第103話 予兆(ニ)

 いつのまにか降り出した雨は、気づいたときには雷雨へと変わっていた。

 武竜吉ぶりょうきつが辞去した謁見の間には、朱鉄と朱英だけが残された。

 義兄弟のあいだに言葉はなく、雨音だけがやけに喧しい。

 薄暗い室内がふいに明るくなったかと思うと、地鳴りのような遠雷が轟いた。

 重い沈黙のなか、最初に口を開いたのは朱英だった。


「次は華昌国を攻めるのですか」


 朱鉄は何も言わず、ただ薄く眼を開いただけだ。

 それが皇帝の返答だった。

 朱英はすべてを理解しながら、なおも義兄との対話を諦めようとはしなかった。

 最高権力者である朱英に直言することが出来る人間は、義弟である自分をおいてほかにいない。

 どれほど恐ろしくとも、その視線から逃れることは許されないのだ。


「おそれながら、先の遠征で軍は疲弊しております。あと三年、兵と民を休ませる時間をいただきたいのです。そうすれば、なにも玄武国げんぶこくにあのような形で金銭の援助を求めずとも……」

 

 切々と訴える朱英に、朱鉄は眉ひとつ動かさずに坦々と応じる。


「立ち止まることが上策と思うか、英」

「僭越を承知で申し上げるなら、私にはそのように思えてなりません」

「天下の情勢は刻々と動き続けている。三年のあいだ猶予を与えれば、瀕死の血脈はふたたび息を吹き返すであろう」


 朱鉄の言葉の意味するところは、朱英にも即座に理解できた。

 急速に勢力を拡大した昴帝国に対して萎縮している諸国も、このまま従容と現状を受け入れるとは思えない。

 互いにいがみ合い、争い合っていても、七国には聖天子の末裔という確固たる紐帯が存在している。

 呪いにも似た数百年来の血の絆。

 そうでなくとも、七国という枠組みそのものを破壊しようという挑戦に対しては、いずれの国も等しく危機感を抱いているはずであった。

 瀕死の血脈が息を吹き返すとは、現存する国々が反昴帝国を掲げて結束することにほかならない。

 すでに水面下で秘密裏に同盟が結ばれ、着々と反攻の準備が進んでいるかもしれないのだ。

 昴帝国がここで侵攻の手を休めることは、敵対者にとっては願ってもない好機の到来を意味する。


「華昌国が我らに敵対する者たちの柱になると、陛下はそのようにお考えなのですか」

「敵の立場で物を考えるのは、英よ、おまえの最も得意とするところではないか」

「たしかに敵が結束する前にその目論見を挫くことは戦の上でも道理に適います。しかし――」


 それだけ言って、朱英は言葉を切った。

 何を言ったところで、義兄の意志を変えられるとは思えない。

 初めて出会ったときから現在いままで、義兄の判断はつねに正しかった。

 天下の大局、そして時代の潮流……。

 軍人である自分にはけっして見えないものが、この怜悧な義兄には見えている。

 そのような義兄だからこそ、朱英はおのれの全身全霊をかけて忠義を尽くしているのである。

 いまも義兄と彼の帝国に対する忠誠には一点の曇りもない。

 軍が疲弊しているというなら、ための方策を講じるのが朱英の役目ではないか。

 すくなくとも、もっともらしい理屈を捏ねて義兄の意思を阻むことは、自分に期待されている役割とはおよそ相容れない態度であるはずだった。


 朱鉄は押し黙ったままの朱英をちらと一瞥すると、


「英、ついてくるがいい。面白いものを見せてやろう」


 言って、玉座から音もなく立ち上がった。

 義兄に置いていかれまいと、朱英も急ぎその後を追う。

 二人が足を踏み入れたのは、謁見の間に隣り合った薄暗い小部屋であった。

 部屋の中心は、周囲の床よりも一段高くなっている。

 神を祀る祭壇のようなその一角に、布に覆われた物体が置かれていることに気づいて、朱英はおもわず身構えていた。


「陛下、ここは……」

「おまえが戻ってくるすこし前、延黎国の王宮から接収したが届いた」

「戦利品……ですか?」


 訝しげに問うた朱英に見せつけるように、朱鉄は布を取り去ってみせる。

 布の下から現れたのは、磨き上げられた青銅の大皿と秤だった。

 その傍らには、細かな目盛りが刻まれた棒状の器具も置かれている。


「これがなにか分かるか、英よ?」

「度量衡の基準器もといのように見えます」

「そのとおりだ。延黎国はこれらを用いて尺貫を定め、貨幣に含まれる金の比率を量っていた。延黎国だけではない。成夏国せいかこく鳳苑国ほうえんこくも、やはりこうした基準器を保有していたのだ」


