2 吼えたける祝福の話

第一節 与えよ、されば我は富で報いぬ

 広大なシャフリアールの王宮の敷地には、王族や寵姫が住むための離宮と呼ばれる場所がいくつも存在している。

 その一つに緑の宮カスル・アフダルと呼ばれる場所があった。

 緑は神の教えを示す色であり、ここは宗教的にも地位の高い立場を持つ王族が住まうべく、五代前の王が用意した場所である。


 その敷居の高さゆえに久しく使われていなかった緑の宮カスル・アフダルではあったが、先日シェヘラザード女王によってこの場所は一人の男に与えられた。

 彼の名は麻戸あさど じん

 この国の言葉だと獅子の精霊アサド・ジンという意味になる奇妙な名を持つ男であり、同時にその名にふさわしい偉丈夫であった。


 その背丈は大柄な戦士よりもさらに頭半分ほど高く、その鋭い眼光はまさに獅子。

 女王の出した難題を笑いながら解くだけの叡智を誇り、その武術の腕前は並み居る武官を素手で軽くひねるほど。

 ……とは、宮廷の女官達の噂する件の人物の評価だ。


 さて、そんな彼には悩みがあった。

 自らを満足する料理を作れという女王の難題をなんなく解決した彼ではあったが、その報酬である王配の地位を断ったため、更なる難題を押し付けられてしまったのである。


 夜毎に女王のために料理を作り続け、一度たりとも失望させる事は許さない。

 しかも、期間は女王が望む限りであり、いつ終わるとも分からない代物であった。


「女王の満足する料理か……何を作ればいいのやら」

 困り果てた男は、男らしい太めの眉をしかめてボソリと呟く。


 もしも究極の料理が何であるかと訊ねられたら、ジンは迷わず家庭料理と答えるであろう。

 その人のために、その味覚に合わせて微調整を続けられた料理にかなうものなどありはしない。

 いや、たとえ美味くないものであったとしても、その人の慣れ親しんだ味というのは特別なのだ。


 だが、男には王宮の料理どころかこの国の味というものがわからなかった。

 宮廷料理人にでも尋ねればある程度は教えてくれるのかもしれないが、彼らからはあまり快く思われていない節がある。

 それゆえ、出来れば頼りたくないというのが男の本音であった。


「仕方が無い。 外に出てどんなものを食っているかを調べてみるか」

 少なくともこんな所で頭を抱えていたところでいい考えが浮かぶはずもないだろう。

 男はそう結論付けると、一人でこっそり王宮を抜け出し、太陽の燦燦さんさんと照りつけるバザールを目指すのだった。


 シャフリアール王国は大陸の中央あたりに位置し、交易によって栄えた国である。

 さらには豊かな小麦の穀倉地帯でもあり、この世界に存在する国としても五指に入るほど豊かな国であった。


 その王都ともなれば人通りも多く、商人たちが店を並べるバザールともなればひどく騒がしい。

 宮殿の周辺こそ複雑な曲がり角が多いものの、バザールに近づくと馬車が4台同時に通れるほどのまっすぐな道が出始める。

 

