第84話 残影(ニ)

「王妃さまは、私のお母様をご存知なのですか?」


 わずかな沈黙のあと、夏凛はえん王妃に問うた。

 隻眼の王妃は、鉄面のような顔容をふっとほころばせると、


「おまえは知らなかったのかえ」


 いかにもおかしげに言って、長椅子から立ち上がった。


「わらわの母は、耀花ようか乳母めのとであった。わらわとは、乳姉妹ちきょうだいということじゃ」


 言い終わるが早いか、袁王妃はさっさと歩き出している。

 夏凛も置いていかれまいとその後を追う。

 つかず離れずの距離を保って随従する司馬準を最後尾として、三人は色とりどりの花々が乱れ咲く庭園へと足を踏み入れていた。

 中原ではけっして目にすることの出来ない極彩色の景色も、夏凛の目には灰色にみえる。

 かつて少女の世界をまばゆいほどに輝かせていたものは、いまや痕跡も残さずに消え失せて、どうすれば取り戻せるのか見当もつかない。


「耀花とわらわは、幼いころからどこへ行くも一緒であった。お互いに実の姉妹よりもよほど長い時間を過ごしたほどにの。むろん身分が違うことは承知していたが、二人でいるときは気兼ねなくいみなで呼びあったものよ……」


 袁王妃の面上を、郷愁と哀惜とが綯い交ぜになった複雑な感情がよぎっていく。

 同時に夏凛の胸裡にあざやかに描き出されたのは、やはり二度とは戻らない遠い日の情景だった。


(私とせつもそうだった……)


 乳姉妹でこそないものの、幼いころからつねに夏凛の傍らに付き従っていた同い歳の少女。

 いつでも当たり前のようにそばにいて、どんな悩みも秘密も、二人で共有してきた。

 お互いに実の姉妹も同然に思っていたということも同じだ。


 その薛も、いまはもういない。

 二年前のあの夜――朱鉄しゅてつの謀反によって敵地と化した成陽せいようから自分を逃がすために、薛はみずからの身命をなげうった。

 あくまで成夏王家への忠誠を貫いた李家の一族がことごとく処刑されたことを思えば、薛が生きている可能性は万に一つもない。

 彼女がどんな最期を迎えたのかさえ、夏凛にはもはや知る術もないのだ。

 心がどうしようもなくうずく。

 無残なほどに乾ききり、ひび割れていた胸の奥底に、熱いものが奔騰するのが分かる。


 袁王妃はふいに振り返ると、夏凛の顔をまじまじと見つめる。

 ここで、夏凛はようやく自分がその場に棒立ちになっていることに気づいた。


「なにをぼうっとしている?」

「あの……ごめんなさい、私……」

「べつに謝らずともよい。ここまでの道行きで疲れてもいようからの」

「いえ……私、平気です」


 庭池にかかった木橋を渡りながら、袁王妃は懐かしむように言葉を継いでいく。


「あのころのわらわと耀花は、それぞれ別の家に嫁ぎ、子を産み、年老いても、ずっとこの沙蘭国くにで共に生きていくのだと信じて疑わなかった」

「……」

「よもや二度と会えなくなるなどとは、お互いに思いもしなかったものよ――」


 ため息をつくような袁王妃の言葉に、夏凛は悲痛な声で応じる。


「私のお父様が、お母様を無理やり奪っていったからですか」

「知っておるのかえ?」

沙蘭国さらんこくに来てすぐに聞きました。そのことが原因で、この国の人たちがお父様と成夏国を憎んでいることも……」

「おまえにとってはさぞ辛かろう。しかし、遅かれ早かれ、成夏王家の血を引く者としてかならず向き合わねばならぬことでもある……」

 

 二人は木橋の中央で足を止めた。

 それに合わせて、司馬準は橋のたもとで待機している。

 見渡すかぎりの広大な庭園は寂と静まり返って、周囲には人の気配もない。

 欄干で羽を休めている小鳥のほかには、袁王妃と夏凛の会話を盗み聞く者もいないはずであった。


「よく聞くがよい――おまえの父、夏賛かさんが武力によって沙蘭国を恫喝し、耀花を強引に我がものとしたのは、まぎれもない事実じゃ。七国一の美女と讃えられたあの子を娶ることで、夏賛はおのれの権威を諸国に示そうとしたのだろう」

「やっぱり……そうだったのですね……」

「当時の成夏国は、鳳苑国ほうえんこく延黎国えんれいこくを相次いで属国とし、華昌国かしょうこくを滅ぼさんとしていた中原の最強国であった。ただでさえ国力も人口も乏しいうえに、蛮族との戦いに兵力のすべてを傾けている沙蘭国には、成夏国王の理不尽な要求を拒否することなど出来ようはずもない」


 茫然と立ち尽くす夏凛をよそに、袁王妃はなおも語り続ける。


「先王陛下は心労のあまり病の床につき、王太子であった蘭逸らんいつは成陽に乗り込んで夏賛を殺すと息巻いておった。わらわも姉妹同然に思っていた耀花の行く末を案じ、毎日のように泣き暮らしたものよ。耀花は民にもいたく慕われておったゆえ、沙州人は老いも若きも成夏国王への憎しみに狂わんばかりになった……」

