第71話 裂壊(三)

 大地が揺れ動いていた。

 ボウ帝国軍が王都・延封えんふうめざして前進を開始したのである。

 整然と隊列を組んだ兵士たちが動くたび、沿道の木々はざわめき、足音は低い地鳴りとなって一帯を領した。

 昴帝国軍の特徴でもある墨黒の甲冑よろいは、初秋の日差しを照り返してにぶい輝きを放ち、長大な隊列は黒い大河を彷彿させた。

 その数およそ十万――。

 朱英が率いる十八万の軍勢のうち、ざっと半数以上が延封攻略のために振り向けられたことになる。


 指揮を執るのは、むろん総大将である朱英自身だ。

 隊列の中央にはためくのは、黒地に「朱」の一字を白く染め抜いた牙旗(大将旗)であった。

 あえてみずからの存在を誇示することで、延黎国軍を萎縮させようというのだ。

 常勝無敗の名将・朱英の威名は、いまや各国の雑兵に至るまで知れ渡っている。

 少壮のころから数多の戦場を踏みながら、いまだ一度の敗北も知らず、弱兵もひとたび彼に率いられれば一騎当千の勇士をしのぐ働きを見せる……。

 そうした朱英にまつわる風聞うわさは、人の口から口へと伝わっていく過程で尾ひれがつき、いまでは「意のままに鬼神を操る」といったさえまことしやかに囁かれている。

 その朱英が前線に姿を現したとなれば、ただでさえ窮地に追い込まれている延黎国軍の士気は大打撃を受けるはずであった。

 恐れおののいた兵士たちは先を争って逃散ちょうさんし、統率を喪った部隊は戦わずして四分五裂する。末端の部隊に生じた綻びは、やがて戦線そのものの崩壊を招く。

 朱英のこれまでの功績と名声を勘案すれば、そのような事態が出来しゅったいする可能性も充分に考えられた。


 ところが、である。

 延黎国軍は朱英の出現を知ってなお恐慌パニックに陥ることなく、兵士たちは訓練時と変わらぬ冷静さを保っている。

 城外に出陣した延黎国軍はおよそ七万。

 兵士たちが自軍の不利をものともせず、敵将への怖気を払って前線に赴いたのは、ひとえに陸芳への信頼ゆえだ。


――あの将軍ならば、朱英にも勝てる。


 陸芳のもとで訓練を積み、寝食を共にするうちに、兵士たちはそんな思いを共有するようになっていた。

 指揮官への信頼によって結束した軍は、実力以上の強さを発揮する。

 その点において、陸芳は朱英になんら劣るところはないのだ。

 三日月状の平野に張り巡らされた防禦施設へとすばやく展開した各部隊は、いまや遅しと昴帝国軍の襲来を待ち受けている。


 両軍の睨み合いは長くは続かなかった。

 口火を切ったのは、むろん攻め手である昴帝国軍だ。

 最前列の弓兵が一斉に征矢を放つと同時に、耳を聾する鯨波が天地にこだました。

 十万の軍勢のなかでまっさきに突出したのは、長戟を携えた歩兵の一団であった。

 その数、およそ一万。

 他の歩兵よりも重厚な甲冑よろいに身を包んだ彼らは、昴帝国軍きっての精鋭と名高い重装歩兵である。

 延黎国軍の猛射をものともせず、屈強な重装歩兵たちは第一の防衛線へと殺到した。

 そして戦友の屍を踏み越え、全身を血泥にまみれさせながら、前線を着実に押し上げていく。

 そんな彼らの背に雄々しくはためくのは、まさしく「鍾離しょうり」の旗印。

 先駆けの名誉は、四驍将しぎょうしょうで最も勇猛果敢な男、鍾離且しょうりかつに与えられたのだった。


***


 望楼に立った陸芳は、戦場の様子を遠目に眺めつつ、手元の與地図よちずに視線を落とした。

 背後には、延黎国軍の主だった将軍たちが整列している。

 

