第一節 誠実な近習と傷ついた鬼神
その物語は、女王シェヘラザードの近習の一人――ミールザ・キヤーバスティニーの絶叫から始まる。
「なにぃ!?
「しーっ、声が大きいよ兄貴」
それは俺が今日の勤務を終えて寮に帰る途中の出来事だった。
不意に呼び止める声があったかと思うと、実家にいるはずの弟が困った顔で立ちすくんでいるではないか。
そして挨拶も早々に、
これで大声を上げるなというほうが無理というものだろう。
「大丈夫なのかよお前! いきなり意識を乗っ取られて暴れたりしないのか?」
すると突然弟の眼球がグルリと裏返り、白目をむいたまま低い声でがなりたてた。
「そんな下品なまねをするか愚か者めが! いいか、私を怒らせるなよ。 貴様の弟を
「うひぃ、本物だ……」
なんたること!
そんなものに憑り付かれたと言う事は、神への信仰が足りないという証拠にほかならない。
なお、俺が近習を勤めることができるだけあって、我が家はそれなりの名家だ。
ややもすると、体裁を保つために弟を家から追放してしまうかもしれない。
……こうなったら、なんとかして人知れず弟から
あぁ、どうしよう。
……というより、弟よ。
なぜ普段からちゃんと礼拝をしなかった!?
いや、いまさらそんな事を言っても始まらない。
聞くところによれば、
先ほどの言動からすると、少なくともすぐに暴れて被害をもたらす感じではない。
「なぁ、そこの
あんたは特に理由もなくそんな事をする奴には思えないし、何か俺の弟が悪いことをしたのなら、謝ろう。
だから、まずはその理由を聞かせてくれないか?」
「貴様は弟と違って出来た男のようだな。
では聞くが良い。 この男の無礼な振る舞いを!」
ミールザが腰の低い感じで問いかけると、
「この男、昨日の夜に女と待ち合わせをし、その際に見事二股を掛けられていたことが発覚してな。
しかも本命は別の男だったらしいのだ」
「うわぁ、なんて悲惨な」
弟よ、それは惨め過ぎるだろう?
「まぁ、ここまでなら同情する余地もある。
だが、こやつは恋人に振られた腹いせに、女に貢はずだった銀の指輪を我が家である泉に投げつけたのだ!」
そう告げると、
そこには火傷のような痕がついていた。
おそらく同じ場所に銀の指輪の一撃を受けたのだろう。
いかな
弟の体から出て行ってもらうのも大事だが、それよりも先に謝罪を済ませるのが道理というものだろう。
「なんという酷いことを……申し訳ない。
償いをさせてもらいたいのだが、何か望みはあるだろうか?」
「うむ、償いといわれてもな」
そう告げると、
「幸い我が家は裕福だ。 それなりの
「申し出は嬉しいが、あいにくと財産には困っていない。 お前たちの持つ牛や馬も私には不要だ」
たしかに
「それは困る。 そちらに納得のゆく償いが出来なければ俺の気がすまない。
何か欲しいものは無いだろうか?」
すると
「では……物語りを所望する。
私のように長く生きていると、この世に在ること自体が退屈でしょうがないのだ。
ただし、三度自分を楽しませるまでは償いが終わったとは認めない。
これでどうだ?」
「なんと……! 自分に吟遊詩人の真似をしろというのか?
だが、それが望みならば致し方あるまい」
俺は無い知恵を振り絞ってみたものの、イフリートを納得させるほど面白い話はついぞ頭に浮かばなかった。
さて、困ったぞ。
「すぐに話を聞かせろとは言わない。 考え付いたら呼ぶがいい。
それまで私はお前の弟の体で休ませてもらおう」
その時である。
俺はすぐ近くに一人の女官が近づいてきたことに気がついた。
「いや、待て。 話を聞かせるのは何も俺じゃなくても構わないか?」
「かまわん。 この退屈が癒せるなら、大歓迎だ」
たしか彼女は最近になって
あの珍妙で愉快な御仁のそばにいる彼女なら、何か面白い話を知っているに違いない。
「なぁ、お嬢さん。 ちょいと時間はあるかい?」
「はぁ、今はジン様から教えていただいたカルカトールというお菓子が焼きあがったので、女官の方々のところへおすそ分けに行くところなのです。
彼女たちがしびれを切らせない程度の時間でよろしければ」
「実は少し退屈をしていてね。 何か面白い話を知らないだろうか?」
「面白い話ですか」
すると彼女は、貴方たちにもおすそ分けですと言って、そのふんわりとした甘い菓子を切り分けてから、俺の期待以上に奇特な話を語りだしたのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます