僕の彼女はドッペルゲンガー
明日key
プロローグ
夏の曇り空の下、風で金網が軋む屋上に、波来は両脚が震える。短髪に切ったばかりで頭が涼しい
「身のほどを知れ!」
腰までかかる厚めの髪が風に揺れる。制服の半袖シャツがはためく。風に靡く黒髪の揺れが波来を威圧する。
風希の糸切り歯が鋭く光る。針のように細い睫毛で冷たい細目を作り、明らかに睥睨の眼を作る。彼女がいまは猛獣に見える。
波来が困惑する。無理はない。
怒りを顔に浮かばせ風希は眉を吊り上げていた。
「なんで私が、あなたみたいな男と付き合わなくちゃいけないの?」
風希が波来に当たり散らし、気圧されて彼は一歩足を引く。
「最低! 私を安く値踏みして……。くだらないあなたの人間的価値、そんなものと私を釣り合わせようとして、許せない」
「いや、そんなつもりは……」と、しどろもどろに言葉を返そうとするが、そこに風希が食い下がり、見たこともない形相で睨みつけた。
「自分でわかってないの? なおさら悪い、絶対に許さない!」
波来はそんなこと、考えもしていなかった。ただ風希のことが好きだから一緒になりたい。ただその想いだけだった。胸が冷えて、顔が前のめりになった。
「不愉快の極み。『二度と私の前に現れるな……』なんて、そんななまやさしい言葉ではすませないわ。あなたの持ってるプライド、ひとつ残らず潰してやる!」
罵倒の限りを尽くし、風希は立ち去った。
空気が読めない波来が悪い。スクールカーストという概念を知らない彼は、風希が不良グループを束ねていることを知らなかった。おかげで翌日以降は酷い有様だ。
たとえば、足払い食らわされたり。胸倉掴まれたり。黒板消しを頭に落とされたり。
ハリセンで叩かれたり。パイを顔に叩きつけられたり。金ダライを頭に落とされたり。
「小学生かよ、お前!」と先手を取られて言われたり。
しかもその光景はすべて動画に撮られ、波来の醜態を全国に晒される始末だ。
波来の友人からは、不幸だったねと同情されるものの、空気読もうなと釘を刺された。そう言いながらそそくさと離れていく。友人と距離を置くことを強いられ、普段通りに話すことも支障がありそうだ。
ここ一週間は小学生レベルの嫌がらせされる毎日。だがそれもエスカレートし、今日にはその嫌がらせもレベルが上がった。
持っていたスマホを盗られた。靴箱にノートの切れ端があり。その書き置きの通りに、グラウンドから離れにある、運動用具を置く倉庫に行く。そこに入ったところで鍵をかけられ閉じ込められた。
倉庫は八畳ほどのスペースだが、物がひしめいて実質狭い場所だった。
「ここを開けてよ、僕のスマホ返してよ!」
倉庫の扉を叩くと、あっけなく開く。かつて遠目から眺めていた風希の笑顔が現れる。どれだけその笑顔のそばにいたかったか、と憧憬していた頃はすでに遠い過去だ。
「これで遊んでなさい」
何かを手渡してから、再び扉に鍵をかける。
波来の手にあったのは、いまどき小学生も持ってない携帯ゲーム機で、しかも電池切れてる。
どうしてこうなったのか、波来は心の整理ができていない。ただ彼が理解しているのは、城田波来は伊原木風希に嫌われている。そして投稿動画のネタにされている。ただそれだけだ。
どこかで外飼いにしてる犬が吠える。飼い犬ではなく野良犬かもわからないが、別に関心を留める必要性もない。ただ何か怖れのようなものが波来の背筋に走って、彼の身は縮こまる。
「なんで僕がこんな目に遭わなければならないんだよ!」
まこと、この世は理不尽だ。
夜が訪れ、彼は闇に閉じ込められた。こんな仕打ちをされたのは生まれてはじめてだ。さすがの波来も、彼女の悪性を理解する。逆恨みなどと言い訳しない。本当の意味で憎み、怒りを握り拳に込める。
