第70話 裂壊(二)
国土の大部分を険阻な山々が占めるこの国では、一年を通して冷涼な気候が保たれるためだ。
夏の盛りを迎えても、最高峰である
その邱山の麓、山塊に四方を
いにしえの放浪詩人が称賛した風光を
初代の延黎国王がこの地を
大国の侵掠をはねのけ、延黎国の独立を守り続けた天下の名城。
その延封に、ふたたび戦雲が押し寄せようとしている。
八月二十七日――。
鶯鳴関を突破し、ついに大盆地へと至った昴帝国軍は、王都にほど近い
延黎国でも有数の水量をほこる河川・
兵法の常道に照らせば、水際に布陣することはけっして推奨されるものではない。
にもかかわらず、朱英があえてこの地に本陣を置いたのは、河川と王都の位置関係を考慮してのことだ。
延封に攻め入るためには、大盆地を東西に横切る延水を渡らなければならない。
もし延水を越えて軍を進め、その先で本陣を敷いたなら、昴帝国軍は河川を背後に置いて戦うことを強いられる。
流れ水を背負って戦うことは、兵法における最大の禁忌とされている。そのような状況で敗勢に追い込まれれば、もはや退却もままならなくなるのだ。
朱英が延水の手前に布陣したのは、総大将として当然の判断といえた。
もちろん延封攻略のためには部隊を渡河させる必要があるものの、危険性には雲壌の差がある。
たとえ最悪の事態が
この先はじわじわと戦線を押し上げ、やがては延封を完全に包囲する。これまで神がかり的な速攻と、我が身を顧みない奇策によって勝利を得てきた朱英らしからぬ、それは堅実にして無難な攻め口であった。
いよいよ決戦の口火が切られる――。
そんな延黎国側の予想に反して、数日を経ても両軍は衝突に至らなかった。
昴帝国軍は陣地の構築を終えると、それきり動きを止めたのである。
ときおり斥候を放つほかには自発的に行動を起こすこともなく、十八万の大軍勢は不気味な沈黙を保ち続けている。
朝な夕なに上空に冲するおびただしい炊煙がなければ、昴帝国軍の陣地はもぬけの殻にも見えただろう。兵士たちのほとんどは天幕に入ったまま出歩くこともなく、その様子は冬眠中の獣を彷彿させた。
昴帝国軍の予想外の動きに当惑したのは、陸芳を筆頭とする延黎国軍の諸将だ。
貴重な兵糧を無為に消費し、敵国の王都を前にいたずらに時間を過ごすばかりとは、朱英は何を企んでいるのか?
いくら考えたところで、納得出来る答えなど出るはずもない。
延封の望楼から昴帝国軍の陣地を眺めても、目につくものといえば、翩翻と風にたなびく
延黎国軍はいつでも出陣出来るように待機したまま、注意深く敵の出方を窺っている。
陸芳が先制攻撃に二の足を踏んだのも当然であった。
昴帝国軍の本陣を急襲するためには、敵前渡河という危険を冒す必要がある。
朱英はあえて延黎国軍に先手を取らせ、反撃によって大打撃を与える算段かもしれない。そうであれば、迂闊に軍を動かすことは自分から敵の術中に飛び込んでいくも同然なのだ。
彼我の戦力差はだいぶ縮まっているとはいえ、昴帝国軍の十八万にたいして、延黎国軍の総兵力は十二万にすぎない。
もし多くの兵を失えば、長期間の籠城戦を戦い抜くことは不可能になる。そうなれば、昴帝国の崩壊を待つという黎興と陸芳の遠大な戦略も水泡に帰し、延黎国は滅亡に追い込まれるだろう。
これより先は一手の
それは陸芳だけでなく、すでに攻勢限界点を超過している朱英にとってもおなじことだ。
二人の名将は、実際に干戈を交えることなく、互いの知略を
先の見えない膠着状態に陥ったまま、戦場は九月を迎えようとしている。
***
暁の空に遠雷のような軍鼓の音が響いた。
本営にほどちかい私邸で仮眠を取っていた陸芳は、ほとんど反射的に跳ね起きていた。
浅い眠りに未練はなかった。
この半年あまり、陸芳は一刻半(三時間)を超えて熟眠したことはない。
