第29話 理性VS本能

 突然の事で身体を硬直させていると、僕の心情などお構いなしに、リナさんが手をぎこちなく上下に動かしていく。

 それと共に、僕の背中へ押し付けられた柔らかい物が、湯船の水面を波立たせる。


「……あの、リナさん。何をしているんですか?」

「何って、優ちゃんの背中を洗ってるんやけど……痛かった?」

「いえ、スポンジが柔らかいので痛くは無いんですけど、普通背中を洗う時って、湯船の外でやるものだと思うんですが」


 ちらりと振り返ると、右手にスポンジを持ち、左手を僕の肩へ押いていたリナさんが、なるほど……と大きく頷いていた。

 そういえば、日本では湯船にはゆったりと浸かるものだけど、イギリスではバスタブの中で身体を洗うって、テレビで言っていた気もする。やっぱり文化や習慣の違いって、難しいな。


「そっかー、ごめんな。ウチの世界には入浴って習慣が無くて、よく分からへんかってん」


 確かリナさんは、トランシルヴァニアって国から来たって言っていたけれど、そもそも入浴の習慣が無い国なのか。

 同じテレビ番組で、ドイツの浴室にはシャワーしかない所も多いって言っていた気もするし、そういう国もあるのだろう。


「じゃあ、優ちゃん。改めて、ウチが背中を洗って、水に流させてもらうから、お湯の中から出てー」


 しかし困った。

 郷に入りては郷に従えとは言うものの、間違った――優子が故意にミスリードさせた疑いが持たれる――習慣に従う必要は無いのだが、


「あの、リナさん。水に流すっていうのは、相手の背中を洗えって事ではなくてですね……」

「……優ちゃん。やっぱりウチに怒ってるん? 水に流させてくれへんの?」


 予想通り、リナさんが悲しそうな表情を浮かべて僕を見つめてくる。

 あぁぁぁ……もう、どうしろって言うんだよっ!


「ねぇ、優ちゃん。ダメ、かな?」

「リナさん。僕はそもそも怒ってませんから」

「でも、夕食の時とか、ちょっと様子が変やったもん。数日間だけやけど、それでもウチは優ちゃんとずっと一緒に居って、優ちゃんの事を見ててんから、それくらい分かるもん」


 リナさんから、どこかで言われたような言葉を聞かされる。

 しかも、事実として少しへこんでいただけに、否定が出来ない。

 かといって、このままリナさんと湯船に浸かり続けていても埒が明かないのだが。

 そう思った瞬間、僕の背中に二つの大きな膨らみが押し付けられる。

 スポンジとは感触も弾力も大きさも違うコレは、間違いなくアレだ。だけど、全裸の状態でアレの事を考えるだけでも非常に不味い事になる。

 リナさんは人妻で娘が居て、僕は明日香の事が好きで、だから二人で一緒にお風呂へ入っている時点で間違いが起きてはダメで……いや、間違いって何だよ! そんなのダメ、だ……。

 全力で僕の理性を応援して、本能と煩悩に押し切られそうな所を何とか堪えていると、不意に首元へ何かが触れた。

 ハァハァと熱い吐息が耳元で囁かれ、遂に僕の理性が屈してしまう。


「リ、リナさん。ダメです。そんな事をされてしまったら、僕だって健全な男なんだから……。リナさん、本当にもうダメなんですっ!」

「……」

「リナさん。呼吸が荒いですけど、それ以上は……って、リナさん!? のぼせてる!? お風呂に入る習慣が無かったのに、ずっと浸かっていたから!?」


 リナさんが僕の背中に身体を預けて、ぐったりしている事にようやく気付き、一気に冷静さを取り戻していく。

 僕の背中に居るリナさんを、そのままおんぶして脱衣所まで運んで寝かせると、


「優子! 優子っ! 急いで来てっ! リナさんがっ!」


 優子を呼ぶと共に、悪いとは思いながらもお湯に浸かっていたバスタオルを外す。

 棚から新しいバスタオルを取り出した所で、ミウちゃんと共に優子が来てくれた。


「優子! 悪いんだけど、リナさんの着替えを頼む」

「……お兄ちゃん。こんなに真っ赤になるまで、一体どんな激しい事をしていたの? それと、着替えよりも先に水分補給よっ! 何か持ってくるから、お兄ちゃんはリナさんを冷やしてあげて」


 そう言って、優子がミウちゃんを残して走り去る。


「ママー? ママーっ!?」

「ミウちゃん、大丈夫だからね。僕と一緒に待っていようね」


 ミウちゃんを落ち着かせるように、その小さな手を握りつつ、バスタオルでリナさんの身体を隠す。

 優子にリナさんを冷やすように言われたので、小さなタオルを水で濡らしたいのだが、ミウちゃんの手を離しても大丈夫だろうか。

 いや、迷っている場合じゃない。だったら……と、ミウちゃんを左腕で抱きかかえながら、新しいタオルを濡らしてリナさんの顔を拭く。

 熱を出した時と同じように、首元や脇の下などを拭いてみたのだが、これで合っているのだろうか。


「お兄ちゃん、お待たせ。リナさんにこれを飲ませてあげて」


 差し出されたのは、カップに注がれた水。

 目を閉じ、ぐったりとするリナさんに水を飲ませるには……これしかないか。

 これはあくまで医療行為だからと自分に言い聞かせ、カップの水を口に含むと、リナさんに口づけし、口移しで水を飲ませる。

 これを二回繰り返した所で、


「あ、優ちゃん。その……ありがと」


 リナさんが恥ずかしそうに口を開いた。

 良かった。一先ず無事みたいだ……と安堵した所で、


「あの、お兄ちゃん。妹の目の前でイチャイチャするのは、どうなの?」


 優子が呆れた表情を浮かべる。


「イチャイチャなんてしてないだろ? 僕はリナさんを助ける為に必死だったのに」

「確かに放置は不味いと思うけど、のぼせただけで、口移しで水を飲ませるのはやり過ぎかなーって気がするけど。別に、意識を失っていた訳でもないしさ」


 ……え? 意識を失っていた訳ではない? 僕の早とちり!?


「まぁぐったりとしていたし、夫婦だからキスくらい何とも思わないのかもしれないけどね。だけど、お兄ちゃん。リナさんだけならともかく、私を呼ぶのなら、せめて下半身にタオルくらい巻いて欲しかったかな」

「……? ――ッ!?」


 一人で必死になっていたから気付かなかったけれど、僕はずっと全裸のままで、唯一身体を隠しているのは抱っこしているミウちゃんだけ。

 その上、視線を感じて視線を下げると、リナさんが恥ずかしそうに両手で顔を覆いながらも、指の隙間からしっかり僕を見ていたのだった。

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