第115話 因果(二)
肌を刺すような冷気が車内を充たしていた。
窓という窓を塞がれたうえに、唯一の乗降扉を外側から施錠された馬車は、まさしく動く牢獄といった趣がある。
部材の間隙からかすかに差し込む陽射しがなければ、昼夜の区別さえつかないだろう。
薄闇と車輪の音に支配された空間で、二人の男はじっと壁に背をもたせかけている。
怜と
「くそ、外れやしねえ――」
悪態を突きながら、怜は上体をよじる。
両手首を縛めている木製の枷を解こうとしているのだ。
それが無駄な試みであることは、むろん怜も承知している。
武器を取り上げられた怜と司馬準は、手枷と足枷によって五体の自由を奪われたあと、この馬車に放り込まれたのだった。
そのあいだ何度も脱走を企てたが、懸命の努力もむなしく、時間だけが無為に流れていった。
いや――行き先は分かりきっている。
魏浄は、三人を
やがて目的地に到着したなら、華昌国王・
そのあと一行の身に降りかかるであろう事態については、出来るなら考えたくはなかった。
「おい司馬準、おまえもやってみろ。俺より力が強いなら、もしかしたらどうにかなるかも……」
怜の呼びかけに、司馬準は軽く頭を上げる。
「なにか?」
「なにがなにかだ。おいこら、おまえ、まさか寝てたんじゃねえだろうな」
「はい。体力を温存しておいたほうが賢明だと思いまして」
悪びれもせずに言った司馬準に、怜は深いため息をつく。
それでも罵るつもりになれなかったのは、司馬準の意見が理にかなっているからだ。
いずれ脱出の機会が訪れたとしても、疲労困憊した状態では満足に動くこともままならない。どうあがいても状況が好転しないのであれば、ひとまずじっと息を潜め、体力の消耗をすこしでも軽減するのが上策である。
その程度の道理はむろん怜も理解しているが、何もせずに漫然と時を過ごすことはどうしても耐えられなかったのだった。
「それにしても華昌国の奴ら、なにを考えてやがる。まがりなりにも一国の使節をこんなろくでもねえ目に遭わせやがるとはよ――――」
「おそらく我々が
「くそったれめ……」
一行が捕縛された際、夏凛は魏浄にむかって沙蘭国王の印綬を突きつけた。
沙蘭国を出立するにあたって、道中で身の証を立てるために
他国の正式な使節ともなれば、軍人にとって万が一にも礼を失することの許されない相手である。
その大原則は、たとえ交戦中の敵国であったとしても変わることはない。
いったんは安堵しかけた怜だが、それが予断であったことが知れるまでさほどの時間はかからなかった。
老将軍は夏凛が手にした印綬を興味深げに矯めつ眇めつしたあと、
――かまわん。この者どもを早う就縛せい。
周囲の兵士たちにそう言い放って、さっさとその場を後にしたのだった。
「ま、考えてみりゃ疑われても文句は言えねえか……」
二年前の謀反で一族もろともに滅ぼされたはずの成夏国王の娘が生きていたとは、それだけでもにわかには信じがたいことだ。
そのうえ沙蘭国の使節という立場を得て、二人の名だたる将軍を従えて因縁深い華昌国に赴いているとは、まともな人間であれば一笑に付すのが当然であった。
ひと目で夏凛の正体を見抜いた魏浄の慧眼も、さすがに沙蘭国王の印綬の真贋までは見極められなかったらしい。
偽印綬を帯びて華昌国に潜入した不届きな奴ばら――華昌国王にはそのように報告されているであろうことは想像に難くなかった。
「怜どの、こちらに来ていただけますか――――」
司馬準にふいに声をかけられて、怜は這いずるように車内を進んでいく。
やがて司馬準が顎先で示したのは、壁に走った細い亀裂だった。
どうやら外にまで抜けているらしく、白々とした光が床にまだら模様を落としている。
「おまえ、まさかここから抜け出ようなんて言うんじゃねえだろうな?」
「いえ。ただ、裂け目のむこうに奇妙なものが見えたもので」
「ああ?」
司馬準に言われるまま、怜は裂け目に顔を押し付ける。
すっかり闇に慣れきった網膜を冬の陽光が苛む。
こめかみに軽い痛みを覚えながら、怜の眼はじょじょに外界の光量に順応していく。
やがて細長くいびつな視界いっぱいに広がったのは、予想もしていなかった光景だった。
「なんだ、ありゃあ……?」
かっと見開かれた
それもひとつやふたつではない。
まるで広壮な部屋に何枚も屏風を並べたみたいに、城壁は平野部に等間隔に配置されている。
城壁と城壁のあいだにはかなり広い隙間がある。それがいまだ城壁が建設途上であることを意味しているのか、あるいは意図的に設けてあるのかは、一見しただけではどうにも判断しがたい。
怜はすこしでも多くの情報を得ようと眼球をせわしなく動かす。
城壁の彼方にうっすらと浮かぶ山の輪郭から、馬車が華都へと至る街道上を走っていることはすぐに知れた。
怜にとっては、かつて華昌国を旅した際に通ったことのある道だ。
だが、以前この街道を通ったときには、あんな城壁はどこにも見当たらなかった。
それどころか、そのころは何らかの工事を行っている気配すらなかったのだ。
どうやらこの一年半ほどのあいだに急造されたものであるらしい。
