第七節 叡智とは進化を導く光である

 神の光が落ちたことで全てが有耶無耶になった後。

 結局、修行者スーフィーたちの奮闘もあり、この事件は一人の死者もなく、街の何箇所かの建物が崩れただけで終息した。


 ただ、その影にジンの活躍があったことを知るものは少ない。

 そして事件が終わり、街が平穏を取り戻した頃……ジンはこの事件における最大の危機を迎えていた。


「……ずるい」

「いや、ずるいといわれてもな!」

 真昼の天球図コズモグラフィアの一角で、女王シェヘラザードは盛大に拗ねていた。

 そして王宮の奥でも滅多と見せることの無いこの姿を前にしては、ジンもただうろたえることしか出来ない。


 今日は事件解決の打ち上げとして、関係者を集めて昼間からささやかな宴を開いていたのだが、そこで事件の顛末を皆が語り始めたとたんにシェヘラザードの機嫌が急速に悪くなり始めたのである。


「お前が一人でそのような冒険をしていた間、私が何をしていたと思っている」

「いや、だからそれはお前の仕事だろうが! ミールザ、お前からもなんとか言ってやってくれ!」

 助けを求めて女王の近習に助けを求めるジンだが、この陽気な近習は楽しそうら笑うだけだった。


「いや、人間出来ない事は最初から諦めたほうが賢明と言うものでさぁね。

 なにより拗ねた女王が可愛いし、慌てる旦那も面白いから止める理由がありませんよ」

「だ、誰が可愛いか!」

 近習の言葉に、女王が反射的に顔を赤くして怒鳴りつける。

 だが、ミールザはちらりとジンのほうに視線をよこし、意味ありげな言葉を口にした。


「いや、ジンの旦那もちょっと素直じゃない可愛い女の子の、拗ねちゃってる顔は好きでしょう?

 今日の陛下ってば、たまらないぐらいに可愛いですよねぇ」

 その瞬間、シェヘラザードが少し顔を赤らめてジンの顔をチラ見する。

 当然、表むきは拗ねたフリをしたままだ。


「それは……まぁ、隙か嫌いかといわれれば好きではあるが……。 えぇい、おのれ、俺の味方はいないのか!!」

 わざとだとわかっていても、いや、そうだとわかっているからこそ可愛いと思わずにはいられない。

 なんとも的確に弱点をついたネチっこい攻め方に、とうとうジンが音を上げた。

 この様子だと、シェヘラザードはたぶん一日中拗ねたふりをするだろう。

 ――女王が飽きるまで俺の理性が持てばよいのだが。

 彼は据え膳を拒むことの出来る男ではあったが、それでも健全な肉欲は持ち合わせているのだった。


「しかし、いろいろと厄介な事件でしたねぇ。

 結局あの怪人に借りを作るようなことになってしまいましたし」

 ジンが窮地に陥っている横では、サイードが事件を振り返ってしみじみと呟く。


「まぁ、とりあえず無事に収束を見たのだから良いではないか。

 鉛糖の有毒性も証明できたし、この後はサルタン王国からネチネチと搾り取ってくれる」

 拳を握り締めてそう呟くシェヘラザードに、ジンはふと疑問をおぼえた。


「そういえば、鉛糖の有毒性ってどうやって証明したんだ?」

 結局この国の錬金術師では鉛糖の毒性について証明が出来ないということだったはずである。

 出来たとしても何ヶ月もかかるといわれたので、ジンはそちらの証明についてはすっかり諦めていたのだった。


「あぁ、それか。 ジンの知り合いの女がやってきて見事に証明してくれたわ。

 なんでも、孤児院の子供がこの毒の被害にあったらしくてな」

 そういわれて思い浮かぶのは一人だけだが、彼女は魔術師マギでもなければ拷問吏でも無いはずである。


「彼女の言うには、あの飲み物が毒であるならばサルタン王国の生き残りに自白させる方法があるので試させてほしいという。

 それで任せてみたのだがな……」

「どうやったんだ?」

 一般人にそんなことやらせるなよという突っ込みを封印しつつたずねると、その瞬間、シェヘラザードの顔にうんざりとした表情が浮かぶ。


「この度は恐ろしい災厄に見舞われて大変でしたね。

 あなたのためにお見舞いとして差し入れを持ってきたのですよ……と言って、あの女は例の飲み物を取り出して、自分の口に含んだのだ。

 そして止める暇も無く、口移しでサルタンの間者に飲ませたのだよ。

 大丈夫ですよ。 だって、これは毒じゃないんでしょう?

