第四節 狂った天秤と歪んだ天使
「えー やだ、そんな風に見えましたか?」
男物の服を着て、荷物の入った大きな包みを背負っていたから……てっきり商人かと思ったのだが、どうやら彼女は商売人ですらなかったらしい。
商売人でなければ何なのだろうと思ったが、特に興味もなかったので俺は特にそれ以上の詮索することもしなかった。
「面白い話ですか? うーん、特にないですね。
でも、暇つぶし程度の話でいいならありますよ?」
そう前置きをした彼女だが、それは杞憂だった。
「誰だって、子供の頃の憧れってあるじゃないですか」
彼女は一つ咳払いをすると、俺たちの予想をさらに裏切るような物語を語りだした。
そう。
この――おぞましくも純粋な話を。
強い兵士や、物語のお姫様。
みんな、憧れるものは色々です。
そして、私の憧れは、天使だったんですよね。
優しくて正しくて誰からも愛される、そんな存在になりたかったんです。
それで昔、母親に天使になりたいといったんですよ。
そうしたら、そんな私に母はこう言ったんです。
「だったら、すべての人を平等に愛せるようにならないとね」って。
だから私は、その言葉の通りにすべての人を平等に愛するように努力してきたんですよ。
誰も嫌っちゃダメ。
いつも笑顔で。
誰かと誰かをくらべるのは良くないこと。
これを守っていれば、いつか必ず天使になれる。
そして、私に天使になる方法を教えてくれた母は、私が十二歳のときに……父とは違う男の人を好きになったからと言って、家からいなくなってしまいました。
その時、私は思ったんですよ。
なぜ家から出てゆかなくてはならないの?
父さんもその男の人も同じように愛してあげればいいのに。
どうして父さんをのけ者にするんだろう……それは、平等じゃないって。
だから、神様の意志にそぐわない母がこれ以上道を外れないように、私は神様のところに送ってあげたんです。
そうしたら、父もよくやったと褒めてくださいました。
そんな事があってから数年。
やがて私にも縁談が来て、特に問題もなく私は人妻になりました。
夫に関しては、特に嫌いじゃなかったですよ?
だって、私はみんなを平等に愛してますから。
嫌いな人なんてこの世にはいないんです。
でも、私のことを愛してくれたのは夫だけではありませんでした。
大勢の男性が私の事を好きでよ、愛しているよと言ってくれたので、私は彼らすべてを受け入れたのです。
すべて、平等にね。
そして、多くの人から愛されるようになった私ですが、夫はそれがすごく嫌だったみたいです。
そして私のことをふしだらな女だと言って、私のことを好きになった男の人を脅したり殴ったりするようになりました。
そしてある日、夫はこう言ったんです。
この、メス犬め! 夫である俺を差し置いて、お前は誰を一番に愛しているというのだ!?
だから私はこう言ったんです。
一番なんていないわ。 だって、みんな愛しているんですもの……と。
貴方も私の大切な人なのに、どうしてそんなひどいことを言うの?
神様も天使様もこの世の人をすべて平等に愛しているのに、同じように私がみんなを愛している事を、なぜいけないことだと言うの?
かわいそうに。 神のお示しになった道を見失っているのですね?
これ以上迷わないよう、私が神の御許に送って差し上げましょうか?
……そう言うと、夫は何か恐ろしいものを見る目をしてその場から逃げ出しました。
あら、お兄さんたちも夫と同じ目をするんですね。
ダメですよ? ちゃんとすべてを許す天使のような愛を持って生きないと。
結局、夫とはそのまま別れることになりました。
でも、寂しくはなかったですよ?
たしかに悲しいことではあったけど、私には私を愛してくれる人がたくさんいましたから。
そんな時でした。
私は、
みんなは、ジンさんって呼んでましたね。
目つきが力強く、とても格好いい人で、私もすぐに彼のことが好きになりました。
でも、彼はどうしても私を好きになってはくれなかったんですよね。
それで何かがおかしいなって思って、もしかして同性愛の人ですか? それは神の教えに背きますよ……と言ったところ、彼は盛大に噴出して、それは違うと言ったんです。
なんでも、彼には気になっている女性がいるからほかの人とはお付き合いできないって言うんですよ。
それは駄目です。
私もその女性も、この世のすべての人を同じように愛さなくてはならないのです。
そう言ったら、彼は眉間に皺を寄せて言ったんです。
「俺の故郷では、妻や恋人は一人しか持ってはいけない決まりなんだ。
だから、君のことを女性として好きになるのは、俺に思いを寄せる人への不誠実になる」
「でも、それは神の教えに反してますよ?