ふと小窓から明かりが差した。はめ殺しの窓で格子の枠になってるため、ガラスを割って出られはしない。ぼんやりと満月が浮かび、波来はそれが月明かりだとわかった。
うずたかく積まれたマットの上に乗り、癒やし効果がありそうなその月の光を眺めた。
波来はため息を吐いた。自分の境遇に向けてため息を吐いているようである。
「僕はどうなるんだろう……」
少なくとも今夜は出られそうにない。絶望を感じ、気のせいか肩が重くなる。
二度目のため息を吐いたとき、カチャという音を扉のほうから耳にした。
「助けに来たよ」
扉越しにくぐもっていて、誰の声か判断のつかない女子の声。ここから出られると思い顔を希望に満ちさせ、波来は扉のほうへと駆け寄った。
スライドして開かれた扉の隙間から、風希の顔が見えた。
憎たらしいと悟ったばかりなのに、月明かりのせいか、ことのほか白く美しく見えた。
長い髪が夜の薄い帳のように、さらさらと音を立てながら揺れる。それが波来の心を穏やかにする。
白い歯を見せる笑みは、慈悲と切なさが波来の胸に触れたかのように思えた。
だが波来は必死に身構えて彼女の瞳を凝視する。風希が来たということは、また何か嫌がらせをしでかすに決まっている。騙されてたまるか。ただ、凝視した瞳も麦穂のように細い睫毛をしていて、それが波来をうっかり安心させかける。
「今度はどんな嫌がらせ?」
「助けに来たよ」
復唱する風希には、柔らかい違和感しか感じない。この感覚はいったいなんなのだろうか。まさに風希の第一印象、最初に感じた風希の優美さに触れていた。
扉が広めに開かれ、手を引かれ、波来は外へ出る。
「いまさら、何?」
「ごめんなさい、本当の私がこんなことをしてしまって……」
この変わりようはいったいなんだろう。波来は心情を隠すまでもなく当惑を露わにする。
「酷いよ」
「重ねてごめんなさい。でもいまは急いでるの。早くここから出て」
ここに閉じ込めることが風希の不都合になる事態にでもなったのだろうか。波来には関係ないが。
「で、もう何もしないよね?」
「私は何も危害を加えない、けど……」
他に言い分があるのかと訝しげに見た、そのとき。
「あなたたち、倉庫の鍵どうしたの!」
澄み切った涼しげな夜の空気に、遠くから風希の怒号が聞こえてきた。
倉庫から外に出た波来は優しい笑顔の風希と相対する。
風希はここにいる。どうして風希の声が向こうのほうから聞こえてくるのだろう。
「え? だって、姉(あね)さんが鍵を貸してくれって言うから」
「何よ、それ! 私の偽物でも現れたの? とっ捕まえてシバいてやりなさい!」
偽物? と言いながら波来は風希を見る。顔から身体まで隅々まで観察眼を巡らせるが、この子はどう見ても風希だ。ただ本当に優しそうなオーラだけは比較にならないほど溢れている。
「ど、どこにいるのか。わかりません」
「馬鹿なの? 鍵を取ったんだから、倉庫に行ったに決まってるでしょ!」
いますぐにここを退散すべきだと考え、波来はこのもう一人の風希とともに、グラウンドから駆け足で去った。
息堰を切らせた後で、風希に問いかける。
「君はいったい誰なの?」
「伊原木風希」
グラウンドからはずれ、登下校の坂道に二人は留まる。風希の姿は柔らかい月光に麗しく煌めいていた。
「嘘だよ、君は偽物だ」
「そうかもね。本物の風希がいるからね。でも私は偽物なんて呼ばれたくないわ」
倉庫の方がガヤガヤとうるさい。風希がヒステリックに金切り声をあげ、不良仲間に当たり散らしているのが想像できる。
だが風希はここにいる。この状況、漫画を読んでいる波来からすれば、ああなるほどそういうことかとすぐに合点がついた。
「君は風希じゃない。たぶん君は双子で、風希の双子の姉妹でしょ?」
「違う」
