第85話 残影(三)

 沙京さけいの町外れに、その屋敷はぽつねんと佇んでいる。


 さほど大きな屋敷ではない。

 申し訳程度の門構えがなければ、外からは一般の住居とほとんど見分けがつかないだろう。

 沙蘭国さらんこくで広く用いられている日干し煉瓦の白壁と、飾り気のない暗褐色のいらかの組み合わせは、貴人の邸宅にありがちな華美さとはまるで無縁だった。

 まだ陽も高いというのに、庭に面した木戸はいずれも固く閉ざされ、周囲にはひどく陰鬱で侘しい風情が漂っている。


 王扶建おうふけんがこの屋敷で暮らすようになったのは、いまから二年ほど前のこと。

 先祖代々の広壮な家屋敷を引き払った王扶建は、妻とわずかな使用人だけを連れて、人目を忍ぶように新居に移ったのである。

 誰に命じられた訳でもなく、みずからすすんで蟄居するような行動を取ったのは、息子である王子季のしでかした不祥事が理由であることは言うまでもない。

 総司令官の地位を返上することも、自害して主君に詫びることも許されなかった男の、それはせめてもの償いだった。

 それからというもの、王扶建は主命のないかぎり自邸から一歩も出ようとはせず、公的な場には一族の者が代理で出席することが常態化していた。


 国軍の総司令官が隠居同然の状態にあるにもかかわらず、沙蘭国はかつてないほどの平和を享受している。

 従来に較べて国境での武力衝突があきらかに減少しただけでなく、叛複常なかった国内の諸部族も、この数年は不気味なほどに鳴りを潜めている。

 蛮族のあいだでは、白面将軍の威名がいまなお畏怖の対象となっているためだ。

 どれほど部族の有力者が叛乱を鼓吹したところで、軍事力の中核を担っている戦士層の賛同が得られなければ、実際に行動を起こすことは出来ない。

 その戦士たちの心には、かつて白面将軍との戦いで抜きがたい恐怖が扶植されているのである。


 復讐を胸に誓い、長い雌伏の時をすごす蛮族の戦士たちは、知る由もなかった。

 彼らが蛇蝎のごとく忌み嫌う白面将軍が、人知れず沙蘭国を去っていたことを。

 そして――いま、やはり人知れず帰還を果たしたことも、また。


***

 

 門前で馬車を降りた怜は、監視と護衛を兼ねた兵士たちに付き添われて、屋敷の内部に足を踏み入れた。


 それから、すでに半刻(一時間)あまりが経っている。

 ろくに家具も置かれていない殺風景な部屋には、怜のほかには誰もいない。

 だからといって、妙な動きをすれば、廊下に立っている兵士たちが即座に踏み込んでくるはずだった。

 昏倒しているあいだに長剣を取り上げられて、いまや怜はまったくの無腰なのだ。名にし負う白面将軍といえども、武装した複数の兵士が相手では勝算は乏しい。

 先ほどから怜が身じろぎもしないのは、この状況で逃亡や抵抗を企てるのは得策ではないと理解しているためだけではない。

 怜の推測が正しければ、のはずであった。


 と、ふいに部屋の戸が開いた。

 戸板を押しのけるようにぬっと姿を現したのは、魁偉な偉丈夫だ。

 長身の怜よりも、さらに頭一つ分ほど上背がある。

 胸板と肩周りの分厚い筋肉は、ゆったりとした官服の上からでもはっきりと見て取れるほどに隆起している。

 引き締まった四肢だけを見れば、三十代の青年と言っても充分に通用するだろう。

 そんな若々しい身体に反して、七割まで白く染まった頭髪と、深い皺が刻み込まれた顔貌は、老人のそれにほかならなかった。

 