 砂漠に近い地域特有の埃っぽい乾いた風の中。

 カンカンと金槌を振るう音を聞きながら金物を扱う区画を抜けて。

 色鮮やかな布地の広がる服飾売り場を潜り。

 水タバコを楽しむ男たちと気軽に挨拶を交わしながら。

 男はその嗅覚を頼りに飲食の屋台が並ぶ場所へとやってきた。

 だが、ここで一つの問題に行き当たる。


「しまった、金が無い」

 何度も商品名を連呼する、この国独特の呼び込みの声に誘われて、串焼きキャバブを買おうと思ったのだが、財布を持っていないことを失念していたのだ。


 そもそも、15歳の時からずっと船に軟禁されていたので、彼には財布を取り出して何かを買う習慣がない。

 ほしいものは、監視役の男に申告して持ってきてもらうという生活だったのだ。


 そうでなくとも、彼は無一文でこの世界に放り出された異世界人である。

 彼がこの世界の通貨を持っているはずも無かった。


 神からもらった厨房をあけて、塩や砂糖を取り出して売る……という手段も考えてはみたものの、その行為がこの世界の秩序を乱さないという保障は無い。

 そもそも、神の恩恵をそのようなことに使うのはどこか憚られる。

 つまり、打つ手無しという状態だ。


 せっかくここまで来たというのに何も出来ないとは……われながら情けない。

 そんな事を考えながら、ジンはじっと一軒の屋台を見つめていた。

 老いた夫婦が営む、ささやかな屋台である。


 彼の食い物にかける執念……もとい研ぎ澄まされた勘と嗅覚が、この屋台がこの辺で一番彼の舌にあいそうだと告げていた。

 しかし、金がない以上は諦めなくてはならない。

 けど、食への未練が募って足が動かないのだ。


 すると、しばらくすると屋台で働く夫婦のうち、旦那であろう男がおびえるような目をしつつジンのところにやってきた。


「あ、あの……」

「なんだ?」

「何か御用でしょうか。 先ほどから私の屋台をじっとご覧になっているようですが」

「あぁ、美味そうな料理だなとおもってな。

 ずっと気になっているのだが、あいにくと手持ちが無くて買うことが出来ない。

 迷惑だったようだな」

 見回せば、ジンの容姿と鋭い視線が恐ろしかったのか、この屋台の周囲から客の姿が綺麗さっぱりなくなっている。


 ――何という失態だ。

 自分の見た目が近寄りがたいのは知っているが、ここまで露骨に避けられるとやはり傷つくものがある。


 だが、ジンが深く反省をしていると、屋台の店主が小さな布袋を差し出してきた。

「あ、あの……これでなんとか?」

「なんだ、これは? 硬貨か?」

 袋の中身は、銅貨らしきものがいくつか入っていた。


「申し訳ありませんが、私どもの稼ぎではこれが精一杯で……」

 どうやら、悪質なタカリだと思われたようである。

 この金をやるからよそに行ってくれという意味だ。


「おいおい、そんなつもりはなかったのだ。

 ただ、お前さんの作る料理が美味しそうだったから、つい見とれてしまっただけだぞ」

「本当に?」

 よほど意外だったのだろう。

 屋台の店主は大きく目を見開いた。


「あぁ、本当だ。 だからそんなものはしまってくれ」

「は、ははは……なんだ、そんなことだったのか。

 じゃあ旦那さん、ちょっと待っててくれ」

 ジンが小袋を店主の男に返すと、店主はニコニコしながら売り物である串焼きを持ってきた。


「おい、金は無いぞ?」

「いや、そこまで手放しで褒めていただけたら私も嬉しいってものでして」

「だが、申し訳ないな。 迷惑だっただろうに…… とはいえ、ここで断るのも失礼だろう。

 遠慮なくいただくぞ」

 そしてジンは串焼きを大きな口で頬張り……


「美味い!!」

 その吼えるような声は、隣の通りまで響き渡った。


「おぉ、いい炭を使っているな! このさっくりとした歯ざわりは湿気の多い安物の燃料では絶対にできまい!

 火加減も絶妙だ!

 噛めばカリッとした軽い歯ごたえがして、その隙間からジュワっと美味い脂が染み出てくるのが実にたまらん!

 なんと味の濃厚な肉だ! おおお、これは食欲がわいてたまらんな!

 しかも、酸味のきいたソースをわざと薄めに絡めているのが、なんとも心憎い!

 カリッとした食感を殺さず見事に味と調和させている!!

 いや、見事! いい仕事だ、ご主人!!」 


 ジンにとってはただ正直に感想を述べただけだったのだろうが……。

 なにせ、彼の声は舞台役者のようによく通り、信じられないぐらい耳に残るのだ。

 遠巻きにこの様子を見ていた通行人にとっては、まさに呪い。

 食欲をそそる言霊の直撃を腹に受けて、少なくない人数がフラフラとこちらに引き寄せられ始めていた。


「旦那、よかったらこれも……」

 いち早く状況を察知した店主が、今度は別の串をサッと差し出す。


「むむっ! これも美味い!!

 うってかわって濃厚なソースが先ほどの一品の余韻をうまく取り込みつつ、新たな旨みを引き出している!!

 ともすれば喧嘩しそうな鶏肉の旨みと見事に手を組んでいるこの懐の深い甘みは何だ?

 このやわらかな果実の風味……先ほどのソースに使われていた柑橘類ではあるまい。 干した棗椰子デーツか!?」

「いやぁ、旦那にはかないませんね! でも、そのあたりはウチの店の秘密ってやつでよろしくお願いしますよ」

 そう言いながらチラチラと屋台のほうを見ると、そこでは彼の女房が長蛇の列を相手にフル回転で働いていた。


 その様子を見て、隣の屋台の店主がそそくさとジンに近寄ってくる。

「そこのライオンみたいな旦那、よかったらウチのも食べていってくださいよ!

 もちろん御代はいりませんから、味見していってください!!」

「おお、悪いな……」

 そしてそこでもジンは屋台の料理をベタ褒めである。

 その声に惑わされ、ふたたび客の財布の紐が緩みはじめた。


 この見た目の厳つい男が実は飲食街の福の神である……そんな話がバザール中に知れ渡るのに、そう時間がかからなかったのは言うまでもない。

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