第114話 因果(一)

 薄ら日が淡い陰影を浮かび上がらせていた。

 華都かとの中心にそびえる壮麗な王宮のなかでも、ひときわ巨大な建物の一室である。

 百人は入れるであろう広々とした室内で向かい合うのは、わずかに二人の男たちだけだ。

 華昌国王・昌盛しょうせいと、宰相・盧宝淑ろほうしゅくであった。


ようは無事に見つかったのだな、宝淑」


 厳かな声で問うた国王に、長身を折った老宰相はうやうやしく叩頭する。

 深い年輪が刻まれた盧宝淑の額からぽたぽたと滴ったものがある。

 氷のように冷えきった汗であった。

 主君を前にして、老練な宰相の心胆はまさに凍りつこうとしていた。


「いかにも左様にございます。先ほどもたらされた報せによれば、魏浄ぎじょう将軍がみずから王女殿下を連れ帰るとの由――」


 昌盛は黙したまま、ゆるゆると首肯する。

 まもなく五十歳を迎える華昌国王は、長身と引き締まった身体をもつ精悍な男である。

 実際の年齢よりもひと回りは若々しくみえるのは、多忙な日々のなかでも欠かさず行ってきた鍛錬の賜物にほかならない。

 華昌国の王族に特有の彫りの深い顔貌が目を引く。とりわけ炯々たる光を放つ双眸は、獲物をねらう猛禽のそれを彷彿させた。

 この眼に射竦められては、さしもの大宰相も恐懼せざるをえない。


「このたびの失態、まことに面目次第もございませぬ。我ら臣下一同、いかなる処分も甘んじて――」

「その必要はない」


 昌盛は静かに言い放つと、ふっと息を吐いた。

 同時に瞼を閉じたのは、問責はひとまず中止するという意思表示にほかならない。

 自分の眼が臣下に対してどのような効果を持っているのかは、当の昌盛もよくよく知悉している。


「すこし娘を甘やかしすぎた。責めを負うべきはらではなく、父親である余であろう」

「陛下――」

「王宮に戻り次第、蓉はしばらく蟄居させる。おのれの軽はずみな行動がどれほど多くの人間を振り回したかを理解させねば、あれは懲りずにまた同じことを繰り返すやもしれぬ。かような逸脱は、あまねく民の亀鑑となるべき王族として決してあってはならぬことだ」


 昌盛の言葉に、盧宝淑はただ平伏するばかりだった。

 この場合の蟄居とは、たんに一定期間の外出を禁ずるといった程度ではない。

 離宮のひとつに幽閉したうえ、国王の許しがあるまで外部との交流の一切を遮断する厳しい処置にほかならない。

 衣食住こそ王族として不足のない水準に留め置かれるが、それは事実上の入牢じゅろうであった。


 華昌国において、国王の決定は絶対である。

 臣下がひとたび下された国王の命令に異を唱えることは、どのような立場の人間であれ、みずからの出処進退を賭けたを挑むことを意味している。

 盧宝淑は幼いころから傅育ふいくしてきた姫の身を案じながら、喉まで出かかった言葉を飲み下す。

 昌蓉の処遇が決まったならば、魏浄からもたらされたもうひとつの重大事を昌盛に報告せねばならない。


「……ついては陛下、もうひとつお伝えしたき仕儀がございます」


 盧宝淑の声はひどく震えている。

 最初にその一報がもたらされたときは、さだめし何かの間違いであろうと一笑に付したほどだ。

 どうやら真実であると理解するに至って、盧宝淑は驚嘆のあまり雷に打たれたみたいにしばらくその場に立ち尽くしたのだった。

 いま国王の面前で言上するにあたって、老宰相の細い体は内側から激しく揺さぶられているようだった。

 

