第105話 予兆(四)

 中原の国々のなかで最北端に位置する華昌国は、酷寒の国としても知られている。

 冬の訪れとともにはるか西の果てから押し寄せる季節風は、国土の北方に位置する五剣峰ごけんほうを超える際に急激に冷却され、草木も凍てつかせる大寒波となって華昌国を包むのである。

 九月の半ばには王都・華都かとに初雪が降り、十月ともなれば国じゅうの城市まちがひとつ残らず白く染められるのが、この国の毎年の風物詩だった。


 華昌国人が七国で最も辛抱強く逞しい民と評されるのも、彼らが幼いころから長く厳しい冬を耐え忍び、それを苦としない強靭な精神力を涵養してきたためにほかならない。

 むろん、華昌国の人々も称賛を受けるばかりではない。

 偏屈で無学な田舎者、の年寄りの国……。

 東西に広い国土には教育機関が乏しく、国民の大半は読み書きが出来ない。学問を軽視する風潮は底辺だけでなく貴族にまで及び、あらゆる文化の揺籃の地たる中原の一角を占めながら、華昌国は七百年の歴史を通して著名な文人や学者を数えるほどしか輩出していないのである。

 さらに聖天子から継承した伝統を重視するあまり、政治においてはいつの時代も守旧派が要職を独占してきた結果、いまや国そのものが巨大な骨董品のごとき様相を呈しているのだった。


 だが、そんな悪口を当の華昌国人が耳にしたとしても、彼らは怒るどころか、まんざらでもないといった微笑みを浮かべさえするだろう。

 彼らにとって、学問などに心惑わされることなく愚直に労働に打ち込み、古代の聖人が遺した教えをけっして疑うことなく守り続けることは、人間にとってこれ以上ない美徳なのだ。

 そんな華昌国が、国を挙げて学問と芸術をさかんに推奨し、進取の精神に富んだ成夏国と犬猿の仲であったのは、むしろ当然であった。

 

*** 


 華都には昨晩も雪が降った。

 一夜明けた城市まちは、どこもかしこも雪化粧をまとい、つむじ風が吹き抜けるたびに何度でも白く染め上げられる。

 そこかしこで聞こえる軽妙な音は、凍りついた地面を踏みしめて行き交う人々の足音であった。


 かつては鳳苑国の鳳陵ほうりょう、成夏国の成陽せいようともに中原の三名城と並び称された華都は、三つの王都のなかで最も広大な市域を内包する中原最大の大都市である。

 正確には、と言うべきだろう。

 ボウ帝国の建国後、帝都となった成陽が凄まじい速度で領域を拡大していった結果、華都はついに首位の座から転落したのだ。

 それでも、華都の住人たちが敗北の悔しさに臍を噛むことは決してない。

 たとえ城市の面積で一籌いっちゅうを輸するとしても、こちらには七百年の長きに渡って培ってきた古都としての矜持プライドがある。

 中原を三分していた成夏国と鳳苑国が地上から滅び去ったいま、華昌国は聖天子の御世みよから連綿と続く唯一の国家なのである。

 その首都である華都もまた、新参者の昴帝国がどんなに背伸びをしたところでけっして追いつけない価値を持っている――と、すくなくとも華昌国の人々は信じてやまないのだった。


 富める家も貧しい家も等しく雪に包まれた華都のなかにあって、ひときわ目を引く巨大な建造物がある。

 広壮な庭園と、城塞を思わせる無骨な宮殿を内包するそれは、国王とその一族が住まう華昌国の王宮である。

 朝の清浄な気に満たされた国王の御座所おましに響いたのは、なんとも忙しない足音であった。


「宰相、宰相はどちらにおいでか――――」

 

 呼びかけながら、官服姿の男が王宮の廊下をで進んでいく。

 七国において、王の住まいである宮中で御法度とされていることが二つある。

 すなわち、剣を帯びたまま王宮に足を踏み入れることと、宮中で走ることである。

 国家存亡の危機という訳でもないかぎり、官吏や廷臣は、どんな火急の用件でも歩いて移動しなければならないのだ。

 

