第一節 誠実な近習と傷ついた鬼神

 その物語は、女王シェヘラザードの近習の一人――ミールザ・キヤーバスティニーの絶叫から始まる。


「なにぃ!? 鬼神イフリートに憑り付かれただと?」

「しーっ、声が大きいよ兄貴」

 それは俺が今日の勤務を終えて寮に帰る途中の出来事だった。

 不意に呼び止める声があったかと思うと、実家にいるはずの弟が困った顔で立ちすくんでいるではないか。

 そして挨拶も早々に、鬼神イフリートに憑り付かれたなどと言い出したのだ。

 これで大声を上げるなというほうが無理というものだろう。


「大丈夫なのかよお前! いきなり意識を乗っ取られて暴れたりしないのか?」

 すると突然弟の眼球がグルリと裏返り、白目をむいたまま低い声でがなりたてた。


「そんな下品なまねをするか愚か者めが! いいか、私を怒らせるなよ。 貴様の弟をくびり殺すなど簡単なことなのだからな」

「うひぃ、本物だ……」

 なんたること!

 鬼神イフリートとは神によって天使の次に作られたという存在の一つで、神にそむいて人を惑わせることを誓った精霊ジンのことである。


 そんなものに憑り付かれたと言う事は、神への信仰が足りないという証拠にほかならない。

 なお、俺が近習を勤めることができるだけあって、我が家はそれなりの名家だ。

 鬼神イフリートに憑り付かれたなど、とても表には出来ないだろう。

 ややもすると、体裁を保つために弟を家から追放してしまうかもしれない。


 ……こうなったら、なんとかして人知れず弟から鬼神イフリートを除かなくてはならないのだが、信仰心に乏しい俺が聖典をそらんじたところで鬼神イフリートが退散するとは思えなかった。

 あぁ、どうしよう。


 ……というより、弟よ。

 なぜ普段からちゃんと礼拝をしなかった!?


 いや、いまさらそんな事を言っても始まらない。

 聞くところによれば、鬼神イフリートの中にも人を助ける者がいるし、話がわかる連中も少なくは無いと言う。

 先ほどの言動からすると、少なくともすぐに暴れて被害をもたらす感じではない。

 

「なぁ、そこの鬼神イフリート。 なんで俺の弟に憑り付いたんだ?

 あんたは特に理由もなくそんな事をする奴には思えないし、何か俺の弟が悪いことをしたのなら、謝ろう。

 だから、まずはその理由を聞かせてくれないか?」

「貴様は弟と違って出来た男のようだな。

 では聞くが良い。 この男の無礼な振る舞いを!」 

 ミールザが腰の低い感じで問いかけると、鬼神イフリートは憮然とした口調で語り始めた。


「この男、昨日の夜に女と待ち合わせをし、その際に見事二股を掛けられていたことが発覚してな。

 しかも本命は別の男だったらしいのだ」

「うわぁ、なんて悲惨な」

 弟よ、それは惨め過ぎるだろう?


「まぁ、ここまでなら同情する余地もある。

 だが、こやつは恋人に振られた腹いせに、女に貢はずだった銀の指輪を我が家である泉に投げつけたのだ!」

 そう告げると、鬼神イフリートは弟の前髪をかき上げてその額を見せ付ける。

 そこには火傷のような痕がついていた。

 おそらく同じ場所に銀の指輪の一撃を受けたのだろう。


 いかな鬼神イフリートとて、魔除けである銀をぶつけられれば傷つきもするし、腹が立つのも当然だ。

 弟の体から出て行ってもらうのも大事だが、それよりも先に謝罪を済ませるのが道理というものだろう。


「なんという酷いことを……申し訳ない。

 償いをさせてもらいたいのだが、何か望みはあるだろうか?」

「うむ、償いといわれてもな」

 そう告げると、鬼神イフリートは少し困った顔をした。


「幸い我が家は裕福だ。 それなりの金子きんすを送らせてもらうというのはどうだろうか?」

「申し出は嬉しいが、あいにくと財産には困っていない。 お前たちの持つ牛や馬も私には不要だ」

 たしかに鬼神イフリートならばいくらでも財産を集められるだろうし、人の持つ牛や馬などほとんど意味を持たないだろう。


「それは困る。 そちらに納得のゆく償いが出来なければ俺の気がすまない。

 何か欲しいものは無いだろうか?」

 すると鬼神イフリートはしばらく悩んだ末にこう告げた。


「では……物語りを所望する。

 私のように長く生きていると、この世に在ること自体が退屈でしょうがないのだ。

 ただし、三度自分を楽しませるまでは償いが終わったとは認めない。

 これでどうだ?」

「なんと……! 自分に吟遊詩人の真似をしろというのか?

 だが、それが望みならば致し方あるまい」

 俺は無い知恵を振り絞ってみたものの、イフリートを納得させるほど面白い話はついぞ頭に浮かばなかった。

 さて、困ったぞ。


「すぐに話を聞かせろとは言わない。 考え付いたら呼ぶがいい。

 それまで私はお前の弟の体で休ませてもらおう」

 その時である。

 俺はすぐ近くに一人の女官が近づいてきたことに気がついた。


「いや、待て。 話を聞かせるのは何も俺じゃなくても構わないか?」

「かまわん。 この退屈が癒せるなら、大歓迎だ」

 鬼神イフリートの約定を取り付けると、俺はさっそく近くまできた女官に声をかける。


 たしか彼女は最近になって獅子のアサド精霊・ジンのいる離宮に入った女性だったはずだ。

 あの珍妙で愉快な御仁のそばにいる彼女なら、何か面白い話を知っているに違いない。


「なぁ、お嬢さん。 ちょいと時間はあるかい?」

「はぁ、今はジン様から教えていただいたカルカトールというお菓子が焼きあがったので、女官の方々のところへおすそ分けに行くところなのです。

 彼女たちがしびれを切らせない程度の時間でよろしければ」

「実は少し退屈をしていてね。 何か面白い話を知らないだろうか?」

「面白い話ですか」

 すると彼女は、貴方たちにもおすそ分けですと言って、そのふんわりとした甘い菓子を切り分けてから、俺の期待以上に奇特な話を語りだしたのである。

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