第104話 予兆(三)

 まだ十月の半ばにもかかわらず、夜風は冬の気配をはらんでいた。

 成陽の城市まちは、早くも薄闇に包まれている。

 天地を仄かに染める赤い色は、地平の彼方へと追いやられつつある夕陽の最後の名残りであった。


 七星宮を辞去した朱英は、そのまま自邸へと足を向けた。

 朱英とその家族の住まいは、成陽の郊外にひっそりと佇んでいる。

 皇帝の義弟であり、国軍の最高司令官という地位にありながら、一家の暮らしぶりはじつに慎ましやかなものだ。

 もともと辺境の貧しい半農半猟の家に生まれたこともあり、朱英は王侯貴族のあいだで当然とされている華々しい文化を好まなかった。

 食事は一日の仕事をつつがなく乗り切るのに充分なだけあればよく、住まいには季節ごとの寒暑と風雨を凌ぐ以上の役割を求めることはない。

 戦場においては配下の将卒が困窮することのないよう、つねに兵站には気を配ってきた朱英だが、それも勝利のために必要だからだ。


 まさしく戦の申し子である朱英にとって、戦場こそが現実うつつだった。

 一方で戦を離れた日常はいわば夢幻ゆめまぼろしの世界であり、そこには彼が情熱を注ぐに値するものはなにもない。

 舌を蕩かせる稀少な美酒も、妙なる音曲おんぎょくも、朱英はその価値を頭では理解しながら、けっして心動かされることはなかった。

 朱英にとって、それらは夢のなかで手にした財宝によく似ていた。どうあがいたところで現実うつつには持ち帰れないものに固執することは、いかにも愚かなことに思えてならなかったのである。


 すべてが幻影にも等しい虚ろな世界にも、しかし、朱英をして執着させるものはある。


「おかえりなさいませ。無事のご帰還、なによりでございます――」


 屋敷に戻った朱英を出迎えたのは、ひとりの女だった。

 年齢は二十五歳を過ぎたかというところ。上質だが地味な着物は、華美さとは無縁の屋敷とよく調和している。

 美しい女だった。

 輝くような美貌の持ち主というわけではないが、涼やかな目元と上品な立ちふるまいが、実際の顔立ち以上に女を美しく見せていた。


「いま戻ったよ、きょう。留守をよく守ってくれたようだね」


 久しぶりに相まみえた妻にむかって、朱英はふっと相好を崩す。

 

義兄上あにうえのところに顔を出してきたよ」

「さようでございましたか」

「お疲れではないかと心配していたが、お元気そうで安心した。おまえもたまには顔を見せに行っておやり」

「陛下はご多忙な御方。私ごときのために貴重なお時間をわざわざ割いて頂くのは、心苦しうございます」


 あくまでそっけない杏の返答に、朱英は苦笑いを浮かべる。

 本当のことを白状すれば、あえて問うまでもなく分かっていたのだ。

 妻が自分からすすんで義兄に会いに行くはずがない――。

 朱英のよく知る朱杏しゅきょうとは、そういう女であった。


 朱杏は、皇帝・朱鉄のたったひとりの妹である。

 妹とはいうものの、実のところ両者のあいだに血の繋がりはない。

 朱鉄は幼少のころ、成夏国せいかこくの貴族であり、高名な学者としても知られていた朱鷺洋しゅしゅうようのもとに引き取られた。彼も朱英と同じように、もともとは名門・朱氏とは無関係の人間だったのである。

