第四章 七天争覇編

第102話 予兆(一)

 甘やかな香りが風に流れていった。

 よく熟れた杏子アンズの実の匂い。

 かつて宮中に参内するたび、鼻孔をくすぐった懐かしい香り。

 それが幻であることを、朱英しゅえいはむろん承知している。

 周囲に視線を巡らせるまでもなく、芳しい香気を生じさせるものなど、ここには何ひとつありはしないのだから。

 かつて大庭園を所狭しと埋め尽くした季節の樹木は一掃され、見渡すかぎりの視界には無骨な牆壁と監視楼だけが立ち並んでいる。


 七星宮――。

 ボウ帝国の首都・成陽の中心部に築かれたは、皇帝・朱鉄しゅてつの居城でもある。

 およそ風趣とは無縁の佇まいは、まさしく帝国の質実剛健な気質を体現したようでもあった。

 大官府だいかんぷから謁見の間へと続く長い渡り廊下を、朱英は黙念と歩き続けている。

 例のごとく、登城の際の供回りは副官の鐘渙しょうかんただひとりである。


 延黎国えんれいこくの王都・延封えんふうを陥落させ、なおも抵抗を続けていた各地の残党をことごとく平定した朱英が帰国の途に就いたのは、十月も半ばに差し掛かったころだった。

 旧延黎国領内には四驍将しぎょうしょうが駐屯し、いまなお各地に睨みを効かせているが、それもあくまで建前上のことだ。

 延黎国にとって唯一の希望であった陸芳りくほうと、その堅固さにかけては七国随一と讃えられた難攻不落の名城・延封がはやばやと失陥した時点で、同地における軍事的な脅威は完全に消滅したと言っても過言ではない。

 事実、たびたび生じた散発的な反乱は、いずれも三日と経たずに鎮圧されている。言ってしまえば、それは地上から消えゆく国家の最後の悪あがきであった。

 そうした反乱がようやく沈静化したところで、朱英は柳機りゅうきとともに本陣を引き払ったのである。

 ここから先は占領統治を担う文官の領分であり、もはや武官に出来ることは残っていない。

 むろん、統治を円滑に推し進めるために軍事力は不可欠である。占領地にあらたな法を敷き、帝国本土に準じた税制を整備するためには、目に見える形で軍の存在を示し続けなければならない。

 その一方で、もはや戦うべき敵がいない場所に、戦の申し子たる朱英がいつまでも留まり続ける理由はないのである。

 朱英が本国に舞い戻った理由は、しかし、それだけではない。


(すでに義兄あには次を見据えているだろう――――)


 延黎国を攻め滅ぼしたのは、朱鉄が構想する遠大な計画の序章にすぎない。

 すくなくとも、朱英はそのように考えている。

 鳳苑国ほうえんこくと延黎国は、いずれも成夏国せいかこくに従属していた国々である。

 名目上の独立こそ保たれていたものの、その実態は成夏国の下僕しもべも同然であり、かつては亡き国王・夏賛かさんに命じられるがままに華昌国かしょうこくとの戦にさかんに兵と糧秣を送っていたのだ。

 その両国を完全に併呑したことで、昴帝国はようやく全盛期の成夏国の支配圏を取り戻したことになる。

 言ってみれば、昴帝国はここに至ってということでもある。

 朱鉄にとって、七国の大半を掌中に収めたことは、言うまでもなく到達点などではない。

 夏賛の覇業を継承し、かの王が志半ばで捨て去った遠大な野望――七国統一を現実のものとするためには、さらなる勝利を重ねる必要がある。


(ならば、次の標的は……)


 心中でぽつりと呟いて、朱英は瞼を閉じる。

 あえて視界を遮ったのは、そうすることで、心にまとわりつく雑念を振り払おうというのだ。

 義兄の思惑が那辺なへんにあろうとも、軍人である自分のなすべきことはひとつ。

 義兄の剣となってひたすらに敵を討ち、その手に天下を掴み取らせること。

 いにしえの賢人の言葉どおり、兵は不祥の器である。ひとたび軍が動けば数えきれないほどの人間が死に、天下におそるべき災厄をもたらす。

 それは敵に対してだけでなく、自軍の将兵にとっても同じことだ。

 だからこそ……と、朱英は自分自身に言い聞かせる。

 これまで以上に心を捨て去らなければならない。

 純粋な凶器に徹することが出来なければ、壊れてしまうのは自分のほうなのだから。


***


 謁見の間に入ってすぐ、見慣れない男の存在に気づいた。

 玉座の傍らに端座した男は、朱英が入ってきたことに気づくと、その場で器用に身体を半回転させる。

 人懐っこい面立ちの青年であった。

 年齢はまだ三十歳にはなっていないだろう。

 日焼けした肌と、赤と黄色が大胆に配された奇抜な柄の着物が目を引く。

 色が抜けたような薄茶色の頭髪は、幼いころから潮風を浴びている海辺の住人にしばしば見られる特徴だった。

 およそかどというものが感じられない柔らかな雰囲気は、どことなく猫を彷彿させた。


「お目にかかれて光栄です、朱英どの――――」


 青年はうやうやしく頭を垂れると、白い歯を見せながら微笑する。


武竜吉ぶりょうきつと申します。なにとぞお見知りおきを」


 にこやかに挨拶をした青年に対して、朱英はおもわず身構えていた。

 七国において姓を名乗ることが許されているのは、玄武国げんぶこくの王族を置いてほかにない。

 玄州とも呼ばれる玄武国は、七国の最南端に位置し、最東端の海稜国かいりょうこくとともに大海に面した数少ない国のひとつである。

 北方の沙蘭国さらんこくと同様、玄武国も異民族と領域を接していることから、その文化風俗はあきらかに中原とは趣を異にしている。

 よくよく武竜吉の全身を眺めれば、手首と足首に奇妙な紋様の刺青いれずみが入っていることに気づくのはたやすい。

 中原においては罪人や戦争捕虜の烙印とされている刺青も、どうやら玄武国ではまったく別の意味合いを持っているらしい。


 それにしても、玄武国の王族が昴帝国の中枢で何をしているのか?