やがて、怜は裂け目から顔を離すと、そのまま天井を仰いだ。
城壁は防御施設であると同時に、それ自体が巨大な兵器と言っても過言ではない。
華昌国は来たるべき大戦への備えを着々と進めている。
そして――あれほど大規模な城壁を築いて迎え撃つべき仮想敵国は、いまや七国の大半を版図に収めた
***
暗い水のなかを泳いでいるようだった。
自分がどこにいるのかも、周囲に何があるのかも皆目見当がつかない。
それでも、その場に留まることは許されない。抗うことの出来ない力に押し流されていく。
視界を奪われた夏凛は、魏浄に導かれるがまま、いつ終わるともしれない長い道を歩きつづけている。
馬車から降りる直前に目隠しをされ、そのまま歩くよう命じられたのだ。
ひどく寒い。封寧も朝方はかなりの冷え込みだったが、ここはそれ以上だった。
足音が壁に反響していることから、どうやら建物の内部らしい。
おそらく脱走を阻止するためだろう。周囲には魏浄のほかに四、五人ほどの気配がある。
分かることといえばその程度だ。
魏浄にあれこれと質問をする気にもなれなかった。
何を尋ねてみたところで、望む答えが得られるとも思えない。
気がかりなのは怜と司馬準の安否だ。
あの二人に限ってそう簡単に殺されるようなことはないだろうが、何の根拠もない希望的観測と言えばそれまでだった。
それは自分がこれから辿る運命にしても同様なのだ。
もっとも、夏凛にとっては華昌国王に生命を奪われることよりも、袁王妃や
「……止まれ」
魏浄が厳かな声で宣言するや、周囲の足音がぴたりと熄んだ。
夏凛は危うくその場で姿勢を崩しそうになりながらも、どうにか踏みとどまる。
歩き始めてからどれくらい経っただろう。
ずいぶん長いこと歩いていたような気もすれば、つい今しがた馬車を降りたばかりのような気もする。
いずれにせよ、ここが道の終着点であるらしい。
「
夏凛のすぐ右手で魏浄とは別の声が上がった。
禁軍の指揮官・
ややあって、夏凛の両目を覆っていた布地はあっさりと取り払われた。
冷気がむき出しの瞳を打つ。遮るもののない視界に浮かび上がったのは、荘重なしつらえの扉だった。
扉の前には矛を構えた兵士たちがずらりと堵列している。
おもわず身震いしそうな寒さのなか、どの兵士もまるで精巧な置物みたいに微動だにしない。
「ここは……」
問うまでもなく、夏凛にはすでに答えが分かっている。
王宮だ。
それぞれの国ごとの差異はあっても、国王の
たとえ初めて訪れた場所であったとしても、どこか懐かしさを感じるのはその証左だ。
目隠しをされたまま、夏凛は華昌国の中枢へと導かれたのだった。
「そのまま進め。国王陛下がお待ちである」
魏浄に言われるがまま、夏凛はためらいがちに足を動かす。
先ほどから肌が粟立っているのは、冷えた空気のためだけではない。
全方位から夏凛に注がれている剣呑な視線――むき出しの殺気がそのように感じさせているのだ。
そのまま数歩も進んだところで、ひとりでに扉が開いた。
扉の向こうには御簾に覆われた玉座がある。
床を打つ音がそこかしこで生じたのはそのときだった。
魏浄と高植・高迅父子を始めとする男たちが一斉に跪いたのだ。
誰に命じられるでもなく、夏凛もほとんど反射的に身体を折っていた。
「畏くも国王陛下に申し上げます。魏
魏浄は玉座の前に膝行すると、八十歳ちかい年齢を感じさせない大音声で宣言する。
わずかな沈黙のあと、御簾は内側から音もなく巻き上げられていった。
夏凛はちらと顔を上げて、そのまま目をそらした。
猛禽を彷彿させるするどい双眸に射竦められたためだ。それは夏凛がこれまで出会ったどんな人間よりも恐ろしげな視線であった。
華昌国王は険しい表情を崩すことなく、あくまで鷹揚に老将軍をねぎらう。
「魏将軍、大儀であった」
「畏れ多くももったいなきお言葉にございまする」
「成夏国の王女をこれへ――」
国王の思いがけない言葉を受けて、家臣たちの顔を驚きの色が渡っていった。
まだ年端も行かぬ少女とはいえ、華昌国にとっては不倶戴天の敵である成夏国王の娘なのだ。
それを不用意に玉座に近づけるとは、一国の君主としてあまりに軽率な行動と言わざるを得ない。
それでも、国王のたっての望みとあれば、家臣としては諫止することも難しい。
夏凛はおずおずと進み出ると、玉座の前で跪く。
「そのほうが
「夏凛と申します。昌盛陛下には拝謁の機会を賜り、光栄に……」
「挨拶は無用である」
刹那、金属音が玉座の間に鳴り渡った。
昌盛が立ち上がりざまに佩剣を抜いたのだ。
おもわず後じさろうとして、夏凛はそのまま身動きが取れなくなった。
首筋に押し当てられた冷たく硬い感触は、研ぎ澄まされた剣刃にほかならない。
ほんのすこし手首に力を込めれば、少女の細首はたやすく落ちるだろう。
一帯が水を打ったように静まり返るなか、やがて昌盛は重く錆びた声で呟いた。
「死にたくなければ答えよ、夏賛の娘。いったいなにが狙いだ? なにを企んでいる?」
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