第68話 侵掠(四)

 鶯鳴関おうめいかんの山々の奥深くに、その竪穴たてあなはひっそりと佇んでいる。

 百メートルちかい壁面はほとんど垂直に落ち込み、底部は集落がまるまるひとつ収まるほどの広さがある。

 誰憚ることなく生い茂った植物によって四囲はほとんど緑色に染め上げられ、耳を澄ませばせせらぎの音さえ聞こえてくる。

 天下に名勝絶景は数あれど、これほどの奇観はふたつと存在しないだろう。

 さしずめ地中に現出した別天地であった。


 むろん、人間の手によって掘削されたものではない。

 太古の昔、この場所には巨大な溶岩マグマ溜まりが存在した。

 途方もない歳月を閲するうちに溶岩は蒸発・凝固し、体積を減少させたことで、世にも奇異な竪穴が形成されたのだ。

 その後も、たえまない地下水の侵食によって、竪穴の容積はすこしずつ拡大していった。

 やがて天蓋部が自重によって崩落すると、地下に隠されていた巨大空洞は、数億年の時を経て外気に晒されたのだった。


 その存在がはじめて人間の知るところとなったのは、いまから三百年あまりも前のこと。

 あらたな鉱脈を探し求めて試掘を行っていた山師が、偶然この場所に突き当たったのである。

 それからというもの、この地で採掘に携わってきた人々のあいだでは、もっぱら「壺埋洞こまいどう」と呼ばれている。

 断崖絶壁と樹木によって外界から隔絶され、地下坑道を通してのみ立ち入ることが出来るこの場所は、鉱夫でさえめったに足を踏み入れない文字通りの秘境であった。


 ボウ帝国との開戦前夜、延黎国軍の総大将である陸芳りくほうは悩んでいた。

 鶯鳴関で昴帝国軍の足を止め、坑道を利用した遊撃ゲリラ戦によって消耗を誘うのが彼の考案した作戦の骨子である。

 盤石と思われたその戦略も、まったく問題がない訳ではなかった。

 小部隊を主体として行われる遊撃戦は、緊密な連絡と切れ目のない補給を必須とする。

 本陣を鶯鳴関から離れた場所に置けば、それだけ指揮下の部隊との連絡はおろそかになる。さらに継戦能力の低い小規模な部隊にとって、頻繁に補給のために本陣まで帰還しなければならないことは、作戦を遂行する上でのおおきな障害となるのだ。

 熟慮に熟慮を重ねたすえ、陸芳は壺埋洞に白羽の矢を立てた。

 山中の竪穴に本陣と物資集積場の機能を兼ね備えた前線基地を建設することで、作戦上の問題を一挙に解決したのである。


 山中に潜伏している延黎国軍の各部隊は、昴帝国軍に一撃を加えたあと、坑道を通っていったん本陣に帰還する。そこで消耗した兵器と人員、さらには数日分の兵糧を補給し、ふたたび配置に就くのである。