即座に否定された。生き写しの人間がいるとすれば、双子がいるというシチュエーション以外に考えられなかった。それ以外の納得の仕方などできない。固着した波来の頭では、うまく説明がしにくい。
「たぶん信じてもらえないかもしれない。波来くんはオカルトに興味ないって私はわかってるから」
「幽霊とか宇宙人とかの話を持ち出したりするの?」
波来は超常現象を一度として信じたことはない。そのことをお見通しか、風希は悲しそうな笑みを浮かべる。その顔を見せられると、さすがに痛切で胸が苦しい。
彼は簡単に信じようとはしない。けれど、絡めた両手を痩せた胸に当てて風希はまっすぐに波来の瞳を見据えた。
「私は風希のドッペルゲンガーなの」
真昼に火照らせた空気を、夜風がふうっと冷やしてくれる。
「ドッペルゲンガー、って」
身の回りに現れる自分の分身・ドッペルゲンガー。他人によって目撃される、もしくは自分自身がドッペルゲンガーと出会うこともある。一説によると、自分のドッペルゲンガーに出会ったら、三日以内に死ぬという話も聞く。
波来はその言葉を知っていた。けれど簡単には信じられない。
「証拠は?」
「いま私がここにいるのが証拠だよ」
「信じられないよ」
波来はこのドッペルゲンガーを自称する風希が嘘を吐いていると見た。
本当は風希と双子姉妹の関係で、こうやって波来の正面にいるのではないか。
その狙いが何なのかはいまのところ見当もつかない。けれど双子ならば説明が容易につく。だから、波来は頑なに双子説を考えた。
「信じなくてもいいよ」
「うん、事実信じられない」
だけど疑問がひとつ残る。
「風希……いや、風希のドッペルゲンガーさん」
「風希でいいよ」
「そっか。ええと風希、どうして僕を助けようと思ったの?」
「あなたとお付き合いしたいと思ったから」
「ええっ!」
波来は裏声を大きな声で発してしまう。
グラウンドのほうから、「いまの叫び声、誰?」と風希の声が聞こえてきた。
危ういことをしてしまった。波来はここにいる風希の手を取り、急ぎ足で坂道を下った。
繁華の絶えない商店街へと移動する。周りの熱気と、走った後で声ががらがらで、喉がやられそうだった。
都市郊外に似つかわしい、街の全景を望めるただひとつの六階建てビルが、小柄な二人を見下ろしている。
風希が再び彼に話しかけてくる。
「やっぱり信じてもらえないよね」
「うん。それにだよ、どうして君は僕とお付き合いしようと思ったの?」
「本物の私に交際を申し込んだから」
一週間前に告白をしたことをこの風希は知っているんだ。
「だけど、君は偽物だ」
たとえ双子だろうがドッペルゲンガーだろうが、目の前にいるのは自分が告白した風希ではない。確かにいまは本物の風希のことが嫌いだ。まして、このドッペルゲンガーを称する風希にいたっては、好き嫌いの関心の中ではまったく関係性がない。
「その言い方嫌いだよ、本物はいるけど、偽物って呼ばれるのが悔しいよ。波来くんはそういう人間なの? 本当の私以上に酷いよ」
瞳を潤ませる彼女に、周囲の人間がちらちら余所見してくるのが、波来は耐えられなかった。
「わかった、わかったよ」
「波来くん?」
そう言いながら手を引っ張って、人の少ない商店街のはずれまで歩く。
「君がドッペルゲンガーだということはまだ信じられない。けれど、君は僕に危害を加えるような風希じゃないってわかった」
「……じゃあ?」
彼女の笑顔が明るくなる。
「とりあえずお友達から、そこからのスタートでいい?」
ふわっと笑顔の花を開かせ、風希は「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。
こうして波来は風希のドッペルゲンガーと交流をすることになった。
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