「いったいなんの騒ぎだ、尹程いんてい


 と、背後からふいに低い声が投げかけられた。

 尹程と呼ばれた男は、その場ですばやく身体を反転させる。

 直後、みずからの声を追うように廊下に姿を現したのは、ひとりの老人だった。

 見上げるほどの長身である。ゆったりとした着物をまとっていても、袖口から覗く手首や指先、なにより瓜のような細長い顔立ちから、かなり華奢な体つきであることが分かる。

 一見すると枯れ木のような風情すら漂う老人に、それでも不健康な印象がないのは、べつに病気や老化によって痩せ細った訳ではないからだ。

 華昌国の宰相である盧宝淑ろほうしゅくは、少年の頃から吹けば飛ぶような長身痩躯で知られた男であった。

 どんな滋養のある食事を摂っても、身体に行く前に脳に残らず吸われてしまうからああなったのだとは、盧宝淑の卓越した知恵と博識への称賛にほかならない。


「おお、盧宰相、ここにおられましたか!! 探しましたぞ!!」

「この時間は国王陛下のご機嫌伺いに参内するものと決まっておる。それより、宮内大夫(王族の身辺の世話を担う役人)の貴殿が私になんの用件か」

「それが、じつは……」


 尹程は周囲に人がいないことを何度も確かめると、盧宝淑にむかってくいくいと手首を曲げてみせる。

 尹程もけっして小柄なほうではないが、動く柱のような盧宝淑と内緒話をしようとすれば、相手に屈んでもらうほかにないのである。

 老宰相はしぶしぶ膝を曲げると、いかにも厭わしげに耳をそばだてる。


「じつは、今朝方からよう姫さまの行方が分からなくなりました――――」


 震える声で耳打ちにした尹程にも、盧宝淑は「ほう」と言ったきりだ。

 それから数秒と経たぬうちに、年老いた賢人の長細い首はぶるぶると震えだしていた。


「尹程っ!! 貴殿、いまなんと申したか!?」

「ですから、蓉姫さまの行方が……」

「それは分かっておる。私が貴殿に訊いておるのは、なぜそんなことになったのかということだ!!」


 枯れ枝を組み合わせたような身体のどこからそんな声が出るのか。

 盧宝淑が張り上げた怒声に、尹程はおもわず後じさっていた。

 焦りと恐怖のあまりしどろもどろになりながら、尹程はようよう言葉を継いでいく。


「夜明け前にお付きの女官が様子を見に行ったところ、姫さまの姿がお部屋のどこにも見当たらず……」

「警護の兵士どもはなにをしていた? なぜだれも姫殿下をお止めせなんだか?」

。それから、警備隊長も……」


 盧宝淑は深いため息をつくと、長身をおおきく反らせて天を仰ぐ。

 背骨が折れてしまうのではないかと心配する尹程をよそに、盧宝淑はまるでひとりごちるみたいに呟く。


「恐れていたことがまたしても起こってしまったな。尹程、前はいつだったか?」

「二年前の春でございます……」

「今回も姫殿下の行き先は同じだと思うか?」

「それについては枕元に書き置きがございました。現物はこちらに――」


 盧宝淑は尹程から木簡の束を受け取ると、長い指を操って器用に紐を解く。

 ひとしきり内容に目を通した盧宝淑は、我知らず唸るような声を漏らしていた。 


「やはり……」


 ふたたび長嘆息した老宰相は、解けたままの木簡を尹程の手に戻す。

 あらためて確認するまでもなく、そこに記されていた内容はすべて記憶済みだ。

 書き置きの内容といえば、無断で王宮の外に出たことへの謝罪と弁明、おそらく立腹するであろう父をよしなに説得するようにとの一方的な懇願……。

 姫君らしい美々しい文字で書き連ねられた身勝手な文は、こんな一節で締めくくられていた。


――いつまで経ってもあの方が私のところに来てくださらないので、蓉は自分から参ります。どうかご心配なさらないでください。


 わずかな沈黙のあと、盧宝淑は至って真剣な眼差しを尹程に向けた。


「尹程……」

「はっ」

「陛下には私からご説明する。貴殿は一刻も早く昌輝しょうき殿のもとへ追跡の騎兵を出すのだ。急げよ。……


 盧宝淑が口にしたのは、あまりにも異様な言葉だった。

