水神さまを怒らせてはいけない
夏炉冬扇
プロローグ
ちょっとした出来事
「どこ行ったんだろう?」
深い深い藪の中。両手で草をかき分けて一歩、また一歩と足を踏み入れて行く。
つい今し方まで友達と野球をして遊んでいたのだが、打球がこの鬱蒼とした森の中まで飛び込んでしまったのだ。
お陰で一番年下の彼はボールを探して来る役目を押し付けられてしまったわけだが、普段、殆ど人が入らないような場所であるから、全くと言って良いほど手入れはされていないし、足場も悪いと来ているから小さな白球ひとつ探すのにもひと苦労である。
「皆んなも一緒に探してくれれば良いのに……」
とは言わない。
同じ地域に住んでいる友達は皆、ひとつないしふたつ年上であるから前々から言うなりになっている。その事に疑問を抱いた事すらなかった。
お人好しと言えば確かにそうなのかもしれないが、六歳程度の彼にはそんな実状をおかしいと思えるほど世間を知っているわけでもなく、子供社会というものはそういうものなのだと幼いながらに認識している。
「こっちの方かな?」
木漏れ日がうっすらと射し込む中をさらに奥深くへと進んで行く。
これが冬場であるなら枯れ草も多くなって探しやすいというものだが、生憎と初夏のこの時季では青臭さがムッと立ち込めるほどに辺りは活き活きとした草木が生い茂っている。
固く鋭いカミソリのようになった葉が知らず知らずのうちに手を傷つけていたが、男の子はボールを探す事に夢中で、ちょっとした切り傷など気にも留めていない。
彼にとってみれば、今まで野球をしていた空き地からボールが飛んで行ったのが、こちらの森であっただけマシだったと言えるかもしれない。
森から見て空き地を挟んだ向こう側には細い川が流れている。最も深いところでも腰が浸かるくらいだから、雨で増水でもしていなければ何てこともない川だが、ボールが飛び込んでしまったら実に厄介だ。
「ん?」
自分の背丈ほどもある藪をかき分けて行くと、少しだけ開けた場所に出た。もっとも、開けたとは言っても下草が他に比べてあまり生えていないというだけで、周囲を高い木々に囲まれている事に変わりはない。広さだって大人が四、五人手を繋いで円くなったくらいの、ごく狭い範囲だ。
そんな猫の額ほどの中央に、何やら古びた祠が立っていた。
大きさはせいぜい大人がひと抱え出来そうなほどで、観音開きの戸の下に小さな
「何だろう? これ……」
台座部分に掠れた文字で何か書いてあるのだが、男の子がまだ習っていない漢字であったし、そもそも草書体で書かれているため全くと言って良いほど読み取る事ができない。
「鳥の巣箱? あ、それとも近くの小学校にある箱かな?」
どうやら百葉箱と勘違いしているようだ。が、もちろん、そういったものではない。れっきとした何かを祀った祠だという事は、この場に大人でもいれば教えてくれたかもしれなかっただろう。
そんな彼にとって謎の箱は、さして好奇心をくすぐられる対象にはならず、直ぐに視線が別の場所へ向けられる。
祠の足下にチラリと白いものが見えた。
「あ! あった!」
打球はこんなところまで飛んで来てしまっていたらしい。
男の子はボールに手を伸ばそうと祠の下で四つん這いになる。祠の後ろから回り込んで取ろうにも、突き出た岩と木の根っこが邪魔になって取りづらいため、正面から台座の脇に手を伸ばして取った方が早いと見たのだ。
「もう……ちょい……」
人差し指がボールに触れる。あとは指で少しずつ手前に転がすだけ。
「取れた――痛っ!」
ボールを握った瞬間、急に頭を上げたものだから、彼は思いっ切り祠に頭をぶつけてしまった。
その途端――
メキメキっと鈍い音をたてて祠は根元から倒れ、そして岩に叩きつけられる。
「あ~あ……」
観音開きの戸がある社殿部分はそのままであったが、他はバラバラ。見るも無惨な姿になってしまった。
だが、男の子の視線はある物に釘付けになる。
「これ、ちょっとカッコイイ!」
掴み上げたのは祠に掛けてあった注連縄であった。
これも殆ど無傷であったが、首飾りほどの大きさの注連縄に子供ならではの魅力を感じたのだろう。
彼はバラバラになった祠には目もくれず、ボールと注連縄を手にすると、とっとと森を出て行ってしまった。
仲間のもとへ戻った彼は、その日ずっと注連縄を首から下げて遊んでいた。
やがて月日は流れた。
そんな祠があった事も注連縄の事もすっかり記憶の彼方へ置き去りにされ、そのまま昔日の些細な出来事として消えて行く……筈だった。
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