「魏浄将軍が封寧ほうねいにおいて成夏国王の娘――夏凛かりんを生け捕りにした、と……」


 言いさして、盧宝淑はいったん言葉を切った。

 というよりは、それ以上何かを口にすることが出来なかったと言うべきだろう。

 成夏国王という言葉を耳にしたとたん、閉じられていた昌盛の瞼がかっと見開かれたためだ。

 華昌国王の容顔をまたたくまに染めていったのは、三十年の時を経てなお冷めやらぬ怒りと執念の色相であった。


***


 華都は七国のなかでも他に類を見ない独特の構造を持つ都市として知られている。

 七国の多くの都市が縦横に走った道路(条)と、それに区切られた賽の目状の居住区画(坊)から成っているのに対して、華都は王宮を起点とする放射状の大路に沿うように都市が形作られているのである。

 七国が成立する以前、このあたりに蟠踞ばんきょしていた異民族の都市をそのまま転用した名残りと言われるが、詳しいことはいまとなっては誰にも分からない。

 七百年の歳月を閲するうちに通りの数は増え続け、現在ではおよそ百本あまり。

 なかでも東西南北の城門へと通じる四本の大路は最も重要な位置を占め、沿道には所狭しと家々や商店が櫛比しっぴしている。


 そのひとつである南門なんもん通りから一本入った裏通りは、賑々しい表通りとは打って変わって陰鬱な雰囲気に包まれている。

 近隣の住人からはもっぱら”病人通り”と呼ばれている一角だ。

 べつに病人が暮らしているからそのような名前がついた訳ではない。

 いつのころからかこの通りには医者や薬師が住み着くようになり、治療をもとめて王都じゅうの傷病人がやってくることから、”病人通り”の異名を取るようになったのである。

 昼日中でも通りが薄闇に閉ざされているのは、患者に要らざる刺激を与えないため。

 そして一帯を充たしている独特のにおいは、薬師たちが薬を調合する際に生じる副産物であった。


 そんな”病人通り”の片隅に、二月ふたつきほど前にあらたに開業した医院がある。

 医院が所在するのは、二軒の薬屋に左右を挟まれた細長い建物の、ほとんど屋根裏のような上階である。

 表には看板も何も出ていない。ただ「医」とだけ書かれた木板が軒先に吊るされているのみだ。

 ニセ医者やニセ薬師も少なからず混じっていると言われる”病人通り”のなかでも、これほど怪しげな医院はあるまい。

 そんな名無しの医院に患者が列をなすようになったのは、開業からまもなくのこと。

 人から人へと口伝えに評判が広まり、いつしか通りでも指折りのになっていったのである。


――外見そとみは怪しげだが、腕は確かだ。


 というのが、医院を訪れた患者たちに共通する感想だった。

 ここで言う外見とは、医院の建物だけでなく、診察にあたる医師の風貌をも意味している。

 一見するとまだ二十歳になるかどうかという若者だが、該博な知識と正確無比な技術は、熟練の医師も舌を巻くほどであった。

 他の医師が匙を投げた患者を救ったことも一度や二度ではない。

 そのうえ、薬の調合まで器用にこなしてみせるとなれば、

 

「具合が悪いなら、りょう先生に診てもらえ――」


 と、病に苦しむ人々から重宝がられたのも無理からぬことであった。

 銀糸のような白髪はくはつを持つ若き医師の名は、いまではすっかり知れ渡っている。

 それでも、彼がいったい何者で、どこからやってきたかを知る者は、この広い城市まちにひとりもいなかった。

 

***


 梁凱りょうがいがその日の診察を終えたのは、もう夜半を過ぎたころだった。

 評判が広まってからというもの、患者は昼も夜もひっきりなしに医院を訪れるようになった。多いときには一日に百人ちかくを診ることもある。

 こうして看板を下ろすことが出来るのは、夜更けから明け方までの数刻のあいだだけなのだ。


(困ったことになった――)