 大将である陸震は、本陣にあってつねに全軍の配置を把握し、必要とあれば伝令を送って麾下の部隊を意のままに動かすことが出来る。

 迷宮のごとき坑道と、その奥深くにあって作戦を支える本陣。

 鶯鳴関において延黎国軍が昴帝国軍と互角以上の戦いを演じてきたのは、たんに地の利を活かしたというだけでなく、緻密な後方支援体制があればこそであった。


 本来ならけっして昴帝国軍に知られるはずのなかった極秘の本陣。

 いま、朱英らが身を潜めているのは、そのとば口にほかならなかった。


***


「太元帥、ここはいったん引き上げるべきです。敵に見つかる前に、お早く――」


 鍾離且しょうりかつは注意深く周囲を見渡すと、声を潜めて言った。

 いまのところ延黎国軍にこちらの存在を気取られた様子はない。

 それでも、敵の本陣に肉薄しているという事実に変わりはないのだ。いつ敵兵に発見され、攻撃を受けるか知れない。

 そうなれば、朱英の生命も危険に晒されるだろう。


 四驍将の二人と赫光焉かくこうえんがついているとはいえ、安心は出来ない。

 それどころか、場合によっては全員があえなく討ち取られる危険さえある。

 鍾離且をして撤退を進言させたのは、武人としての本能であった。


 朱英はしばらく考え込んだあと、


「退くつもりはない。このまま攻撃を仕掛ける」


 それだけ言って、ふたたび敵陣に視線を向けたのだった。


「本気で仰せになっているのですか!?」

「そのつもりだ」

「お言葉だが、ここは敵の本陣を発見しただけでも奇貨とすべきです。ひとまず撤退し、然るのちに総攻撃を開始すればよいではありませんか。あの天幕の数から見て、敵の数は少なく見積もっても一万を下らぬはず。いかに精鋭とはいえ、百騎だけで攻め込むのは、むざむざ殺されに行くようなものです」


 敵に勘づかれないようにせいいっぱい声量を絞りながら、鍾離且は切々と訴える。

 朱英はといえば、相変わらず凝然と敵陣を見据えたままだ。

 やがて、その唇から低い声が漏れた。


「敵はまもなく我らが侵入したことに気づくだろう。先手を打って坑道を塞がれれば、そう簡単にはここへは辿り着けなくなる。どのみち赫光焉の案内がなければ無事に坑道を抜けることは出来ない。数で押し込める戦ではないということだ」


 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた鍾離且をよそに、朱英はなおも続ける。


「策はある。私は勝ち目のない戦はしないと言ったはずだ」

「それは、いったいどのような?」

「騎馬兵だけを選抜したのはそのためでもある。出陣にあたって、兵たちにはも持たせている」


 それまでじっと二人のやり取りを見守っていた蒯超かいちょうが、ふいに口を開いた。


「――火攻かこうですか」


 ひとりごちるみたいな蒯超の言葉に、朱英はちいさく肯んずる。

 鍾離且は「あっ」と叫び声を上げそうになって、あわてて掌で口に蓋をした。


 火攻は七国で一般的に行われている戦術である。

 敵の陣地や兵糧に直接的な損害を与えるだけでなく、橋梁に火を放って退路を断つといったように、その用途は多岐にわたっている。

 兵数に劣る側にとって、火攻は戦力差を覆す有用な手段でもある。

 いったん火勢がさかんになれば、あとは自然に燃え広がっていくのを待てばよい。百騎といえども、騎兵のすぐれた機動力を以てすれば、短時間のうちに広範囲に火を放つことは充分可能であるはずだった。