 戦場に目を向ければ、第一の防衛線は早くも突破されようとしている。

 騎兵を足止めするための溝は敵の死体で埋まり、敵兵の一部はすでに堤防状の土塁へと達している。

 攻撃側の損害は甚だしく、戦力はほとんど半減しているものの、士気は一向に衰えていない。

 もちろん延黎国軍も果敢に応戦しているが、突破されるのは時間の問題であった。

 昴帝国軍は虎の子の重装歩兵を惜しげもなく投入し、多大な犠牲を払いながら、力ずくで防衛線を突き破ったのだ。


(さすがは朱亮善りょうぜんだ――)


 知謀に長けた朱英らしからぬ力押しの用兵も、陸芳の目にはまったく異なるものとして映っている。

 重装歩兵の利点は、すぐれた防御力によって敵の攻撃に耐えつつ、強烈な打撃を与える点にある。

 言ってみれば、彼らは戦場の金槌である。

 金槌は、その力を叩きつけるにふさわしい標的に用いてこそ十全の効果を発揮する。

 もし重装歩兵を出し惜しみ、弓兵による射撃戦や、騎兵による散発的な攻撃に終始していたなら、昴帝国軍は第一の防衛線から先へは進めなかったはずであった。

 これほど短時間のうちに防衛線に食い込んでみせたのは、ひとえに朱英の用兵の手腕にほかならない。

 勝利のためには犠牲を恐れず、必要とあれば非情な手段をためらわない。

 名将とは、その判断を下せる者をこそ言うのだ。


「前線の兵を後退させよ。このまま敵を第二の防衛線へと誘い込む」


 言って、陸芳は背後を振り返る。


「鍾離且の部隊はこれで後退するはずだ。次に出てくるのは、おそらく黄武おうぶ漢銀かんぎんであろう。李顕りけん潘乗はんじょう、それぞれ五千を率いて対処せよ――」


 李顕と潘乗は、延黎国軍生え抜きの将軍である。

 どちらも陸芳より一回り年上だが、その卓抜した将器をまっさきに認め、今日まで副将として陰に陽に支えてきた。

 二人ともけっして愚昧な武将ではない。

 それでも、大将軍・柳機りゅうきが手塩にかけて育てた四驍将には遠く及ばないのは事実であった。

 四人のうち誰が相手だったとしても、両将軍はあっけなく討ち取られるだろう。

 にもかかわらず、陸芳の顔にはわずかな憂いも兆していない。


 出陣に先立ち、陸芳は麾下の諸将に対して次のような演説を行っている。

 

――戦場では何があろうと私の指示通りに動くことだ。そうすれば、四驍将といえども恐れる必要はない。だが、もし諸君が私の命令にすこしでも背いたなら、誰ひとり生きて帰ることは出来ないだろう。


 けっして独断専行に走らず、どのような場合でも陸芳の指示に従う。

 すなわち、個々の将軍の人格を否定し、指揮官の意のままに動く駒として操るということだ。

 それはまさしく朱英の用兵理論――。

 そして、昴帝国という国家そのものの根幹を成す理論にほかならなかった。

 陸芳は、すべてを承知の上で、敵のやり方を実践しようというのだ。

 

 祖国である鳳苑国ほうえんこくの滅亡を見届けてから今日まで、陸芳はひたすら朱英に勝つための手立てを模索し続けてきた。

 黎興れいきょうの食客となってからは、王家が所蔵する古今の兵法書を渉猟し、昼夜の別なく戦術研究に打ち込んできた。

 だが、どれほど文献を読み込み、試行錯誤を重ねても、朱英に勝つための方法はついに見いだせなかった。

 やがて苦悩の果てに陸芳が辿り着いたのは、ひとつの結論だった。

 すなわち、


――朱英の戦術を我がものとする。

――おのれの全能力を傾けて、朱英の思考を模倣する。

――この脳のなかに、を作り上げる。


 ということである。

 書庫を埋め尽くすほどの兵法書も、心血を注いだ研究も、軍事の天才の前では等しく無力なのだ。

 ならば、朱英その人を師匠として、ひたすらその天才を模倣することこそが、あの男と戦う唯一の術ではないか。

 それからというもの、陸芳は朱英の戦術をつぶさに研究することに努めてきた。その対象は昴帝国が成立する以前、旧成夏国時代の戦歴までさかのぼり、一つひとつの戦いを通して朱英の用兵の精髄を取り込もうとしたのである。


