第67話 侵掠(三)

 濃墨を流したような闇が天地を塗り潰していた。

 蕭々と降るかすかな星明りのほかには、行く手には一燈の灯りさえ見当たらない。

 朱英に率いられた百騎は、崖沿いの道をしずしずと進んでいた。

 すれ違うことも困難な隘路である。右手には荒々しい岩壁がそびえ立ち、左手には昼なお暗い峡谷が口を開けている。

 すこしでも手綱を誤ればたちまち谷底に転落する難所を、ここまでひとりの脱落者もなく通過してきたのは、人馬の高い練度のためだけではない。


 ただひとりの徒歩かちの兵士――赫光焉かくこうえんが後続の騎兵を先導し、安全に通行するための道筋を示し続けたためだ。

 赫光焉があらかじめ地面につけておいた目印に沿って進めば、ふいの落石や崩落に巻き込まれることはない。

 咫尺を弁ぜぬ暗闇のただなかを、赤髪の少年は躊躇いなく先へ先へと駆け抜けていく。


(あの蛮族の小僧、ただ者ではない……)


 当初は軽蔑を隠そうとしなかった鍾離且しょうりかつも、ここに至って認識を改めざるをえなかった。

 武門の家に生まれた鍾離且にとって、乗馬は幼少のころから打ち込んできた技芸のひとつである。

 それでも、ここまで狭隘な道を通行した経験は一度もなく、ましてろくに視界が利かない夜間ともなれば、断崖から転落する危険も充分にあった。

 もし赫光焉の先導がなければ、無事にここまで来られたかどうか。

 後方で殿しんがりを務める蒯超も、その点に関しては鍾離且と意見を同じくしているはずであった。


 人馬は粛々と前進し、すでに道程は半ばを過ぎようとしている。

 出陣前に朱英が語ったところによれば、この道の先には古い坑口が存在するという。

 打ち捨てられた坑道は、地中深くで他の坑道と交差し、蟻の巣にも似た複雑怪奇な地下構造を作り上げている。

 坑道は新たに開通することもあれば、さまざまな理由で閉鎖されることもある。

 生物の内臓にも似た地下構造は、たえまなくその構造を変え、ひとときとして安定することはない。

 その全貌を完全に把握しているのは、この地で鉱物の採掘に携わってきたひとにぎりの職能集団だけだ。歴代の延黎国王の庇護下にあって、さまざまな恩恵と特権を享受してきた彼らは、一朝事あれば国軍に加わり、王の恩義に報いるのである。


 おなじ延黎国の人間でさえ、彼らの案内なしに坑道内に足を踏み入れれば、ふたたび地上に還ることは出来なくなる。

 いわんや、中原で生まれ育ったボウ帝国の兵士たちにとって、山中に張り巡らされた坑道は死の迷宮にほかならなかった。

 朱英は精鋭百騎を率いてその坑道内に突入し、敵の策源地を強襲しようというのである。


――あまりにも無謀すぎる。


 鍾離且の胸中に沸き起こった感情は、恐れというよりはむしろ呆れに近かった。

 秘匿性を保つため、少数精鋭で作戦を決行するところまではいい。問題は、地図もなしに坑道内に立ち入ろうという点だ。

 坑道に入ったが最期、部隊はたちまちに方角を見失い、敵と戦わずして全滅するだろう。

 作戦への疑問を投げかけた鍾離且にたいして、朱英は、


――私は勝ち目のない戦はしない。


 とだけ言って、戦評定を早々に切り上げた。

 鍾離且はいまさら辞退することも出来ず、ままよと愛馬にまたがり、隊列の中ほどで各小隊の引率に当たったのだった。

 夜の山道を進むという困難な任務にもかかわらず、将兵の顔に不安の色はない。

 彼らが絶大な信頼を寄せている朱英に加えて、四驍将の二人までもが同行していることが、部隊の士気を高揚させているのだ。

 最初はほとんど捨て鉢だった鍾離且も、ここまでの道中でようやく落ち着きを取り戻しつつあった。


(あの蛮族の小僧が導いてくれるなら、勝算もあるかもしれん……)


 そうするうちに、崖沿いの道は終点に差し掛かろうとしていた。

 やがて彼らの前に現れたのは、一寸先も見通せないほどの闇を湛えた洞穴であった。

 

***


「昴帝国の本陣に動きがあっただと?」


 男は木簡に走らせていた筆を硯に置くと、いぶかしげに問うた。

 帷幄の内部である。蝋燭の仄明かりに照らし出されたのは、二十代も半ばをすぎた屈強な偉丈夫と、その部下らしい甲冑姿の男であった。


「先ほど帰還した斥候の報告によれば、敵は本陣に騎兵を続々と集結させているとのことです」

「して、その数は?」

「多くとも百ほど。いかがなされますか、陸震りくしんどの?」


 陸震と呼ばれた男は、しばらく逡巡したあと、


「それしきの敵、捨て置くがよい。この地勢では騎兵など役に立たぬことは朱英も十分承知しているはず。各隊に伝令を送り、くれぐれも敵の挑発に乗らぬよう伝えよ。うかつに仕掛ければ、ここまで苦心して整えたがすべて台無しになる」