 貴方をほんの少しでも憎んでしまった私の償いとして、全て口移しで飲ませて差し上げます。

 さぁ、私の愛を受け取ってください……と、相手をいたわっているようにしか思えない声と行動で毒の接吻じゃ。

 まるで死の天使を見ているようで、それはそれは恐ろしい光景だったぞ」

 おかげでサルタン王国の間者は何かスイッチが入ったかのようにペラペラとしゃべりだしたらしい。

 その光景を思い浮かべてしまったのだろう……周囲の人間が何人か身震いをする。


 そのときであった。

「そういえば、あの大量の酢はどうしたンです?」

「で、出たな怪人!!」

 不意に横から響いた声に、一番近くにいたミールザが飛び上がる。

 もしかしたら何の前触れも無く急に現れるのがこの黒衣の怪人の趣味では無いのかと、ジンはひそかに思い始めていた。


「失礼ですネ。 今回は私も大活躍だったでしょ。

 今日はちゃんとジンさんから正式にお招きされているンですよ」

 そう告げると、アイディンはちゃっかりカウンターの席に座り込み、コンコンとテーブルを指で叩いて飲み物を要求する。

 ジンがりんごの果汁を絞って氷を浮かべ、そこにストローを挿して差し出すと、この怪人は子供のように無邪気に喜びながら喉を潤した。


 実はこの怪人、ジンの頼みで鉛毒を取り除く特効剤……キレート点滴の技術をたった数日で作り上げていたのである。

 その技術はジンと女王シェヘラザードを通じて医者に与えられ、今も多くの患者を救い続けていた。

 幸い事件の発覚が早かったせいか、後遺症を訴える者の報告は無い。

 その際に、なぜジンがこのような自分も知らない薬物の理論を知っているのかとアイディンにしつこく問いただされてほとほと困り果てたのだが、それはジンの自業自得と言うものだろう。


「ジン、酢とは何のことだ? まだその報告は上がっておらんぞ」

「あぁ、実は爆発した工房の地下から、大量の酢が発見されてな」

 首をかしげるシェヘラザードに、ジンは少し遠い目をして語り始めた。

 サルタン王国の人間も、さすがに禁食であるワインを持ち込むのはまずいと思ったらしく、その全てを酢にした上でこの国に運んでいたのである。

 そして、そのまま忌まわしいものとして廃棄されそうになった大量の酢を、日本人特有のもったいない精神を発揮したジンが引き取ったのだ。


「ジンさんのことですから、どうせ料理に使うのでしょう?