「久しぶりだな、親父。しばらく会わないうちに、ずいぶん老け込んだじゃねえか」


 怜は飄々と言って、王扶建に藍青色ラピスラズリの視線を向ける。


「それとも、と呼んだほうがいいか? 俺の本当の父親が誰かくらい、とっくに知ってるんだぜ」


 王扶建は答えず、怜の傍らで足を止めた。

 父子のあいだを沈黙が満たしていく。

 どちらも黙したまま、時間さえも凝固したようだった。

 やがて、王扶建は苦衷に耐えかねたように目を瞑ると、ひとりごちるみたいに呟いた。


「なぜ戻ってきた、子季?」


 王扶建はその場に立ち尽くしたまま、一語ずつ塊を吐き出すように言葉を継いでいく。


「国王陛下は、お前を赦免する代わりに無期限の国外追放を命じられたのだ。あれほどの大罪を犯しておきながら、よくも陛下のご厚情を……」

「勘違いするなよ。俺だって、好き好んでこんなロクでもねえ国に戻ってきた訳じゃねえ」

「ならば、なにゆえ――」

「あんたに成夏国の王女を預けるつもりだった。それが済んだら、さっさと出ていくつもりだったさ」


 王扶建の面上を驚嘆の色が渡っていく。

 歴戦の将軍らしく、みずからの感情を巧みに御した王扶建は、ふたたび怜に視線を向けると、厳かな声で問うた。


「それは真実まことか、子季?」

「あんたも夏凛って名前くらい聞いたことがあるだろう。国王にとっちゃ実の姪だ。ボウ帝国の刺客に追われてたくらいだから、本人であることは間違いねえ」

「そうだとして、とてもこの私の手に負えるような問題では……」

「俺だってべつにあんたに王女の身柄をどうこうしてもらおうなんて思っちゃいない。あの袁王妃ババアに気づかれる前に国王のところに連れていくために、あんたに仲介してもらいたかっただけだ。国王の幼馴染のあんたなら、いまでもそのくらいの融通は利くだろうと思った」


 言って、怜は自嘲するように鼻を鳴らす。


「もっとも、それもぜんぶ水の泡だがな。俺も、あいつも、いよいよ命運が尽きたって訳だ」

「夏凛王女は、王妃さまのところへ連れて行かれたのだな?」

「俺はそう聞いてる。あのずる賢い女狐が、滅んだ国の王女なんて厄介事の種を生かしておくはずはねえことくらい、あんただって分かってるはずだ」


 王扶建は何かを言おうとして、ぐっと言葉を飲み込む。

 その様子を返答に窮したと理解したのか、怜はふっとため息をついた。

 失望と落胆に、するどい軽蔑の棘が混じったため息を。


「俺からの話はそれだけだ。今さらお互いに話すこともないだろう」

「子季……」

「その名で俺を呼ぶな。とっくの昔に捨てた名前だ」


 怜は王扶建をちらと見やると、寂しげに目を細めた。


「死ぬ前に、せめて明蓮めいれんの墓参りくらいはしたかったがな――」

「表立ってあの子を弔ってやることが出来ない事情は、お前とて分かっているはずだ」

「あいつは最期まであんたのことを実の父親だと信じていたんだ。本当の父親が別にいるだなんて、一度だって思いもしなかっただろう」


 無言で俯いた王扶建に、怜は責めるでもなく、あくまで切々と語りかける。


「俺が死ねば、明蓮のことを弔ってやる人間は誰もいなくなる。べつに墓を作れとは言わない。ただ、あんたが生きているあいだは、せめて娘のことを憶えていてやっていてくれないか」