「もう結構です……王妃さま。私のお父様がどんなに沙蘭国の人たちに憎まれていたのか、よく分かりました……」

「慌てるでない。まだわらわの話は終わっておらぬ。人の話は最後まで聞くものじゃ」


 袁王妃の言葉には、有無を言わせない迫力が宿っている。

 夏凛はそれ以上抗弁することも出来ず、目を伏せたまま唇を噛む。

 くどくどと説明されなくても、分かっている。

 父がどれほど酷い男で、そんな男のもとに無理やり嫁がされた母がどんなに苦しんだのか。

 不幸の果てに産み落とされたのが自分だということも、また。


「周りの人間が悲嘆に暮れても、当の耀花だけは、どういう訳かすこしも悲しむ素振りを見せなかった。何故か分かるか、夏凛?」

「いいえ……お母様は、私が幼いころに亡くなってしまいましたから……」

「いよいよ輿入れが近づいたある日、わらわは耐えきれずに耀花に尋ねた。どうしてそうまで感情を押し殺し、平静を装っていられるのか。夏賛のもとに嫁ぐのが嫌なら、そうとはっきり言えばいい。そうすれば、沙州の人々は不戦の誓いを破ってでも、成夏国と戦う覚悟を決める……とな」

「お母様はなんと……」

「あの子はいつものように明るく笑って、わらわにこう言ったのじゃ――『私はあの方といくさをしにいくのよ』と」


 袁王妃の左目にやわらかな笑みが浮かぶのを、夏凛ははっきりと認めた。

 もう二度と会うことのない親友への思慕は、この上なくやさしいまなざしとなって夏凛に注がれている。


「それからのことは、おまえもよく知っていよう。……成夏国は天下統一を諦め、長年の戦争で疲弊しきっていた国土の復興に取り組みはじめた。かつては悖逆はいぎゃく無道の暴君として諸国に恐れられた夏賛は、ついには名君とまで呼ばれるほどにまでになった。耀花があの男の妻となってから、すべてが変わりはじめたのだ」

「それでは、お母様は――」

「おまえの母、蘭耀花は、みごとのじゃ。あの子の本当の胸のうちは、この広い天下でもわらわしか知らぬ。耀花はけっして暴君に略奪された憐れな姫君などではない。あの子はみずからの運命と戦い、どんな豪傑にも不可能な偉業を成し遂げたまことの英雄よ」


 次の瞬間、夏凛の身体がおおきく傾いだ。

 袁王妃が腕を伸ばし、自分の胸に抱き寄せたのだ。

 あっけにとられた夏凛に、王妃は我が子を慈しむように語りかける。


「人間の幸不幸は、他人には分からぬもの。思い出してみるがいい。おまえが知る夏賛はいかなる人物で、成夏国はどのような国であったか?」

「お父様は誰にでも優しく慈悲深い方で……成夏国は平和で豊かな国でした……」

「ならば、それがすべてじゃ。過去がどうあれ、人も国も絶えず変わっていくもの。一度も過ちを冒さなかったものなど、この世にあるものか。おまえも耀花の娘であるなら、俗人の言葉に惑わされることなく、母が戦って勝ち取ったものだけを信じるがよい」


 王妃の胸に抱かれた夏凛は、一度は乾いたはずの涙が澎湃と溢れていくのを感じていた。


 発端はたしかに不幸であったかもしれない。

 それでも、母はみずからの運命と戦い、そして、みごと勝利を収めたのだ。

 何も恥じることはない。誰に憚ることもない。

 この身体を流れる二つの王室の血は。

 父母が生きた無二の証は。

 けっして忌まわしいものなどではないのだから。

 もう二度と戻ることはないと思っていた希望と誇りが、夏凛の胸をいっぱいに充たしていく。

 世界がふたたび輝きと色彩を取り戻していくさまを、夏凛は確かに実感していた。

 

 ひとしきり涙を流したあと、夏凛は思い出したようにはたとおもてを上げた。


「あ、あの……王妃さまは、私をお殺しにならないのですか……?」

子季しきがそのように申したのか?」

「はい。王妃さまは、きっと私を生かしてはおかないだろうと……」


 袁王妃はわざとらしく額に皺を寄せ、渋面を作ってみせる。

 そして、夏凛の頭をやさしく撫でると、呆れたように言ったのだった。


「あやつもまこと困った悪童じゃの。なんじょう耀花の忘れ形見をわらわが殺そうかや?」

「それじゃ……‼」

「なにも案ずることはない。おまえの安全は我が沙蘭国が保証する。わらわの目の黒いうちは、朱鉄にもけっして手は出させぬと約束しよう」


 夏凛の長い黒髪を指で梳かしながら、袁王妃は安堵の息をつく。


「よく生きていてくれた。成夏国があのようなことになってから、国王陛下もわらわも、おまえの身をずっと案じておったのじゃ。ほうぼうに人をやって消息を調べさせたこともあったが、ついに捗々しい成果は得られなんだ。あれから二年が経ち、もはや望みはなかろうと諦めかけていたところに、あの王子季がおまえを連れて沙蘭国に帰ってこようとはの……」

「王妃さま……私……」

「何も言わぬでよい。祖国を追われてからいままで、おまえがどんなにつらい思いをしてきたかは斟酌するに余りある。よく頑張ったの、夏凛――」


 あたたかな感情に包まれて、夏凛は胸が詰まりそうになっている。

 幼いころ、母の腕に抱かれた安らぎとは、あるいはこのようなものだったのだろうか。

 と、袁王妃はふいに夏凛から離れると、その場でくるりと身体を反転させた。


「どこへ行かれるのですか?」

「ついてくるがよい。おまえにどうしても会わせたい御方がいる」

「私に会わせたい人……?」


 返答の代わりに、袁王妃は庭園の一角を指さす。

 木々の梢を透かして垣間見えるのは、いくつもの尖塔をそびやかせる美しい白亜の宮殿であった。


「耀花の兄、そしておまえにとっては実の伯父にあたる御方――沙蘭国王・蘭逸陛下のもとへ案内あないしようぞ」

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