 朱英はいくつかの天幕を指し示しながら、鍾離且と蒯超に語りかける。


「地面から一段高くなっているのが見えるだろう。あれは鼠や湿気から兵糧を守るためだ。兵舎ではなく、兵糧庫を狙って火攻を仕掛ける」

「なぜ敵兵を直接狙わないのです? いくら兵糧を焼いたところで、敵が健在なら戦に勝ったことにはなりませぬ」

「これは命令だ。


 すげなく言った朱英に、鍾離且は血がにじむほど強く唇を噛んだ。

 空を仰ぎ見れば、紺青の色はなおも濃く天上に満ちて、夜明けまではまだかなりの時を残している。

 いま兵舎めがけて火攻を行えば、寝入っている敵兵に大打撃を与えることが出来るはずだ。

 にもかかわらず、朱英はそれを禁じた。

 敵を殺してはならないとは、およそ大将の言葉とも思えない。

 それだけではなく、敵のために逃げ道まで用意しろとは。

 この期に及んで、朱英は敵兵を憐れみ、情けをかけるつもりなのか。


――これでは、まるで死んだ夏賛かさん王ではないか……。


 鍾離且はちらと蒯超と赫光焉を見やる。

 二人とも唇を結んだまま、並んで木像と化したみたいに沈黙している。

 ならば、なおさら自分が言わねばならぬ。鍾離且は、眦を決して朱英に向き直ると、努めて冷静な口調で語りかけた。


「太元帥は、このまま敵を見逃すおつもりか」

「私の命令が不服か、鍾離且」

「恐れながら、戦場において無用な情けは我が身を滅ぼすものと存じます。中途半端な攻撃は得策とは思えません」

「言っておくが、私は彼らに情けをかけるつもりはない」


 予想外の返答であった。

 鍾離且はおもわず問い返そうとして、それきり言葉を継げなくなった。

 いつのまにか朱英の身体から放たれたはじめた悽愴な鬼気が、それ以上の反問を許さなかったのだ。


「延黎国軍は、ここで確実に殲滅する」


***


 兵士たちの視察を終え、帷幄に戻ろうとした陸震は、はたと足を止めた。

 陣中の空気に剣呑なものを感じ取ったためだ。

 胸がざわつく。ただならぬことが起ころうとしている。

 指揮杖に手をかけたまま、陸震はその場でさっと身体を翻していた。


「火事だ――」


 不寝番の兵士が叫びを上げたのは次の瞬間だった。

 声のしたほうへ視線を向ければ、炎に包まれた天幕が目に入った。

 炎はみるみるうちに天幕から天幕へと燃え移り、壺埋洞の壁面をあかあかと染めていった。

 何事かと先を争って兵舎を飛び出してきた兵士たちにむかって、陸震は声のかぎりに大喝する。


「うろたえるな。各隊はすみやかに方円陣を組み、消火に当たれ」


 大将はいかなるときも動揺を見せてはならない。

 指揮官の焦燥や不安はたやすく軍全体に伝染し、士気を減衰させる。

 兄・陸芳の戦を誰よりも近くで見てきた陸震は、危機においてこそ将器が試されることを知悉していた。

 浮足立っていた兵士たちも、陸震の泰然たる佇まいを目の当たりにして、いくらか落ち着きを取り戻しつつあるようだった。


 そのあいだにも、火の手はますます勢いを増している。

 不幸中の幸いと言うべきか、炎が上がっているのは主に兵糧庫のあたりで、いまのところ兵舎に目立った被害はない。

 それでも、状況が予断を許さないことには変わりない。

 火勢は思いのほか強く、消火に失敗する可能性もある。

 兵糧や武具であれば、たとえ失われたとしても、ふたたび補充することが出来る。

 しかし、将兵の生命は、一度失われれば二度と戻らない。

 思い切って本陣を放棄すべきか。

 それとも、犠牲を払ってでも踏みとどまって消火に当たるべきか。

 思い悩んでいるいとまはない。

 大将としてすみやかに決断を下さねば、いたずらに部下を殺すことになる。

 燃えさかる炎を睨めつけながら、陸震は固く拳を握りしめた。


「陸将軍――」


 息を切らして駆けてきたのは、陸震の副官であった。


「敵の騎兵が多数侵入し、兵糧庫に火を放っています!!」


 陸震の面上を驚きとも怒りともつかない表情が渡っていった。

 たんなる失火ではないことは薄々気づいていた。それでも、改めて敵襲の事実を突きつけられれば、感情が波立つのも当然だ。

 斥候からの報告にあった昴帝国軍の騎兵とみて間違いない。

 報告を信じるなら、敵の数は百騎ほどにすぎない。

 延黎国軍の戦力はおよそ一万。

 ただちに反撃に転じれば、消火と並行して敵を撃滅することはたやすい。


 しかし――と、陸震は、いったんは口にしかけた攻撃命令を噛み潰す。

 考えてみれば、ここまで不可解な出来事が続いている。

 そもそも、複雑に入り組んだ坑道を通り抜けないかぎり、この場所には辿り着けないのである。

 あるいは何者かが敵を手引きし、本陣まで招き入れたのか。

 事前に敵の侵入を察知出来なかったことといい、内通者の存在を疑う材料は揃っている。

 この状況で斥候がもたらした情報を鵜呑みにするのは、あまりにも危険すぎるように思われた。

 なにより、昴帝国軍を指揮しているのは、あの朱英なのだ。

 凡夫の身で天才の思考を推量する愚かさは、他ならぬ陸震が誰よりもよく理解している。


 陸震は深く息を吸い込み、おのれに課せられた使命を思い起こす。

 昴帝国軍を一日でも長く鶯鳴関に足止めする。

 そして、ひとりでも多くの将兵を兄の元へ送り届ける。

 考えるまでもなく、いま自分がすべきことは明白であった。

  