 とだけ言って、ふたたび木簡に筆を走らせはじめた。


 鶯鳴関おうめいかんの守将である陸震りくしんは、延黎国の軍事を司る陸芳りくほうの実弟である。

 かつて鳳苑国ほうえんこくに仕えていた兄弟は、昴帝国によって祖国が滅ぼされると、部下を引き連れて延黎国へと亡命した。

 国許に残った一族は国王と運命を共にし、鳳苑国きっての名門として栄えた陸氏は、いまや彼ら二人を残すだけとなっている。


 司馬準しばじゅんとともに鳳苑国の双璧と讃えられた兄・陸芳にたいして、陸震の評判はけっして高くない。

 魁偉な肉体に恵まれた一方、兄ほどのすぐれた用兵の才は持ち合わせていなかったためだ。


――兄とは似ても似つかない凡将。

――兄は麒麟だが、弟は取るに足らない駑馬どばにすぎない。


 周囲の人々が囁きあった心ない言葉は、兄弟のあいだに横たわる埋めがたい才能の差でもあった。


 それでも、陸震は倦まず恨まず、無心におのれを鍛え続けた。

 どれほど努力を重ねても、兄に比肩する才智は得べくもないことは、彼自身が誰よりもよく分かっていた。

 すべては攻守ともにそつなくこなし、兄の戦略を忠実に遂行するとなるために。

 陸震が頭角を現したのは、皮肉にも鳳苑国が崩壊する間際のことであった。

 それから二年あまりが経ったいま、陸震は名実ともに陸芳の右腕として重用されている。


 陸震の役割は、兄の補佐役だけに留まらない。

 総司令官として王都・延封えんふうを離れられない陸芳に代わって、今日まで戦の指揮を担ってきたのは陸震なのである。

 意図的に敗北と撤退を繰り返し、隘路ボトルネックである鶯鳴関まで昴帝国軍を釣り出す戦略は陸芳の発案によるものだが、陸震という実践者を得なければ、それも机上の空論に終始したはずだった。


 いま、陸震が懸命にしたためているのは、日々の戦況を記した報告書だ。

 前線から定期的に送られてくる敵の動向、戦力の配置状況などの情報を陸震みずから事細かに分析・記録し、兄の元へ送るのである。

 その数は膨大な量にのぼり、夜を徹して作成にあたることも珍しくなかった。

 それでも、けっして部下に任せようとしないのは、記録の改竄や捏造を防止するためだけではない。

 兄に代わって指揮を執るだけでなく、その眼となり耳となって戦場の様子をつぶさに伝えることは、陸震が自分自身に課した重要な使命でもあった。


 ようやく最後の報告書を仕上げた陸震は、天を仰いでまぶたを閉じた。


(敵の騎兵か――)


 気にならないと言えば嘘になる。

 それにしても、わずか百騎の騎兵で何をしようというのか。

 このあたりの山道は細く、地面は脆い。騎兵や戦車はむろん、歩兵でさえ街道以外の通行には難渋するのである。

 山中に張り巡らされた坑道を逆用しようにも、昴帝国軍は坑道内の地図を持っていない。

 朱英と柳機はどちらも七国きっての名将である。敵味方の双方が知恵の限りを尽くす戦場において、よもや無意味な行動に出るとは思えない。

 となれば、延黎国軍の動揺を誘うためにわざと使い道のない騎兵を集め、示威行動に出たと考えるのが自然だ。

 

(本当にそれだけだろうか……)