 心のなかで呟いて、梁凱はため息をつく。

 各地に潜伏する成夏国せいかこく鳳苑国ほうえんこくの残党を探し出し、ひそかに接触をはかる……。

 それが梁凱の使命であり、別れ際に夏凛と交わした約束だった。

 医院を開いたのは、あくまで世間の目をごまかすための偽装カムフラージュにすぎない。

 医師であれば往診と称してあちこちを出歩いても不審がられることもなく、医院に人が出入りしても怪しまれないと踏んだためだ。

 華都は華昌国の中心地であり、反成夏国の気運はいまなお根強い。

 それでも――否、そうであるからこそ、成夏国人が潜伏するには好都合な土地柄でもある。

 よもや針のむしろも同然の華都に成夏国人が隠れ住んでいるとは、まともな神経の人間なら夢にも思わないだろう。

 完璧に出自を隠しきることさえ出来たならば、これほど身を隠すのに最適な土地もない。


 事実、梁凱は華都に居を構えてから、華昌国に逃げ延びた両国の遺臣たちと知遇を得ることに成功している。

 現在は名前を変え、経歴を捨てて身を潜めているが、かつては文武の重職に就いていた者たちである。

 梁凱は彼らに夏凛王女がいまもひそかに生き延びていることを伝え、成夏国再興に協力する約束を取り付けていった。やむをえず脅迫じみた手段を用いることもあったが、自発的に協力を申し出る者がほとんどだったのは意外でもあった。

 もっとも、旧成夏国の遺臣が抱えている切実な事情を考えれば無理もないことだった。

 彼らは敵国である華昌国で素性を隠しながら生きるつらさに耐えかねていたのだ。

 何かのきっかけで成夏国人であることが露見すれば、もはやその土地に暮らし続けることは出来ない。

 それどころか、いまなお成夏国を憎む華昌国の人々に危害を加えられるおそれさえある。

 平穏な潜伏生活を続けているようでも、実際は明日をもしれない綱渡りをしているに等しかったのである。

 当初は順調に進んでいた祖国再興の計画は、しかし、ある時期を境に予期せぬ方向へと向かっていった。

 

(こんなことなら、あのときを装っておくべきだった……)


 発端は近所に住む母娘だった。

 閑古鳥が鳴いていた医院に娘を抱きかかえた母親が駆け込んできたのは、ちょうど今時分のこと。

 折悪しく他の医院が診療を終えていたなかで、唯一開いていたこの医院の門戸を藁をもすがる気持ちで叩いたのだった。

 母親が訴えるところによれば、幼い娘が急に熱を出し、食べたものを吐き出すようになったということだった。

 娘の丹田に触れた梁凱は、急性の脾虚ひきょ(消化器疾患)であることを即座に看破した。

 体力の乏しい幼児が罹患した場合、放置すれば死に至るおそれもある病気である。

 梁凱が痛みを和らげる経絡に針を打ち、手持ちの薬を投与すると、娘はそれまでの苦しみようが嘘みたいに回復していった。

 そのあざやかな手際に感動した母親が近所に触れ回ったことで、それまで無名だった梁凱の医院はにわかに噂となり、ほうぼうから傷病人が詰めかけるようになったのだった。

 梁凱がそうして訪れた患者たちに律儀に治療を施したことを悔やみはじめたのは、名医の評判がすっかり定着したあとだった。

 こうなっては、もはや自分の意志ではどうすることも出来ない。


「御免――――」


 梁凱が「医」の字が書かれた看板を下ろそうとしたとき、ふいに背後から声がかかった。

 首だけで振り返ると、旅装姿の人物が通りに立っているのがみえた。

 大ぶりな笠を被っているために顔は判然としない。

 先ほどの声と背格好から推察するに、どうやら若い男らしい。


「申し訳ありませんが、今日の診察はもう終わりです。お引き取り願います」

「僕は病人ではありません」


 言って、旅人は笠を脱ぐ。

 梁凱の目交に現れたのは、よく見知った少年の顔だった。


「鷹徳どの――」

「久しぶりです。梁凱どのも元気そうでよかった」

「旧交を温めるために訪ねてきた、という訳ではないようですね」

「そのとおりです。……今日は無理を承知でお願いしたいことがあって来ました。どうか僕に力を貸してほしいのです」

「いったいなにがあったのですか」


 次の刹那、鷹徳はほとんど泣き出しそうな表情で梁凱にすがりついていた。


「凛どのが……凛どのが捕まってしまったのです……!!」

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