 そうした努力の甲斐あって、いまや陸芳はかなり精確に朱英の思考を辿ることが可能になっている。

 あくまで戦場での用兵に限ったことであり、より大局的な戦略についてはいまなお理解が及んでいないとはいえ、それを差し引いても充分な成果と言うべきだろう。

 頭脳に再現したもうひとりの朱英と模擬戦を演じ、戦術について意見を戦わせることさえも、陸芳は造作もなくやってのけるのである。

 昴帝国との開戦以来、陸震りくしんが前線から送ってきた日々の戦闘記録によって、その精度は以前とは比べ物にならないほど向上している。

 陸震が死の前日まで綴った記録からは、朱英の戦術はむろん、戦場における微妙な息遣いまで伝わってくるようであった。

 もはやこの世にいない弟が、敬愛する兄に託した最大の遺産。

 それは陸芳にとっての最大の武器となり、朱英と向き合う背中を力強く後押ししている。


 たとえ二度と轡を並べることは叶わなくても。


(ともに戦おう、震よ――)


 陸芳は懐中の木簡に触れながら、心中で語りかけたのだった。

 

***


 はたして、戦況は陸芳の予想通りに推移した。

 第一の防衛線が破られると同時に重装歩兵は後退し、鍾離且の旗印も戦場から消えた。

 先陣の務めを十二分に果たした同輩と入れ替わるように進出したのは、おなじく四驍将の漢銀と黄武の部隊であった。

 それぞれ一万五千ほどの兵を率いる二人の将軍は、左右から第二の防衛線へと攻め寄せる。

 どちらも主力は歩兵だが、重装歩兵だけで編成されていた鍾離且の部隊とは異なり、弓を携えた軽歩兵が目立つ。

 第一の防衛線よりも守りが手薄と踏んで、まずは射兵によって敵を消耗させる魂胆なのだろう。

 二手に分かれたのは、それだけ土塁上からの射撃を分散させるためだ。

 然るのちに歩兵を突出させ、延黎国軍の防衛線を食い破ろうというのである。


 攻撃が始まってまもなく、騎馬の一軍が猛然と土塁を駆け下りてきた。

 李顕りけん潘乗はんじょうが率いる五千あまりの騎兵は、味方の援護射撃に助けられつつ、昴帝国軍めがけて突進する。

 防御側が騎兵を積極的に投入した事例は、七国の戦史にもきわめて稀である。

 かつて朱英が華昌国かしょうこく軍を迎え撃った際、騎兵を巧みに用いて側背を討ったのは、数少ない例のひとつであった。

 ともかく、射撃戦を想定していた昴帝国軍にとって、騎馬の投入はまったくの予想外だった。

 黄武と漢銀の部隊はまともに応戦することも出来ず、ほとんど同時に総崩れの状態に陥った。

 李顕と潘乗は撤退する敵を追撃し、戦場はたちまち黒い甲冑よろいを身に着けた死骸で埋め尽くされていった。

 もし重装歩兵が戦場に残っている状態で騎兵を投入したなら、延黎国軍は逆に粉砕されていただろう。

 精鋭の重装歩兵には限りがあり、あえて手薄に見せることで敵の軽歩兵を誘い出した陸芳の用兵が功を奏したのだった。

 さんざんに打ち破られた昴帝国軍は、たったいま犠牲を払って勝ち取った第一の防衛線の、さらに後方へと先を争って退いていく。


「敵の本隊が延河えんがへ後退していくぞ――」


 物見役が放った叫び声は、陸芳を驚かせた。

 撤退に入ったのは四驍将だけではない。

 陸芳畢生の軍略は、あの朱英さえも退かせようとしている。


 そして――ひとたび背を向けた敵を殺すのは、向かってくる敵を倒すよりもはるかにたやすい。

 つねに冷静であることをみずからに課してきた陸芳の胸に、にわかに熱狂が兆した。

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