 実はそれがずっと楽しみで仕方がなかったのです」

 横で話しを聞いていたアイディンが、仮面の奥でグフグフと笑う。


「まぁ、その通りなんだがな。

 そろそろ出来上がる頃だからちょっと待ってろ……おーい、そっちの様子はどうだ?」

 苦笑いを噛みしめつつ、ジンは厨房の奥へと声をかけた。


「はい、師匠!」

「ちょうどいい具合に仕上がってます!!」

 すると弟子である双子の兄弟が返事を返し、大きな鍋に入った煮込み料理を持ってくる。

 それはさっぱりした香りのする肉料理だった。


「これは何という料理じゃ?」

「はるかな昔、ペルシア帝国と言う国の王であったホスロー1世が好んだ料理で、牛肉の甘酢煮込みシクバージという料理だ。

 牛肉を酢で煮込んだ後、酢を取り替えながらほかの肉やハーブ、スパイスを段階的に入れつつ煮込む手のかかった料理だよ」

 そしてシェヘラザードの疑問に答えながら、ジンは別の料理の仕込みをしていた。

 ボウルに小麦粉と卵を入れ、貴重な氷水を加えて箸でかき混ぜるというその見たことも無い調理方法に、先ほどからアイディンとシェヘラザートの目は釘づけである。

 さらに高価な植物の油を鍋に入れ、グツグツと煮込んでいるのだが、いったいどんな料理を作ろうというのだろうか。


 そしてその隣で双子の兄弟が皿に盛った牛肉の甘酢煮込みシクバージをカウンターのテーブルに出すと、いつものように、真っ先にミールザが手を出した。

「うーん、こいつはたまらんねぇ。

 ご禁制とはいえ、思わず酒が欲しくなる」

「不謹慎だぞ、ミールザ」

「そうですよ。 アルコールは脳に良くないのです! 恥を知りなさい」

 同僚のシャヒーンのみならず、アイディンからまでもダメ出しをくらい、ミールザは思わずウヘェと舌を出して苦笑する。


 だが、それはとても幸せな光景だった。

 同じ酢を使いながらも、毒を作り出すものとこのような美食を生み出す者がいる。

 どちらがより勝るものであるかは、わざわざ語るまでも無いだろう。


「まぁ、酒など無くともこの料理は美味い。 それだけは真実でしょう」

 見かねたサイードがそう締め括ると、同時にジンの料理も完成したようだ。

 フツフツと煮えたぎる油鍋から料理を取り出し、ジュウジュウと音を立てるそれを手早く皿に盛り付け、大皿に盛ってドンとテーブルに置く。


「そして、その牛肉の甘酢煮込みシクバージが、海と時代を超えて進化した料理が……これだ。 俺の故郷の料理で、天麩羅と言う」

 なんと、彼の出してきた料理は、和食の定番である天麩羅であった。

 まず、最初に出してきたのは野菜の天麩羅。

 茄子、蓮根、南瓜、大葉などと、色も形も違うおもちゃ箱のような盛り合わせに、周囲のものからオオッと小さな歓声が上がる。


「進化ですと!? この二つの料理が元は同じ料理だったというのですか!」

「あぁ。 国を超える過程で酢は熱した油となり、小麦粉の衣を纏うようになって、やがて海を渡る際に食材が牛肉から魚に変わった。

 そして俺の国に入った後は様々な食材が使われるようになり、このような完成形になったと伝えられている」

 ジンは揚げたばかりのあじの天麩羅に塩の瓶をそえ、この国の住人の舌に合わせて櫛切りにしたレモンを盛り付けた皿と共にカウンターに置く。

 それを合図に、いくつもの手が天麩羅の山に殺到した。

 しばしの間はおしゃべりも無く、ただ天麩羅を食べる音がシャリシャリボリボリと響き渡る。


「なるほど、歴史と進化の味ですか。 そう聞くといっそう味わい深いですね」

 そしてほとんどの者が満足した頃になり、サイードが蓮根の天麩羅を口にしつつしみじみと呟く。

 その言葉に頷いたのが、アイディンである。


「人とは、甘味を求めて鉛毒のような失敗作を生み出すと同時に、この料理のようなすばらしいものをも生み出す叡智をもった生き物なのですね。

 この食べ物からは、確かに叡智の味がします」

「おぉ、いいフレーズだなぁ。

 さてと、いつまで拗ねているんだ女王」

 といいながら、ジンはカウンターの一角に目を向けた。

 そう、この料理をまだ口にしていない人物がいたのである。


「お、お前が反省を見せるまでだ!」

 先ほどのミールザの台詞をまだ引きずっているのであろう。

 ジンの気を引きたい女王は、皆が美味そうに牛肉の甘酢煮込みシクバージと天麩羅に舌鼓をうつ中、一人でずっと拗ねたフリを続けていたのだ。

 その女王らしからぬ蒙昧な行動に、周囲から生暖かい笑みとミールザを責める視線が飛ぶ。


「なるほど……では、俺も叡智と進化にあやかりますか」

「な、何をする気だ!?」

 するとジンは揚がったばかりの天麩羅に軽く塩をかけ、箸でつまんでシェへラザードに突きつけた。


「シェヘラザード、ほら、口をあけろ。 アーンだ」

「だ、誰がそのようなことを!?」

 顔を真っ赤にしたままシェヘラザードがいやいやと首を振る。

 だが、嬉しがっているのは誰の目から見ても明らかだった。


「……嫌か?」

 ジンが悲しげな表情を作ると、女王がウッと詰まった表情に変わる。

 あぁ、これは落ちたなと、周囲の者は安心した表情になり、再び料理へと向き直った。


「お、お前がどうしてもと言うのなら食ってやろう!」

「はいはい、偉大なる女王様。 どうかこの俺の作った料理を食べてくれないか?

 これ、冷えると味が落ちるんだよな」

 その言葉がとどめとなったらしい。

 女王がしかめっ面を作りながら、その小さな桜色の唇を開く。


「む、むむっ、し、仕方あるまい。 ほら、アーンじゃ。 はやくせよ!」

「ほい、ありがたき幸せ」

「……むっ、熱っ!? むむむ、美味である! はよう次をよこせ!」

「はいはい。 では、お次は海老天など……あーん」

 周囲の人間が胸焼けを覚えたのは、おそらく脂っこい天麩羅のせいばかりではあるまい。


「すばらしい。 愛と叡智の勝利だ。

 敗北を認めるからどっかよそでやってくれ!!」

 女王にろくでもないことを吹き込んだ犯人であるミールザが、降参とばかりに両手を上げる。


 はたして悪辣を極めたサルタン王国の陰謀ではあったが、結局はこのような甘い光景を生み出したのみで潰えることと相成った。

 されば、これを叡智による奸智への勝利といわずして何と言おうか?

 まこと、愛と叡智とは常に闇を払う神の光である。

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