昼はみずから兵士の調練を監督し、夜ともなれば昴帝国軍を迎え撃つための戦略を練る。文字通り寸秒を惜しみ、身を粉にしてひたすらに勝利を追い求めてきたのである。
その人間離れした恪勤ぶりは、亡国の将軍と蔑んでいた延黎国の人々にも畏敬の念を抱かせるのに充分だった。
見かねた国王・
――敵を退けてから存分に休みます。それまでは、なにとぞお気遣いは無用に願いたく。
あくまで丁重に固辞し、さらに一昼夜に渡って不眠不休で職務に打ち込んだのだった。
自分自身を追い込むような陸芳の働きぶりは、
すばやく甲冑を身につけた陸芳は、本営内に足を踏み入れるや、
「何事だ?」
出迎えた部下にするどい声で問うた。
「前線より急報です。敵陣に動きが見られたとのこと……」
「詳細を言え。確度と真偽は問わない。前線からもたらされた情報はどんなことでも私に伝えるよう命じたはずだ」
「すでに敵兵の一部が延水を渡り、後続の部隊も渡河の準備に入っているとの
部下の言葉に凝然と耳を傾けながら、陸芳はおもわず眉根を寄せていた。
これまで沈黙を守っていた昴帝国軍が攻勢に転じたことそれ自体は、べつに驚くには値しない。
当初の想定からすれば、むしろ遅すぎるほどだ。
問題は、なぜこの時機を狙って敵が動き出したかという点である。
夜陰に乗じてひそかに渡河するならいざしらず、すでに空が白みはじめた時刻に兵を動かすとは、いかにも腑に落ちないことだった。
あるいは――両軍ともに相手の出方を注意深く窺っている状況では、隠密行動は無意味と判断したのか。
いずれにせよ、このまま昴帝国軍の渡河を許せば、延封はたちまちに包囲される。
いかに難攻不落の名城といえども、大軍勢の総攻撃を受ければひとたまりもない。包囲されているという事実は、それだけで軍の士気を低下させ、城内の民を不安に陥れる。
昴帝国軍の攻勢をしのぎきり、最終的に撤退に追い込むためには、ただ城内に籠もっているだけでは到底不足なのだ。
城壁を一日でも長く保たせ、籠城中の士気を維持するためには、攻め手の戦力を可能なかぎり削いでおく必要がある。
すなわち、野戦において敵を撃破するということだ。
「全軍に通達――これより我々は城外に打って出る。出陣の準備を整え、ただちに城門の前に集結せよ」
陸芳は机上に広げられた
やがて、陸芳の指は地図上の一点を指して停止した。
延封の外側に広がる、三日月状の平野。
城壁に近づくために避けては通れないその場所には、ぽっかりと穴が開いたように無人地帯が横たわっている。
茫漠たる
もともとこのあたりにはいくつかの集落が存在していたが、昴帝国との開戦に先立ち、全住民の城内への強制移住が実施されたのである。
無人の家々と田畑は敵の目を欺くためにそのまま残され、遠目には通常の集落となんら変わらない。
すべては総大将である陸芳の意向であった。
城壁の上から平野を見下ろせば、何条もの深い溝が放射線状に掘られていることに気づく。
一見すると
ひとたび騎兵がここに落ち込めば、自力で脱出するのは容易ではない。
駄目押しとばかりに底部に設置されているのは、
溝と溝のあいだには、堤防状の土塁が設けられている。上部に弓兵や弩兵を配置すれば、溝を這い上がってきた敵兵を一方的に狙い撃つことが出来る。
たとえ突破されたとしても、溝を一本跨いだ後方の土塁へと戦線を引き下げ、そこで粘り強く迎撃を継続する。
そして、敵が消耗した頃合いを見計らい、満を持してみずから指揮する主力軍を投入する――。
それこそが、陸芳がこの日のために練り上げた秘策であった。
自軍の犠牲を最小限に抑える一方、敵には最大限の出血を強いる――。
辺境の小国である延黎国が、中原の大半を版図に収める昴帝国と戦に及んだなら、正攻法ではまず勝ち目はない。
まして、敵の総大将はあの朱英なのである。
あらゆる鬼謀と神算を絞り尽くして、ようやく微かな勝機が差し込む。