 いまのところ表立って敵対関係にはないとはいえ、昴帝国が七国統一を掲げていることは周知の事実である。

 もともと成夏国時代から疎遠な国同士ということもあり、朱英としては警戒心を抱くのも当然だった。

 にこにこと人のよさげな笑顔を浮かべる武竜吉に、朱英はぎこちなく挨拶を返すのがせいいっぱいだった。

 

「英。延黎国への遠征、ご苦労だった」


 義兄に声をかけられて、朱英ははたと我に返ったように顔を上げた。


「皇帝陛下のご期待に沿うことが叶ったのであれば、この朱亮善、無上の喜びに存じます」

「戦の経緯は聞き及んでいる。みごとな軍略であった。お前でなければ、延封を攻め落とすには何年かかっていたか知れぬ」

「私ごときにもったいないお言葉にございます……」


 言って、朱英はちらと義兄を見やる。

 玉座の主となったいまも、朱鉄は二十代の頃と変わらぬ若々しい姿を保っている。

 顔色も悪くはない。冕冠べんかんを頂いた顔貌は、帝王らしい冷厳な気迫に満ち満ちている。

 激務のために健康を害しているのではないか……そんな心配が杞憂に終わったことを知って、朱英は内心でほっと安堵の息を吐いた。

 そんな朱英の心中を知ってか知らずか、朱鉄は切れ長の目を武竜吉へと向ける。


「紹介するのが遅くなった。そこなる者は玄武国王である。ちょうど今朝がた成陽に到着したところだ」

「え?」


 こともなげに言った朱鉄とは対照的に、朱英はかっと目を見開いていた。

 名前から玄武国の王族であることは察しがついていたものの、それもせいぜい王家の血縁者であろうという程度の意味合いである。

 よもや玄武国王その人であろうとは、さしもの名将・朱英も予想だにしていなかったことであった。

 武竜吉は呵々と大笑すると、いかにも愉快げに膝を叩く。


「皇帝陛下もお人が悪い。ごらんなさい。朱英将軍が困っておられる」

「これは、国王陛下に大変な無礼を――」

「なにを詫びることがありましょう。皇帝陛下の義弟おとうとであるあなたに較べれば、私などはしょせん僻地の一領主にすぎないのです。礼を尽くさねばならないのはこちらのほうだ」


 言い終わるが早いか、武竜吉はじっと朱英の顔を見つめる。

 髪と同じ薄茶色の瞳には、すべてを見透かすような奇妙な力が宿っている。

 その眼力をまともに受けても、朱英は目を逸らすことなく、四つの瞳は見えない線によって結ばれたようであった。

 

「これでも人相見には自信があるのです。玄武国の王がなぜここにいるのか――あなたはそう思っておいでだ。違いますか?」

「……」

「人に心を覗かれるのは気分がいいものではないでしょう。このあたりでやめておきます。私もあなたほどの武将を怒らせたくはない」


 武竜吉は居住まいを正すと、こほんとちいさく咳払いをする。

 ふいに真面目な顔つきになった青年は、よく通る声で朱英に告げたのだった。

 

「私がここにやってきたのは、あなたがた昴帝国に降伏するためですよ」

「なんと――――」

「いまや昴帝国は飛ぶ鳥を落とす勢い。中原の最強国であることは、天下の誰もが認めているところです」

「つまり、玄武国は戦わずして敗北を認めるということですか」

「そういうことです。残念ながら、わが国には朱英将軍に太刀打ち出来るほどの傑物はおりません。最初から結果が見えている戦のために、金銭と生命をむざむざと浪費するほどの愚行はありますまい?」


 あっけにとられたように見つめる朱英から視線を外した武竜吉は、ふたたび玉座に身体ごと向き直る。


「わが玄武国は、古くから諸国との交易によって富を蓄えてきた商人の国。昴帝国と戦うのではなく、金銭面で陛下の覇業をお手伝いしたいのです」

「なにが言いたい、玄武国王」

「このさき、華昌国と雌雄を決するためには莫大な戦費が必要となりましょう。失礼ですが、現在の税収だけではいささか懐が心もとないのではございませんか? かといって重い税を課せばそれだけ民は疲弊し、ゆくゆくは反乱にも繋がりかねない……」


 武竜吉の面上を占めたのは、先ほどまでの人のいい笑顔ではない。

 計算高く狡猾な商人の、それは見えない算盤そろばんを弾く表情にほかならなかった。


「大軍を派遣して他国を攻め滅ぼし、領土を広げるたびに、帝国の財政は悲鳴を上げておりましょう。かつて夏賛王が天下統一を目前にして野望を諦めざるを得なかったのも、覇業のあまりの速度に財政が追いつかなかったがゆえ……」

「玄武国は昴帝国に金銭面での支援を行い、その見返りに独立を保証させようというのか?」

「さすがは皇帝陛下。ご明察のとおりにございます――――」


 武竜吉はと唇を歪ませると、深々と額づいてみせる。

 やがて、顔を伏せたままの国王の口から流れたのは、中原の整った言葉遣いではなく、おそろしく強い南方訛りだった。


「わしら商人あきんどにとって大事なんは利と益。金銭ゼニで無駄な戦が避けられるなら、喜んであんたはんの財布にでもなりまひょ。あんじょうよろしゅう頼みまっせ、朱鉄はん――」

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