 朱鉄はひとりごちるみたいに呟くと、長い指で基準器をなぞる。


「じつに愚かなことだ。七国はそれぞれ異なる度量衡の基準を用い、ひとつとして合致するものはない。法や税制にしてもおなじことだ。どうして異なる基準を用いる必要がある? 国同士のあいだで物を行き来させる際に無駄な手間を生じさせるほかには、なんの意味もありはしないというのにな……」

「お言葉ですが、陛下。国が分かれているのであれば、それもやむを得ないことかと存じます」

「それでも我らが戴く天はただひとつなのだ、英よ。どこの国であろうと水は水、土は土であることに変わりはない。人が作り出した尺度に惑わされ、その真理から目をそらしてはならぬ」


 いつになく強い口調で言い切って、朱鉄は頭上を指差す。

 その指先にあるものは、どれほど目を凝らしても見ることの出来ないはるかな高み。

 かつて数多の王が求め、叶わなかった天へと、朱鉄もまた手を伸ばそうというのか。


「英、おまえにはあらためて言っておく。天下にこれほど多くの国は不要だ。かつて聖天子は、ようやくひとつにまとまった天下を九つに割るという過ちを犯した。その結果が七百年に及ぶ乱世なのだ。ここで愚かな繰り返しに終止符を打たなければ、我らは永遠とわにこの停滞の輪から脱することは出来ぬ」

「陛下は、ご自分が唯一の天になろうとお考えなのですか」

「違うな。……人が天になどなれるものか」


 常と変わらず沈着な声で答えると、朱鉄は秤を掴み上げる。

 義兄の身体から迸った不穏な気を察知して、朱英はおもわず身を乗り出しかけていた。

 すんでのところでそれを押し留めたのは、何があろうと義兄の邪魔をしてはならないという無意識の自制心だった。


「人間の生命には限りがある。どう足掻いたところで天には届かん。我らに出来るのは、天の下を平らかにすることだけだ」

「陛下……いえ、義兄上あにうえは、天下を分かつ国そのものを消し去ろうというのですか」

「そうだ。かつて夏賛が成し遂げられなかった大志を私が継ぐ。そのためには、英、おまえの力がどうしても必要だ」


 刹那、部屋を領したのは、甲高い金属音だった。

 床に叩きつけられた秤が砕け散る音。精緻きわまりない計測器は見る影もなく毀損され、たとえ修復したところで二度と本来の役目を果たすことはない。


 物音を聞きつけた衛兵が駆けてくる足音を聞きながら、朱鉄は満足げに朱英を見やる。

 皇帝の整ったかんばせを占めたのは、恐ろしくも凄絶な笑みだ。

 背筋が凍りつくような怖気おぞけを覚えながら、朱英は義兄から目を逸らすことが出来なかった。


「我が亡き後に帝国が滅ぶというなら、それもよい。もとより永劫に続く国家などあろうはずもないのだからな」

「義兄上……」

「そうなったとしても、我らの行いはかならずや人の世に爪痕を残す。かつてすべての人が唯一の天を戴いていた時代があった。盤石なる法、揺るぎのない度量衡、それらが人の世にどれほど巨大な恩恵をもたらしたかを、我らがこれから証明するのだ」


 彼方で稲光が閃いた。

 一瞬の光芒に照らされて、二人の影が長く床に伸びる。

 耳を聾する雷鳴が立て続けに鳴り渡るなか、朱英は無意識に跪いていた。


「ひとつだけおたずねいたします。昴帝国が諸国を滅ぼしたなら、戦なき世が訪れるでしょうか」

「むろんだ。もはや戦でいたずらに人命が失われることも、戦費を捻出するために民に重い年貢を課すこともない。戦なき世にあっては人はより豊かに、国はいっそう富むであろう。たとえそれが一時のものであったとしても、ひとたび現実のものとなったなら、永く人の世の模範となるだろう」


 朱英の頬を熱いものが伝っていく。

 軍人である自分自身を否定するかのごとき言説。

 それは、しかし、ほかならぬ朱英自身が願ってやまない未来でもあった。

 自分の才能が凶器として用いられることのない世が、ほんとうに訪れるというなら。


「その言葉を信じます」


 決然と言い放った朱英の表情には、もはや一片の迷いもない。

 ふたたび差し込んだ雷光のなかに浮かんだのは、無敗の将軍にふさわしい威容だった。


「たとえこのさき、なにがあろうとも。亮善はよろこんで義兄上あなたの剣となりましょう――――」

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