私がたくさんの人を同時に好きになるように、貴方も妻以外の人を愛してよいのです」
そう言って、私は彼の手を握り、まずは私のことを好きになってくれるようお願いしたのです。
でも、私を見る彼の目は、どんどん冷たいものになって行きました。
もしかして、彼は神の意思に背く
そう思った瞬間でした。
急に眩暈と頭痛を感じた私は、彼の腕の中へと倒れこんでしまったのです。
ですが、同時に彼のまとう男の臭いがどうしようもなく気持ち悪いと感じました。
すると彼は、私の体をその力強い腕で抱きかかえ、いきなり外へと飛び出したのです。
「熱がある。それに、気分も悪そうだな」
そう言って彼が私を連れ込んだのは、宿ではなくて医者のところでした。
しかも、わざわざ距離の離れた女性の医者のところへです。
そして……医者から告げられ、私が妊娠していることを始めて知りました。
父親が誰かはわかりません。
だから、私を愛してくれた人の中で一番地位も名誉もある人に相談しました。
私のおなかの子の父親になってくれないかと。
けど、帰ってきたのは怒りと罵声でした。
そして……彼は子供を
私はお腹の子を守るためにすぐに逃げようとしました。
けれど、その人は私を捕まえ、こう言ったのです。
「私には嫉妬深い正妻がいてね。 しかも私は入り婿なんだ。
私の子の可能性がある限り、その子を産んでもらっては困るんだよ」
そして私の子は無理やり奪われ、しかも私は二度と子供を埋めない体になりました。
そんな私に、私の子を奪った彼は笑いながらこう告げたのです。
「おめでとう。 君は自分の望みどおり天使になったんだよ。
だから、もう人の子に課せられた子を産む義務からも解放されたんだ」
彼は私を屋敷の奥に監禁し、自分の喜びのためだけに私の体を求めました。
いくら肉欲を貪ろうとも決して妊娠しない君は、まさに私の救い。
君は天使だよ……そう告げる彼の顔は、まるで悪魔のようでした。
今の私が天使?
違う。 私の目指したものはこれじゃない。
神様、私はいったいどこで間違ってしまったのでしょうか?
幸いなことに、彼からの苦痛のような愛を受け続ける日々は長くありませんでした。
ある日、いつぞやの
そして、もう私は自由だと。
でも、その時私はこう思ったのです。
――なんと嫉ましい。
強い目と慈悲深い微笑み……私を救いにきた彼は、まさに物語に現われる天使のようでしたから。
「私は、どうして天使になれないのでしょうか?」
気がつくと、いつの間にか口が動いてそんな質問をしていました。
すると、彼はとても怖い顔でこう答えたのです。
「そんなもの知るか。 天使にあこがれる前に人として正しいことが何かを考えろ。
お前は、神が人として生まれることを望まれたから人なのだ。
天使になろうと考えるなど、それこそ神の御心から離れる行為ではないのか?
夫婦としての愛情と、友情や博愛は、本来別々にあるべきものだ。
お前の心は、その混ぜてはいけない代物を隔てる大事な境界線がなくなっている。
そもそも、人は天使のように愛のみに生きることの出来る存在じゃないんだ。
お前は天使じゃない……人だ。
もう一度言うが、神はお前が人として産まれ、人として生きることを望まれたのだ」
残念なことに、彼の言葉の意味は今でもよく分かりません。
けど、その声には確かに優しい何かがありました。
そして屋敷の地下室から出た私は、彼によって食卓に招かれたのです。
監禁生活で肌からも髪からも艶が失われた私に、彼は肉の入ったスープを出してきました。
「
まずはこれでも食って体を温めろ。 人間、腹が減ったままじゃロクな事を考えない」
その時食べたスープは、とてもとても美味しい代物でした。
鴨肉の強い癖は食欲を刺激する香りとなり、汁にしみこんだ
それはまるで、傷ついた私を慰める彼の言葉。 天使の抱擁のような味。
気がつくと、私は泣いていました。
彼の優しさが嬉しくて。
そして天使でも人でもなくなってしまった……馬でもなく、ロバでもなく、子供を産む事の出来ない
そんな私に、彼は言いました。
「近い将来に……貧民外に孤児院を作る予定があるんだ。
今のお前に直接子供の世話をさせるわけにはゆかないが、お前、そこの手伝いをしてみないか?」
今でも私は思うのです。
人は生まれてきたときは天使のようであるというのに、大人になった私はどうして天使には戻れないのでしょうか?
「だから私は、孤児院で天使のような子供たちを受け入れ、天使が人へと変わって行く姿を見つめながら自分に欠けていた物が何だったのかを学ぼうと思うのです」
彼女が物語を語り終えた後、俺たちはしばし何も言えなかった。
しばらくして彼女はふと何かに気づいたように顔を上げ、そして俺たちに向かって優雅に別れの挨拶を告げる。
「では、私はジン様にもらった食べ物を貧民外の子供に配らなければならないのでそろそろ失礼しますね」
夕日を浴びながら去って行く彼女の後ろ姿は、風になびくマントが翼のように広がり、まるで地上を天使が歩いているかのように見えた。
「なんとも……ゆがんだ女だったな」
「うむ、これほどの狂気、久方ぶりに見たぞ」
俺が寒気を覚えつつそう呟くと、弟に取り付いた
「さて、
おそらくこれで約束はすべて果たされたに違いない。
俺は
「あぁ、満足した。 人の世界というものは恐ろしく面倒で理不尽で、そして興味深いものだな。
だが、いまひとつ足りないと思うことがある」
半ば放心しているような表情で、
「……何が足りない?」
そう問いかけると、
「今の話すべてに登場する、
まるでこの世の人とも思えず、とても気になってしまっているのだ。
かなうなら、私はその人物を一度この目で見てみたい」
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