 その真意を問いただすこともなく、尹程は猛烈な早足で歩きだしていた。


 その背中が廊下の果てに消えたのを確かめて、盧宝淑はひとり中庭に出た。

 見渡すかぎりの白雪の庭には人の気配もなく、一帯は寂蒔と静まり返っている。

 まっさらな雪の上で足を動かすたび、サクサクと小気味の良い音が生じては消えていく。

 そのまま数歩も進んだところで、盧宝淑はふいに立ち止まると、ほうと白い息を吐いた。


「とはいえ、たったひとりでいつまでも婚約者いいなずけの帰還を待ち続けた姫の気持ちも分かる。我らとしても出来るかぎりの手は打つが、こうなったのもおぬしの自業自得というものぞ、昌輝殿よ……」


***


「ここまで来ればもう大丈夫ね――」


 馬車の御者台から背後を振り返って、女はぽつりと呟いた。

 厚手の外套をまとい、頭には頭巾を巻いているため、外からは顔貌は窺えない。

 それでも女と知れたのは、鈴を鳴らしたような高く澄んだ声音のためだ。


 女はみずから手綱を取ると、ふたたび視線を前方に向ける。

 灰色の空の下、どこまでも続くような一筋の道路が伸びている。

 昨晩の降雪の影響か、路面はわずかにぬかるんでいるものの、通行に支障をきたすほどではない。

 と、背後でドタバタとけたたましい音が起こったのは次の瞬間だった。


 女がちらと背後に視線を向けると、荷台の男と目が合った。

 まだ二十歳を過ぎたかという若者である。

 甲冑をまとっていることから、どうやら軍人らしい。

 鎧の上からでも分かる逞しい身体つきと、精悍そのものといった面差しには、若輩ながら歴戦の風格が漂っている。

 この男に研ぎ澄まされた剣の一本でも持たせたなら、修羅場においてはさぞ頼りになるはずであった。

 もっとも、それも手足を縛られていなければの話だ。

 

「ひ……姫さま、このようなことをなさってはなりません……」

「心配ないわ。私が乗馬が得意なの、あなただって知ってるでしょ。馬車のほうがずっと簡単よ」

「そういう問題ではありません!!」


 男は声を張り上げるが、いかんせん四肢の自由を奪われたままではどうすることも出来ない。

 さらに悪いことに、腰に佩いていた愛用の剣は、姫の手元へと所を移している。


「なにも恐いものはないわ。なにしろ親衛隊長のあなたがついてるんですもの。……ねえ、高迅こうじん?」

「そうおっしゃるなら、せめて手足の縄を解いてください」

「猿ぐつわもしたほうがよかったかな」


 冗談とは思えぬ昌蓉の言葉に、高迅はおもわず絶句していた。

 王宮の警備隊長を務めていることからも分かるように、華昌国でも指折りの使い手である。

 その彼が姫と力競べをして一度も勝てた試しがないとは、はたして誰が信じるだろう。

 昨晩、逃亡を企てた姫の前に立ちはだかった高迅は、たおやかな繊手にあっさりと組み敷かれ、気づいたときには馬車に積み込まれていたのである。

 もっとも、それも初めて王宮に赴任した少年時代から積み重ねてきた連敗記録にあらたな黒星が加わっただけのことだ。

 女に負けた悔しさは記憶の奥底へと沈み、いまでは掘り出すことも難しくなっている。


「嘘よ。……話し相手がいないと退屈ですものね」

「いまからでも遅くはありません。後生ですから王宮に戻ってください。このままでは私の首が飛びます」

「大丈夫、の結婚の恩赦で放免にしてあげるから」


 言い終わるが早いか、姫は「きゃーっ!」と黄色い声を上げる。

 実際のところ、高迅は人質である。

 王宮から差し向けられた兵士たちに取り囲まれたときには、彼を上手く使って切り抜けるつもりであった。

 ぐったりと項垂れた警備隊長にはもはや一瞥もくれず、昌蓉はふと顔を上げる。

 その紺色の瞳に映ったのは、空にあって空にあらず。

 初めて会ったときから思慕してやまない少年のあどけない横顔だった。


「待っていてくださいましね、鷹徳さま。あなたの蓉が参ります♡」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る