第83話 残影(一)

 ふいに衝撃を感じて、夏凛は浅い眠りから目覚めた。

 馬車が停止したらしい。たえまなく荷台を揺さぶっていた不愉快な振動は熄み、馬蹄の音も聞こえない。

 格子窓にかかった薄布をつまみ上げると、ほのじろい月光が車内に差し込んだ。

 彼方に目を向ければ、霏々と降り注ぐ月明かりが暗闇をやわらげ、砂と岩ばかりの世界を蒼く染めている。

 深更の砂漠は寂蒔として音もなく、砂上を吹き渡る風は昼間の酷暑が嘘みたいに冷たい。

 夏凛は何をするでもなく、格子状に区切られた世界にうつろな視線を向けている。


 ここまでの道中、三両の馬車はしばしば立ち止まることがあった。

 理由は分かりきっている。疲れた馬を休ませるためだ。

 沙蘭国の馬は、中原に生息している種よりもひと回り巨大な体躯と、熱暑をものともしない頑健さで天下に名高い。

 とはいえ、その体力はけっして無尽蔵ではない。

 酷使すればそのぶん馬は疲労し、限度を超えれば力尽きてしまう。

 先を急ぐあまり馬を潰してしまえば、代わりの馬を探すためにかえって時間を浪費することにもなる。


 おそらく、今回も馬たちにまぐさと水を与えるために停止したのだろう。

 格子窓から外の様子を窺ってみても、周囲に建物らしいものは一切見当たらない。

 沙京さけいに連れていくという司馬準しばじゅんの言葉が本当なら、こんな場所でいつまでも停車しているはずはない。

 そう思って、夏凛がふたたび瞼を閉じようとしたときだった。


「お休みのところ失礼します――」


 司馬準の声を追いかけるように、錠前を外す音が聞こえてきた。

 夏凛がおもわず身体を強張らせたのは、予期せぬ事態の出来しゅったいに驚いたばかりではない。

 とっさに振り返ろうとして、怜と目が合ったためだ。


 いつのまに目覚めたのか。

 それとも、最初から眠ってなどいなかったのか。


 みずからの過去を語り終えたあと、青年は堅く口を閉ざした。

 それきり、二人のあいだには会話らしい会話もない。

 もしかしたら、直接言葉を交わせるのはこれが最後になるかもしれない……。

 お互いに心のなかでそう思っても、やはりどちらも沈黙を破ろうとはしなかった。


 やがて荷台に上がってきた司馬準は、二人の顔を瞥見すると、あくまで落ち着いた声で告げた。


「お二方には、ここでそれぞれ別の馬車へと移っていただきます」

「別の……?」

「夏凛殿下はこのまま沙京の王宮へお連れします。そして、王子季おうしき殿は、王扶建おうふけんさまの屋敷へ……」


 司馬準が言い終わらぬうちに、怜が口を開いた。


「妙な話だ。王妃ババアは俺を殺したがってるんじゃねえのか」

「さて、そこまでは私も存じ上げません」

「最後に水入らずで過ごさせてやろうという心遣いなら、それこそ余計なお世話だ。でもねえのによ」


 怜は自嘲するように言って、ちらと夏凛を見やる。

 藍青色ラピスラズリの瞳が無言のうちに語りかけた言葉を、夏凛ははっきりと読み取っていた。

 もし夏凛が生きたいと強く願ったなら、怜は万難を排してでもこの場を突破しただろう。

 すくなくとも、怜はそうなることを望んでいたはずだった。

 一瞬の視線の交差に託したかすかな望みは、しかし、あえなく霧消した。

 夏凛は俯いたまま、司馬準に顔を向ける。


「……私、行きます」

「ご協力感謝します、姫殿下。私がご案内いたしますゆえ、こちらへ」


 司馬準に導かれるまま、夏凛はおぼつかない足取りで歩き出す。

 そのまま数歩も進んだところで、少女はいまにも消え入りそうな声でぽつりと呟いた。


「……怜」


 怜は黙したまま、夏凛の次の言葉に耳をそばだてている。

 正真正銘、これが最後の機会であるはずだった。


 たったひとことでいい。


――ここから逃げ出したい。

――私を助けてほしい。


 そう言ってくれれば、この身体と生命を差し出すことに何の躊躇いもないのに。

 すがるように夏凛を見つめる怜の目交まなかいに咲いたのは、儚く寂しげな微笑みだった。


「いままで本当にありがとう。さよなら――――」


***


 夏凛を乗せた馬車が沙京に到着したのは、それから半日あまり後のことだった。

 太陽はすでに中天を過ぎつつあったが、熱暑は一向に衰える気配もない。

 七国最北端の王都は、広漠たる砂漠のなかに突如として出現した巨大な蜃気楼を思わせた。

 この土地は、もともと砂漠に存在する湧水緑地オアシスのひとつにすぎなかった。

 沙蘭国の初代国王は、神託によってこの地を王都と定め、「沙州さしゅう京師みやこ」であるとして沙京と命名したのである。

 それから七百年の歳月を閲するうちに、沙京は名実ともに沙蘭国の中心地へとめざましい成長を遂げた。