 それが義兄の前半生について朱英が知っていることのすべてだった。

 朱家の養子となるまでの義兄のくわしい来歴については、すでに他界した朱鷺洋のほかには知る者とていない。

 過去に埋もれた真実は、このさきもけっして明るみに出ることはないだろう。

 皇帝である朱鉄の出自を詮索することは、いまやボウ帝国における最大の禁忌タブーとされている。

 そう遠くない将来、帝国の史官たちが自国の歴史を編纂するにあたっては、初代皇帝である朱鉄の出自についても虚実こもごもの箔付けがなされるにちがいない。

 当然だ。

 肇国の偉業をなした人物が、出生地はおろか父母の名もさだかではない孤児みなしごであったなどとは、どれほど硬骨の史家でも直筆ちょくひつをためらうはずであった。


 ともかく、朱鷺洋の一人娘である朱杏は、血の繋がらない義兄にも兄妹としての礼を尽くしてきた。

 その見返りという訳ではないだろうが、朱鉄が登極を果たしてからは、皇妹となった朱杏にはあらゆる貴婦人のなかでも最高位の待遇が与えられた。

 ほかに身寄りのない朱鉄にとって、朱杏はいまや家族と呼べる唯一の存在である。

 それでも、二人のあいだには、義理の兄妹であるという以上の深い隔たりが存在している。

 すくなくとも、朱英の目には、兄妹の関係はなまじの他人よりもずっと遠いものとして映ったのだった。


 妻と連れ立って廊下を進みながら、朱英は話題を変えようと思案を巡らせる。

 三歩と進まぬうちに脳裏をよぎったのは、彼にとってのだった。


「この時間なら朱雄しゅゆうもまだ起きているのではないかな。たまにはあの子と遊んでやりたいものだが――」

「それが、じつは……」


 口ごもった朱杏の背後で、ふいに床板を踏む音が生じた。

 朱英がおもわず腰に佩いた剣に手を伸ばしたのは、武人の習い性だ。

 それも一瞬のこと。足音の正体を察して、朱英はたちまちに警戒を解いていた。


「おう。勝手に邪魔しておるぞ、亮善りょうぜん――」


 天井に届くほどの長身をそびやかせて現れたのは、大将軍・柳機りゅうきその人であった。

 そして、白髯の老将軍の逞しい両肩にちょこんと乗っているのは、愛らしい男児だ。

 柳機の白いもとどりを乱暴に掴みながら、幼児おさなごらしく快活な歓声を上げている。

 その様子を見て、悲鳴にも似た声を上げたのは朱杏だった。


「朱雄、降りなさい!! 大将軍になんという非礼を……」

「なんのなんの、奥方もどうかお止めあそばすな。この柳機、これしきの腕白はどうということもござらん」


 朱杏を片手で制しつつ、柳機は豪放に大笑する。

 そのあいだにも、朱雄はぺたぺたと柳機の頬を足裏で叩いている。

 顔を足蹴にされながら、老将軍は腹を立てることもなく、歴戦の戦傷いくさきずに埋め尽くされた強面をくしゃりと崩す。

 そんな柳機にすっかり心を許しているのか、朱雄のはしゃぎぶりたるや、実の父親である朱英さえ見たことがないほどであった。


「じいじ、じいじ――」

「おお、わが殿下。肩車の次は馬がよろしいか? この老いぼれ、のお馬なら喜んで務めまする……と言いたいところですがな」


 柳機はちらと朱英を見やると、まるで壊れやすい宝物を扱うみたいな手つきで、朱雄をそっと床に下ろす。


「申し訳ありませんが、いましばらくお待ちいただけますかな」

「じいじ、行っちゃうの?」

「殿下のお父上とすこし話がございます。じき戻りますゆえ、それまで母御のそばでよい子にしておられませよ」


 朱雄はこくりと頷くと、母のもとへ駆けていく。

 柳機は遠ざかっていく後ろ姿を満足げに見送ると、ふたたび朱英に視線を移す。

 目配せを交わした二人の将軍は、どちらともなく中庭にむかって歩きだしていた。


「まったく子供というのは可愛いものよなあ、亮善。身近におらぬと余計にそう感じるわ――」


 しみじみと呟いた柳機に、朱英は沈黙で答えた。

 柳機はすでに七十歳。

 その年齢ならば、孫どころか曾孫がいても不思議ではない。

 もっとも、それも人並みに家族を持つことが出来たならばの話だ。

 妻子のいない柳機は、文字通りの天涯孤独の身の上だった。

 歴代の成夏国王に仕えてきた武門の家である柳氏は、その血胤の精華と言うべき稀代の名将・柳機をもって断絶を迎えることになるだろう。


 むろん、柳機も最初からこのような境遇だった訳ではない。

 若かりし日の柳機には、美しく貞淑な妻と、将来を嘱望された自慢の一人息子がいた。

 かつての柳家は、成夏国でも評判のそれは仲睦まじい一家であったと、朱英も人づてに耳にしている。

 ある事件によって柳機が最愛の妻子を一時いっときに失い、それからはふたたび家庭を持とうとしなかったことも、また。


 事件の真相についてはさまざまな憶測が飛び交っていたが、なかでも成夏国でまことしやかに流布していたのは、柳機が自分が戦に行くのを引き止めようとした二人をその場で殺害したというものだった。