一瞬の油断も、欠片ほどの慢心も許されない。わずかでも気を緩めれば、その瞬間に勝利は遠のいてく。
(この
延黎国軍の総大将に抜擢されてから今日まで、陸芳はひたむきに最善を尽くしてきた。
すべては国王・黎興の期待に応えるために。
そして、自分を信じて生命を預けた
いま、陸芳の胸の奥底で激しく燃え上がったのは、勝利への飽くなき執念にほかならなかった。
***
本営の正門を抜けてまもなく、陸芳ははたと足を止めた。
門前に整然と堵列する人々を認めたためだ。
年齢は若者から老人まで幅広いが、いずれも大臣や王族といった国家の錚々たる顔ぶれである。
軍鼓の音を聞きつけて参集した彼らは、本営の前で陸芳を待ち構えていたのだ。
「……ご用件ならば、どうか手短に願います」
陸芳の声は硬かった。
延黎国において
その自分が国軍の最高司令官の地位にあることを好ましく思っていない人間がいることも、また。
国王である黎興の手前、表立った誹謗中傷こそなかったものの、陰で悪しざまに罵られていたとしても不思議はない。
それも甘んじて受けるつもりだった。他人にどれほど罵られたところで、陸芳は痛痒とも感じることはないのだから。
――
――生命を救ってくれた主君の恩義に報いる。
陸芳にとってあくまで優先すべきはその二つのみであり、それ以外は些事にすぎない。
国家の命運を左右する戦を前に集中力を乱されるのは不快だが、それをぐっと呑み下して、陸芳は彼らと向き合う。
その全身から立ちのぼる覇気に圧倒されたみたいに、誰もが固く口をつぐんでいる。
「そのような目で見てやるな。皆、そなたに期待しているのだ」
群臣の間から進み出たのは、若き国王だ。
その姿を認めるが早いか、陸芳は恭しく頭を垂れていた。
「国王陛下――」
「いよいよ戦が始まるのだろう。武運を祈っているぞ、陸芳」
「必ずや陛下のもとに勝報を持ち帰ってごらんにいれます」
黎興は重々しく頷くと、周囲の人間に視線を巡らせる。
「ここに集った者たちは皆、そなたを頼りにしておる。わが延黎国を守り通してくれるのは、そなたを置いて他にいないと信じているのだ」
「もったいなくも有難きお言葉にございます――」
「我らは戦を知らぬ。戦う術も心得てはおらぬ。だからこそ、そなたを信じてすべてを委ねよう。ともに戦場に赴くことは叶わなくとも、我らの生も死も、そなたと共にある」
その言葉を耳にした瞬間、陸芳の両眼から澎湃と熱い涙があふれた。
主君からこれほどまでの信頼を寄せられたことは、陸芳の人生においてついぞなかった。
鳳苑国にいたころは、稀代の名将としての名声をほしいままにしながら、その若さゆえにつねに軍内で軽んじられてきた。意のままに采配を振るう機会を与えられないまま、祖国の滅亡を見届けた忸怩たる思いは、いまなお陸芳の胸裡に澱のようにわだかまっている。
いま、陸芳は延黎国軍の総大将として、戦に関する一切の権限を委ねられている。
それに加えて、主君はみずからの生命までも自分に託すとまで言ってくれたのである。
主君だけではない。この国に生きるすべての人間の願いと祈りとを背負って戦に赴くのだ。
軍人にとって、これにまさる喜びはない。
一時は流浪の身に零落し、流れ流れて辿り着いた地でようやく得た無二の天命。
みずからの双肩にのしかかる重責さえも、陸芳を力強く後押しするようであった。
「これより出陣いたします――」
あらためて主君と群臣に一礼した陸芳は、城門へと足を向ける。
決然と胸を張ったその顔に、もはや涙はなかった。
両軍の戦端が開かれたのは、それから一刻(二時間)あまり後のこと。
時まさに天紀七七一年の九月三日。
七国の歴史上まれにみる激戦として後世に語り継がれる延封攻防戦は、ここに幕を開けたのだった。
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