 その規模と殷賑ぶりは、成陽せいよう華都かと鳳陵ほうりょうといった中原の大都市と比較してもなんら遜色ない。

 人口二十万人を超える辺境最大の大都市は、七国と外側の世界とを繋ぐ玄関口でもある。

 珍奇な品物を求めてやってくる交易商人は遠路を苦とせず、定例の市場バザールが開催される日には城外にまで列をなすありさまだった。


 夏凛と司馬準を乗せた馬車は、入城手続きが遅々として進まないことに苛立つ商人たちをあっさりと抜き去っていく。

 不公平を叫ぶ商人たちの声は、砂漠を吹く風にかき消された。

 来訪者を威嚇するようにそびえる荘厳な正門を抜ければ、城市まちを東西に貫く目抜き通りに出る。

 沿道に目を向ければ、日干しレンガで作られた白い建物が所狭しと櫛比している。

 車窓を流れていく風景も、空気の匂いも、何もかもが未知のものだ。

 そんな異国情緒にあふれた沙京の景観も、夏凛の心に感動をもたらすことはなかった。

 司馬準もそんな夏凛の様子を察してか、自分から話しかけることはなかった。

 国王のお膝元とはいえ――否、そうであるからこそ、気を抜くことは許されない。

 王宮に到着するまで夏凛の身の安全を保つこと。

 それが司馬準が帯びている主命であり、この状況で何よりも優先すべき事項だった。

 

「姫殿下、王宮に到着しました」


 馬車が完全に停止したのを見計らって、司馬準は夏凛に呼びかける。

 ぼんやりと車外を眺めていた夏凛は、ゆるゆるとあたりを見渡す。

 いつのまにか周囲の景色は一変している。

 そこはすでに白茶けた家々が立ち並ぶ市街地ではなく、見たこともない木々が生い茂る庭園だった。

 はるかな遠国おんごくからもたらされた植物は、いずれも沙蘭国より低緯度の国々では生育が不可能なものばかり。

 妍を競うように咲き乱れる極彩色の花々とたわむれるのは、やはり中原では生きることの出来ない美しい蝶であった。

 普段なら目を輝かせてあれこれと質問している夏凛も、いまは司馬準に先導されるまま、蒼惶とした足取りで進むのが精一杯だった。

 

(私、これからどうなるのかな……)


 ぼんやりと考えたところで、答えなど出るはずもない。

 怜の言葉を信じるなら、えん王妃は自分を生かしてはおかないだろう。

 亡国の王女として、いまもボウ帝国から追われる身なのだ。

 自分を匿えば、沙蘭国に災厄が降りかかるかもしれない。

 生きたまま朱鉄しゅてつに引き渡すか、あるいは

 いずれにせよ、夏凛の生命が断たれることには違いない。


 そうなったとして、誰が袁王妃を責められるだろう。

 沙蘭国の民は父・夏賛かさんを憎み、成夏国を滅ぼした昴帝国に親しみを覚えている。

 たとえ沙蘭国王の血縁であったとしても、夏賛の娘である夏凛をあえて庇うことは、沙蘭国にとって百害はあれど一利もない。

 しょせん他国の人間にすぎない夏凛には、祖国を思うがゆえの決断を非難する資格などないのだ。

 なにより、父の真実を知って打ちのめされた夏凛には、もはや朱鉄と戦う気力は残っていない。

 母の生まれ育ったこの大地で死ねるなら、それもいい。

 心にわずかに残った勇気も闘志も、巨大な虚しさに飲み込まれていく。

 

「王妃殿下、夏凛姫をお連れいたしました――」


 肉体から遊離していた夏凛の意識を、司馬準の声が引き戻した。

 顔を上げれば、中庭に建つ瀟洒な四阿あずまやが見える。

 そのなかに置かれた長椅子ベンチに腰を下ろしているのは、ひとりの女だった。

 ただそこにいるだけで、場の空気が引き締まるような端然たる佇まい。

 華美すぎず、それでいて質素でもなく、一分の隙もなく整えられた衣服と御髪みぐし

 どれを取っても完璧な貴婦人にあって、右目を覆う眼帯と、顎まで達した深い傷痕は、ひときわ異様な印象を与えた。

 

「いつまでそこに立っている。近こう寄らぬかえ」

 

 夏凛はおそるおそる袁王妃の前に進み出る。

 どうなってもいい。そう思っていたはずなのに。

 いざ王妃の前に出れば、足は震え、声は思うように喉を出ていかない。 


「あの……私……」

「心配せずとも、おまえが夏凛であることを疑うつもりはない」

「王妃さま、私のこと、ご存知なんですか……?」

「会うたのは今日が初めてよ。だが、わらわには分かる」


 隻眼の王妃は夏凛を手招きすると、頬にそっと手で触れた。

 おもわず身体を震わせた夏凛に、袁王妃は過ぎ去った昔を懐かしむような視線を向ける。


「見れば見るほど、おまえの母――蘭耀花らんようかに生き写しじゃからの」

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