「消火を中止せよ。これより本陣を放棄する!! いったん後退し、態勢を立て直すのだ!!」


 陸震の号令一下、延黎国軍の将兵は整然と後退を開始した。

 炎の壁は早くも本陣の四辺を取り囲みつつある。天幕内に備蓄していた油脂に引火したのか、そこかしこで火柱が上がった。

 それでも、退路が完全に閉ざされた訳ではない。

 かろうじて延焼を免れている一角をめざし、陸震は部下を誘導する。


 隊列の後方で凄まじい絶叫が上がった。

 最後尾の部隊が攻撃を受けているのだ。

 救援に向かった陸震の目交まなかいで躍動したのは、炎の色を写し取ったような赤髪だった。

 赫光焉。

 身の丈ほどもある山刀を手にした少年は、並み居る延黎国軍の兵士を次々に斬り捨てていく。人間同士の戦いというよりは、ほとんど雑草を刈るような一方的な殺戮であった。


 いかに赫光焉の強さが人間離れしているとはいえ、その体力は無限ではない。多くの敵に取り囲まれれば、いずれ力尽き、討ち取られる。

 それも敵の側に冷静な判断力が残っていればの話だ。

 炎の壁の向こうからは絶えまなく矢が射掛けられ、殿軍しんがりの部隊はほとんど恐慌状態に陥っている。

 恐怖は人から人へと伝染し、その過程で際限なく膨れ上がっていく。現実には小柄な少年にすぎない赫光焉は、得体のしれない怪物へと姿を変えて、延黎国軍の将兵を脅かした。


「隊列を崩すな!! 兵力ではこちらに分がある。落ち着いて対処すれば、どうということはない!!」


 陸震の怒号もむなしく、延黎国軍はまさに崩壊しようとしていた。

 見えざる敵と炎への恐怖は、いまや全軍を支配していた。

 兵士たちは算を乱し、部隊は四分五裂して唯一の脱出路へと殺到する。

 こうなっては、もはや秩序だった撤退など望むべくもない。

 理性を失い、ひたすら活路を求めて突き進む兵士たちに、陸震の声が届くことはなかった。


 辛くも本陣を脱出した将兵は、手近な坑道へと我先になだれ込んでいった。

 狭い坑道は、たちまちに人の身体で埋め尽くされ、進むも退くもままならなくなった。

 押し潰され、踏みつけられた兵士たちの悲痛な呻き声は、時をおかずに断末魔の絶叫に変わった。

 昴帝国軍の騎兵が坑道めがけて猛然と火矢を射掛けたのだ。

 坑道内に詰め込まれた延黎国の兵士たちは、互いが互いを縛り付ける鎖となって、なすすべもなく焼殺されていった。かろうじて猛火を免れた兵士も、酸欠によって苦しみながら絶命したのである。


 肉の焼け焦げる臭気が壺埋洞に充満した。

 延黎国軍一万の将兵は、そのほとんどが坑道の内部で潰滅したのだった。

 それも、敵と戦わずして、むざむざと自滅に追いやられたのである。

 愕然と膝を突いた陸震は、声にならぬ声を漏らした。

 周囲を見渡せば、残っている部下は五十人にも満たない。


 国王から預かった貴重な戦力。

 名将・陸芳の畢生の大計を支えるはずだった兵たち。

 そのことごとくが一夜にして失われた。

 それはとりもなおさず、鶯鳴関の戦線が完全に崩壊したことを意味する。

 動かしがたい事実を突きつけられた陸震は、黒煙がたなびく夜空を仰いだ。


 気づけば、炎を透かして人馬の影が浮かび上がっている。

 昴帝国軍の騎兵だ。

 朱英に率いられた百騎は、ほとんど損害らしい損害も受けないまま、わずか半刻(一時間)にも満たない短時間のうちに延黎国軍を全滅に追い込んだのだ。

 騎兵の中央に朱英らしき将軍の姿を認めて、陸震は納得したように瞼を閉ざした。


「私は凡将にすらなれなかったか――――」


 自嘲するみたいに言って、陸震は佩剣に手を伸ばす。

 首筋に刃を当て、自刎しようとしたその瞬間、その身体をおびただしい数の矢が貫いた。

 敗軍の将には、誇りある死さえ許されないのか。非道な仕打ちへの怒りが沸き起こらなかったのは、それが妥当と思えるほどの完敗を喫したがゆえだ。

 最期に陸震の意識を占めたのは、敬愛してやまない兄の横顔だった。



 

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