴的なインテリメガネ。人差し指と中指で、鼻にかかるメガネのブリッジに触れてから、男性身長の高みから桔実を見下ろす。
薄い印象をおぼろげな記憶から今朝見た彼の姿を思い出し、桔実はちょっとしたにらみだけに留めた。
「何か用です?」
「風希に用があるのか?」
「あります! 邪魔しないでください」
「邪魔などするものか、むしろ援護をしに来たのだよ」
彼から積もる話があるらしく、桔実と彼はいったん風希の部屋から離れ、廊下に設置されたソファに座る。
「あなたはどなたですか」
「カゲヒ、ツカサだ」
「カゲヒツカサさん? どう漢字を当てるですか?」
「そんなことはいちいち覚えなくて構わない。ただツカサと呼んでくれたまえ」
私服に着替えていた桔実であるが、ツカサは制服姿である。カラオケ店から追い出されないだろうか心配になるが。
そのことを彼女が口にすると、ツカサのクールな眼差しを向けられる。
「心配ない、午後十時を迎える前に終わらせる」
「何を終わらせるですか? ツカサさん」
高校の学年でいうと彼は一年上だと悟り、桔実はツカサを「さん」づけにするだけの礼儀は持ち合わせてはいた。
「風希を消しに来た」
「え……?」
犯罪に手を染めるような物騒なものを持っている様子はない。
「そ、それは何かの喩えなのですか?」
「桔実くん、それは君の解釈に任せておくよ。いずれにしても俺にはひとくくりに説明などできはしない」
女々しい感じに互いの肘を手で撫でるようツカサは両腕を組む。
「本物と偽物、それらがいることを皆に知らしめるいい機会だ」
「風希ちゃんに本物も偽物もありません!」
「そうか、桔実くんは何も知らないのだね」
「風希ちゃんのことを一番知っているのはわたしです!」
「よしてくれたまえ、俺と喧嘩するのが目的ではなかろう。多岐亡羊になってはいけない」
目的を見失ってはいけないという戒めに使う「多岐亡羊」。その言葉の意味を桔実は知らない。だが彼女は、何か切羽詰まった状況に立たされている雰囲気を察知しているつもりだった。
桔実はあたりを見回す。いつもはクリーム色した壁面が、気のせいかいまは冷たい白に見えた。
「ツカサさん、さっきわたしを援護しに来たって言いましたね。援護って何をしてくれるですか?」
「風希の弱さをいまここで消す。それだけだ」
すくっと立ち上がる。ツカサが言ったことに意味を汲み取れず、ワンテンポ遅れて桔実が及び腰で立つ。
「風希ちゃんの弱さを消す? どういうことなんです?」
「桔実くんのことは風希からよく聞いている。その君だからこそ何を言っているのか一番にわかっていると信じていたのに、期待を裏切らないでくれたまえ」
「いいえ、一番わからないですよ。ツカサさん自身がいったい何をしたいのか!」
乱れた自分のカットソーを直すため桔実が肩をパンパンをはたいてから、明確な嫌悪をツカサにその形相で示す。
「俺はかつて風希から影を切り取った。その影を弱さと信じていたから」
頭の配線がつながったように桔実が理解を得る。
影とは、ドッペルゲンガーのほうの風希ではなかろうか、と。
だがそれを理解と呼んでいいのかわからない。
ドッペルゲンガーの存在を信じることもそうだが、ツカサの言葉が怪しげなものだと思っていたから。
だからこそ容易に信じることが、とてもつなく危ないことだとピリピリと感じる。
「だが、俺はとんでもない過ちを犯した。俺は風希から強さを切り離したのだ。だからいまここで彼女の弱さを消してやる」
話は続く、訳の分からない言葉が、桔実の心当たりに繋がれていくのを止められない。たまらなく不愉快だ。
もしかしてドッペルゲンガーを生み出した張本人は、この人ではないか。嫌と言うほどわかってしまう桔実自身に桔実は毛羽立つ。
「俺は君を援護しに来た。それは言うまでもなく風希の弱さを消すために」
立ち向かいにツカサは風希のカラオケルームへと足を向ける。
向かう先がドッペルゲンガーの風希のほうではなく、本物の風希のほうだということが、酷薄だった。
「ツカサさんの言っていることは無茶苦茶です」
だが桔実は空気を読み過ぎる自分を恨んだ。
無慈悲なツカサの手を引っ張って、桔実は無力な抵抗を見せる。
「では桔実くん、君はなぜ俺をここに留めようとするのか」
言い返せない。
もともと風希は一人だった。
ツカサは何らかの方法で風希を二つに分けた。風希本人とドッペルゲンガーの風希に。
そしてその行ないが間違いだったことを認め、風希を消そうと考えている。
これから消されるのは、ドッペルゲンガーのほうではなく、風希本人。
◆
「波来くん!」
桔実がルームドアが開けた途端に蹴躓いて、両手をリノリウムの床につける。
波来は当然何が起こったのかわからず、慌てふためいて桔実の傍に歩み寄る。
「どうしたの? 桔実ちゃん」
「風希ちゃんが、ツカサさんに消されちゃう!」
ツカサさんとは誰なのか。
桔実がすぐさま立ち上がる。だが状況を説明しようとするも、息を切らしているのと、気の焦りを生じていることから、何が起こったのかなかなか言葉の形に出せないでいる。
だが大変なことが起こっただろうことを、普段空気の読めない波来にもわかっていた。
「私、消されるの?」
「ううん、もう一人の風希ちゃんのほうが消されちゃう……」
桔実が言おうとしていることがわからないが、緊急事であるようだ。
波来の手を引っ張り、本物の風希のところへと桔実は連れて行く。
どうやら本物の風希が同じくこのカラオケ店にいるそうだ。だが、その風希が消される? どういうことだ? 波来の頭に不思議が湧き浮かぶばかり。
ドッペルゲンガーの風希もそれについていく。
途中で男子の不良どもが道を塞いでおり、こちらに気づくと不良は手の甲を乾いた音で叩く。嫌そうなものを見る目線で、首を振って対応に応じる。
「ここはちょっと通せないぜ」
「どうして?」
波来が疑問の声をあげると不良は「うるせえ」とはねつける。
「ったく、黙って別の道を通りゃいいんだよ」
「何かあったの?」
それを聞くなり、なぜか癖の強い匂いが漂ってきた。その臭気に鼻が曲がりそう。
「ツカサさ……、男の人通りませんでした?」
桔実が対面して食い下がる。
「男? ここにいるじゃねえか、少なくとも俺らよりハンサムな男はここを通らなかったな。お前のボーイフレンドでも通ったのか?」
桔実はこの不良と面識があるようだ。
「大変なことが起こりそうなんです。通してください!」
「部外者は通すなと姉さんからの命令だ、お前はもう部外者だろ? 安藤桔実」
二進も三進もいかず、もどかしい。
「通して」
二人の間を縫い、風希が不良の目の前に姿を晒す。
「だから、通せねえって言っ……」
彼女を目前にして、黙っていられるわけがなかった。
それはそうだ、姉さんの風希がもう一人現れたのだから。
「あれ? 姉さん、どうしてここに」
「通して」
勇気を振り絞った様子で、風希は眼差しを不良にぶつける。
「いや、遠さねえ。姉さんの皮をかぶった偽物だろ」
梃子でも動かない不良に、どうにもイライラが募る。
「君たち、どいてはくれはしないか?」
波来が振り向くと、後方からインテリメガネの男がコツコツと歩いてきた。
今朝に会った進学校の生徒だ。一瞬に近い出会いだったものの、波来はすぐさま思い出す。
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