「ならば、この先もお前が憶えていればいい……」

「どういう意味だ?」


 訝しげに問うた怜に、王扶建は無言で首肯しただけだ。

 その真意を計りかねた怜がふたたび問いを発しようとするのを遮るように、王扶建は常にもまして低い声で語りはじめる。


「王妃さまは、なにがあろうとお前を殺しはすまい」

「さっきからなにを言っている、親父?」

「お前だけではない。夏凛王女の生命も、あの御方はきっと救おうとなさるはずだ」

「ふざけるなよ――――」


 勢いよく席を蹴立てた怜は、そのまま王扶建の胸ぐらを力任せに掴んだ。

 体格では王扶建のほうがいくぶん優位とはいえ、反射神経や瞬発力は齢相応に衰えている。

 怜の手をはねのけることも出来ず、老将軍はその場で足を踏ん張るのが精一杯だった。


「あの悪賢い女狐が、そんなことをする訳がない!! 俺もあいつも殺される。あの夜、しん夫人や明蓮が殺されたようにな!!」

「お前はいまでも王妃さまを憎んでいるのか」

「当然だ!! 出来ることなら、いまからでもこの手であの女を殺してやりたいと思ってるさ。二人の無念を晴らせるのなら、俺なんかどうなってもいい――――」


 言い終わる前に、怜の身体は宙を舞っていた。

 かろうじて受け身を取った怜は、苦しげな呻吟を漏らす。

 王扶建が繰り出した鉄拳がまともに鳩尾みぞおちに入ったのだ。

 激しく咳き込みながらも、怜は悪鬼の形相で王扶建を睨めつける。


「親父、てめえ……なにしやがる!!」

「いい加減に目を覚ませ、子季」

「ざっけんな!! それとも、てめえ、まさかあの王妃ババア走狗イヌに成り下がりやがったのか!?」


 怒りに満ちた叫びと同時に繰り出した右拳は、王扶建の分厚い掌に受け止められていた。

 間髪をいれずに飛んだ左の拳も同じように掴み取ると、王扶建はぐっと腰を低くする。

 父と子は真っ向から四つに組んだまま、どちらも一歩も譲らない。

 

「王妃さまがどんな思いで日々を過ごされてきたか、お前は知るまい」

「だまれ、クソ親父!! あの冷血ババアの話なんぞ知ったことじゃねえ!!」

「そうだとしても、お前は知らねばならぬのだ」


 額に汗の玉を光らせながら、王扶建は訥々と言葉を紡いでいく。


「あの夜の真実を――そして、いま、この沙蘭国でなにが起こっているのかを……」


***


 袁王妃に導かれるまま、夏凛は長い列柱廊を進んでいく。

 いつのまにか司馬準の姿は見えなくなり、白い廊下に夏凛と袁王妃の影が長く伸びた。

 尖塔がそびえる白亜の宮殿を横目に、廊下は庭園を横切るように続いている。

 その終点に建つのは、半球ドーム状に盛り上がった天井をもつ離宮であった。

 離宮の正面を守っていた衛兵たちは、袁王妃の姿を遠目に認めたとたん、さっと左右に分かれていく。

 やがて、乳鋲が打たれた重厚な扉の前で足を止めた袁王妃は、

 

「この先に国王陛下がおられる――」


 それだけ言って、夏凛に目配せをした。

 先に進むように言っているのだと理解して、夏凛はおそるおそる把手に触れる。

 いかにも重たげな扉は、しかし、意外なほどあっけなく開いた。

 

「……失礼します」


 陽光の降り注ぐ屋外から一転して、室内は薄闇に満たされている。

 夏凛は足元を確かめるように、慎重に先へ進んでいく。

 やがて、闇に慣れはじめた視界に浮かび上がったのは、四本の柱に支えられた天蓋付きの寝台ベッドだった。

 目を凝らすまでもなく、誰かが横たわっていることはすぐに分かった。


「あの、国王陛下でいらっしゃいますか……?」


 いくら王妃の許可を得ているとはいえ、貴人の寝室に無断で踏み込むことは最大の非礼にあたる。

 足音を立てぬよう気をつけながら、夏凛はこわごわ寝台を覗き込む。


 はたして、寝台の上に横臥しているのは、ひとりの男だった。

 よほど熟眠しているらしい。男は夏凛が近づいても目を覚ます様子もなく、すやすやと規則正しい寝息を立てている。

 薄暗いためはっきりとは見えないが、年齢は五十を過ぎたかどうかというところ。

 くっきりと通った鼻筋と、力強い顎の造形は、辺境の君主にふさわしい器量と豪胆さを表しているようであった。


 男の顔を見つめるうちに、夏凛は不思議な感慨を覚えていた。

 今日が初対面であるにもかかわらず、どこかで会ったことがあるような気がする。

 そうだ――よく知っている誰かに似ているのだ。

 誰に似ているのかまでは分からない。すくなくとも、物心つくまえに死別した母ではないはずだった。


 袁王妃が近づいてくるのを感じて、夏凛はさっと身体を翻した。

 

「この御方こそ我が夫、そして、そなたの伯父である蘭逸らんいつ陛下よ」

「あの……王妃さま、陛下がお休みのところにお邪魔してしまってよかったのですか?」

「なんの、構いはせぬわえ」


 袁王妃はすげなく言って、眠り続ける国王の髪をそっと撫でる。

 眠る夫の額を心底から愛おしげに撫でながら、王妃はぽつりと呟いた。


「国王陛下は、もう半年も目を覚ましておらぬのだからのう――――」

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