 かつての華昌国かしょうこくとの戦において、投降してきた敵兵を情け容赦なく殺戮したことで天下を震撼させた柳機である。

 あの戦狂いの鬼将軍なら、自分の妻子を手にかける程度は造作もなかろうと、市井の人々はしきりに囁きあったものだった。

 むろん、朱英はそのような風聞を信じたことは一度もない。

 柳機は敵に対しては限りなく冷酷でも、味方にはつねに慈しみを持って接してきたことを、長らく彼の指揮下で戦ってきた朱英はよく知悉しているからだ。

 大将軍がみずからの手で妻子を殺害したはずはない。さしずめ不幸な事故に、ありもしない尾鰭がついたにすぎないのだ――。

 我が子とたわむれる柳機の姿を目の当たりにしたことで、朱英はあらためてそんな思いを新たにしたのだった。


 気づけば、二人は渡り廊下を抜け、屋敷の中庭に出ていた。

 冷えた風が庭を渡っていく。木々の合間から覗くのは、薄雲をまとった細い三日月であった。

 朱英が気まずい沈黙を破るきっかけに選んだのは、真摯な謝罪の言葉だった。


「かたじけないことです。柳機将軍ほどの武人に子守をさせてしまうとは――」

「気にするな。おまえが来るまでよい暇つぶしになったわ。それより、陛下から直々に御下知があったのであろう?」

「すでにご存知でしたか」

「そのくらいは顔を見ればすぐに分かるわ。老いさらばえたとはいえ、この大将軍を甘く見るでないぞ」


 柳機は呵々と笑い声を上げると、目を細めて朱英を見やった。


「のう、亮善? 次の戦の相手は、さだめし華昌国であろう」

「そのとおりです」

「なんとめでたきことよ。皇帝陛下は、この老いぼれの最後の願いを叶えてくださった」


 主君への心からの感謝を述べながら、柳機の両目いっぱいに光るものがあふれていく。

 柳機と華昌国との因縁は、かつて夏賛が七国統一を目指した時代にまで遡る。

 華昌国軍に連戦連勝を重ね、ついには王都・華都かとを陥落寸前まで追いやった柳機は、ほかならぬ夏賛の命令によって撤退を余儀なくされた。

 戦で敵に敗れたならまだしも、国許くにもとの困窮を理由とする遠征の打ち切りは、生粋の武人である柳機にはおよそ受け入れがたいものだった。

 あと一歩で華昌国を滅ぼせたものを――――。

 そんな忸怩たる思いが、柳機の心に夏賛と成夏国への激しい憎悪を育み、ついには朱鉄を擁立しての革命へと至ったのである。


「亮善、華昌国攻めの先陣はこの儂がいただくぞ」


 柳機の言葉には、有無を言わせない迫力が宿っている。

 二人の将軍のあいだに言葉はなく、どちらも凝然と互いの瞳を見据えている。

 朱英が即答出来なかったのも無理からぬことだ。

 先陣を担うということは、たんに戦場への一番乗りを果たすというだけではない。

 ことに攻め込む側にとっては、気力・体力ともに充実した無傷の敵と真正面から衝突することにほかならない。

 言うまでもなく、攻め手の損害は甚大なものになる。

 事実、過去の合戦における死傷者の大半は、最初の衝突の際に生じているのである。

 それほど危険な任務ということもあって、先陣はふつう軍中でもとくに勇猛な武将とその部隊が担うものとされている。

 昴帝国ならば、四驍将しぎょうしょうきっての武闘派である鍾離且しょうりかつ、あるいは最年少の若き猛将・黄武おうぶのどちらかの役回りと決まっているのだ。

 朱英に次ぐ軍の重鎮である柳機がまっさきに敵地に飛び込んでいくなど、本来であれば絶対に許されない暴挙であるはずだった。


 もだしたままの朱英を横目で見やると、柳機はにやりと口角を上げる。

 その顔貌は、まぎれもない古強者の風格に加えて、初陣を前にした少年のような期待に満ち満ちている。


「たとえ駄目だと言われても、儂は行くぞ。亮善よ」

「大将軍……」

「思えばずいぶん遠回りをしてきた。それでもこの老骨に鞭打ってきたのは、いずれ華昌国と決着をつける日を夢見たからこそよ。この身体が自由に動くのは、おそらく次の戦が最後であろう。いずれ死ぬ身であれば、せめて悔いなく逝きたいものよな」


 朱英は視線を逸らすと、ふっと息を吐いた。

 空を見上げれば、いつのまにか薄雲はすっかり失せている。

 細い三日月からはやわらかな光が霏々と降り注ぎ、庭園に二人分の不揃いな影が長く伸びた。


「来春の雪解けを待って出陣します。年明けまでには占領地から四驍将を呼び戻し、遠征軍の編成に取り掛からなければなりません」

「ふむ――」

「第一陣の指揮は大将軍に。この戦の幕開けを担う大役は、あなた以外にはありえません。これは私ではなく、さきほど直々にことづかった皇帝陛下のご意向です」


 朱英の言葉に、柳機はかっと両目を見開いていた。

 やがて柳機の唇から漏れ出したのは、嗚咽とも歓声ともつかない呻吟だった。

 久しく忘れていた感動が老体をすっかり満たし、言葉にならぬ歓喜の声が腹の底から沸き起こっているのだ。

 遠吠えをする狼のごとく、老将軍は三日月にむかって声のかぎりに叫び声をあげる。


「待っておれよ、華昌国。今度こそ、儂がきっちりと滅ぼしてやるからなあ――――」


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