 小手調べに攻撃を仕掛け、敵の出方を探ってみるか。

 ほんの一瞬、脳裏をよぎった誘惑を、陸震は即座に打ち消した。

 ただでさえ延黎国軍の兵力は少ないのである。効果も定かではない作戦を行う余裕はない。

 陸震は傍らの文箱ふばこに手を伸ばすと、一片の木簡を取り出した。

 王都を出陣するにあたって、陸芳から直接手渡されたものだ。

 記されていたのは、わずかにふた文字。


――堅守。


 兄の言わんとしていることは、陸震にも分かっている。

 何があろうと、この地を守り抜く。

 武勇に驕らず、小手先の知略を弄することなく、ひたすら木鶏もっけいのごとく守勢に徹する。

 凡将にすぎない自分が多士済々たる昴帝国軍と渡り合う唯一の方策を、兄は戒めとともに教えてくれたのだ。

 そうして一日また一日と時間を稼いでいるうちに、昴帝国軍はひとりでに摩滅していく。

 今後の戦の趨勢は、鶯鳴関ここでどれだけ敵を消耗させられるかにかかっていると言っても過言ではない。

 いますべきことは、味方の士気を維持し、敵の威勢をすこしでも削ぎ落とすことなのだ。

 あくまで愚直に、勝利のために必要な布石を一つずつ積み重ねていく。

 それこそが、自分を信じてこの戦場を任せてくれた兄・陸芳の期待に応えるただひとつの方法であるはずだった。


 わずかな時間が流れた。

 陸震はやおら腰を上げると、指揮杖に手を伸ばす。

 若き指揮官は、麾下の将兵を視察するために、帷幄の外へと一歩を踏み出していた。


***


 昴帝国軍の百騎は、細長い隊列を組んで前進を続けていた。

 かなりの深度に達しているはずだが、不思議と息苦しさはない。

 ほんのかすかだが、坑道内には風が還流しているのだ。

 常人には決して感じることの出来ない微妙な空気の流れも、赫光焉ははっきりと把握しているらしい。

 三叉路、あるいはそれ以上に複雑な分岐に出くわしても、少年は迷うことなく正しい方向へ部隊を導いてきた。


「奴のおかげで迷わずに済みそうですな――」


 鍾離且は朱英の真横に馬を寄せると、声を潜めて言った。

 朱英は視線を前方に向けたまま、ちいさく肯んじただけだ。


 赫光焉は、ただ一行の案内役を務めたばかりではない。

 坑道に入ってまもなく、朱英らは哨戒中の敵小隊と遭遇している。

 坑道内に敵はいないと安心しきっていた延黎国軍の兵士たちは、前触れもなく出現した昴帝国軍の騎兵に度肝を抜かれ、蜘蛛の子を散らすように逃走していった。

 朱英が攻撃を命じるまえに、赫光焉は電閃のごとく疾駆していた。

 長大な山刀を抜き放った少年は、赤髪をなびかせながら、逃げる敵兵を次々に仕留めていった。

 最後の一人が倒れるまで、絶叫はとうとう上がらなかった。

 延黎国の兵士たちは、断末魔を上げることさえ許されなかったのだ。


――私の命令を待たずに勝手な真似をするな、赫光焉。


 低い声で咎めた朱英を、赫光焉は不思議そうに見つめ返した。


――おれが殺さなければ、エイが死んだ。


 赫光焉はこともなげに言って、血払いをした山刀を背中の鞘に戻す。

 朱英の知るかぎり、赫光焉が言葉らしい言葉を発したのは、このときが初めてだった。

 鬼神のごとき戦いぶりとは裏腹に、その声はあどけなさを残している。

 化生ばけものが人の言葉を話しているような印象を受けるのは、あながち錯覚ではあるまい。


――シュテツはおれに言った。”エイを死なせるな”と。おれは、そのためにここにいる。


 足元に横たわる無残な死体には目もくれず、赫光焉はさっさと歩き出していた。

 幸いと言うべきか、それから敵部隊とは一度も遭遇していない。

 たんなる偶然とは思えなかった。

 もし本陣への通報を許していれば、今ごろは敵の待ち伏せを受けていたにちがいない。


 赫光焉に救われた――。

 それは、朱英が誰よりもよく分かっている。

 朱英の胸に去来した困惑にも似た感情は、義兄あにがそこまで自分の身を案じていたと知ったためであった。

 と、先頭を進んでいた赫光焉がふいに立ち止まった

 

「どうした、赫光焉」

「風向きが変わった。……人の匂いがする」


 何事かと身を乗り出した鍾離且を、朱英は片手で制した。

 赫光焉が耳をそばだてているのに気づいたためだ。


「間違いない――この先に


 ふたたび歩き出した赫光焉に従って進むうちに、闇に閉ざされた坑道の奥が仄仄と白みはじめた。

 朝焼けではない。夜明けまでにはまだ一刻(二時間)ほどあるはずだった。

 朱英は部隊を停止させ、鍾離且と蒯超を呼び寄せると、赫光焉を先頭に気配を殺して前進する。

 やがて、坑道はふっつりと断ち切られたみたいに終点を迎えた。地面は、ある地点を境に急角度の斜面となってへと落ち込んでいる。

 激しい風が頬を叩いた。頭上には満天の星空がある。


「これは――」


 三人の将軍が一様に目を見開いたのも無理はない。

 朱英たちの前に広がっていたのは、山中に穿たれた巨大な竪穴たてあなだ。

 その底には、数百もの天幕が整然と立ち並んでいる。

 ひときわ巨大な帷幄の頂点で、翩翻と風にたなびくのは、延黎国軍の牙旗(大将の旗印)であった。


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