第40話 岐路(四)
長い祈りを終えて、黎興は顔を上げた。
早朝の祈祷は黎興の日課である。日が昇るまえに目覚め、王宮の一角に建つ荘厳な宗廟に入る。
即位してから現在まで、若き王は一日として祈りを欠かしたことはない。
骨まで凍るような
父王の喪に服しているというのは、あくまで建前である。
黎興が熱心に祈りを捧げているのは、亡き妹と、兄と慕っていた鳳苑国王・苑資の魂を弔うためであった。
(皆の仇はきっと取ってみせる――)
誓いもあらたに宗廟を出た黎興は、朝の光に目を細めた。
王宮のなかでもひときわ高い場所にある宗廟からは、城壁の向こう側までも見晴かすことが出来る。
はるかに連なる青い稜線の彼方には、真夏でも白雪を戴く最果ての霊峰――
延黎国の王都・
国家の中枢である王都がこれほど守りを重視しているのは、むろん故なきことではない。
七国で最も西に位置する延黎国は、これまで幾度となく他国の侵略を受けてきた。
けっして豊かとは言えない辺境の小国だが、領内には豊富な鉱物資源が存在し、金の採掘量に至ってはただ一国で中原のすべての国々を凌駕しているほどなのだ。
磊々たる山脈が縦横に走り、昼なお闇を抱く深い谷がそこかしこに口を開ける延黎国は、まさしく天然の要害というべき地勢に恵まれている。
それでも、数十万の大軍勢に攻め込まれ、国土の大部分が敵の手に落ちたことも一度や二度ではない。
国が窮地に追い込まれるたび、人々は国王とともにこの
歴代の国王によって増改築が繰り返された城壁は、いまや三層にまで達し、遠目にはほとんど独立した要塞のようにみえる。
城内には籠城に備えて深い井戸がいくつも掘られ、王宮の食料庫には全国民を一年のあいだ養っていくだけの備蓄がある。
たとえ百万の軍勢に包囲されたとしても、延封は耐えきってみせるはずであった。
「ここにおられましたか、陛下」
中庭を歩いていた黎興は、ふいに声をかけられて立ち止まった。
振り返れば、壮年の男がひとり歩いてくる。
頭には白いものが目立つものの、顔はそれほど老け込んではいない。肌艶のよさを見るに、まだ五十歳にはなっていないだろう。
深藍色の上品な官服をまとっているが、その魁夷な身体つきは服の上からも見て取れる。はちきれんばかりに盛り上がった両肩の筋肉は、男がただの官吏ではないことを雄弁に物語っていた。
「これは
「毎朝の熱心なご祈祷、亡きお父上もきっとお喜びになっていることでしょう」
「なんの……まだ先王が崩御なされてから半年しか経っておらぬ。私は息子として当然のことをしているまでだ」
我ながら白々しいと思いながら、黎興はそっけなく答える。
「陸芳殿こそ、朝早くから尋ねてくるとは珍しい」
「先日陛下からご下知を賜った件について、ご報告に参上しました」
「ほう……」
「歩きながらお話いたしましょう」
中庭を二人連れ立って歩きながら、陸芳は世間話でもするような調子で語り始める。
周囲には誰もいないが、だからといって油断は禁物だった。
王宮内に昴帝国の密偵が紛れ込んでいないともかぎらないのだ。朱鉄の抜け目なさを考えれば、戦に先立ってかなりの数の間者が延黎国に送り込まれていると見るのが自然でもあった。
そうでなくとも、味方に内通者がいれば、遅かれ早かれこちらの内情は敵に筒抜けになる。
王宮内で機密を守るのが困難だというのなら、いっそ重大事ほど開けた場所で話すのがいいと言い出したのは、国王である黎興だった。
「商人たちの協力によって向こう三年分の食料と武器、そして軍馬を確保する目処が立ちました。これだけあれば、敵の攻勢を防ぐには十分かと思われます」
「よくぞそれだけの物資を集めてくれた。だが、
「ご心配には及びません。
「みごとだ、陸芳殿。さすが鳳苑国きっての名将と呼ばれただけのことはあるな」
屈託のない称賛に、陸芳はわずかに表情を曇らせる。
武勇の
軍の強さで成夏国や華昌国におおきく劣後していた鳳苑国にあって、二人の将軍はまさしく双璧をなす存在だった。
昴帝国との戦で最も奮戦し、最後まで諦めることなく抗戦を続けたのも、彼らの率いる部隊だったのである。鳳苑国軍の不甲斐ない戦いぶりが天下の嘲笑の的となる一方で、二人はますます名将としての声望を高めたのだった。
それでも、祖国と主君を守れなかった負い目は、いまなお陸芳の胸にわだかまっている。
鳳苑国が昴帝国によって滅ぼされると、陸芳は部下とともに延黎国に逃れた。
名高い武将がたまさか転がり込むという奇貨を得たにもかかわらず、先の延黎国王・
それどころか、黎欣は陸芳の亡命の申し出を拒否し、ただちに国外に退去するように命じたのだった。昴帝国のあまりの強さに衝撃を受けた彼は、鳳苑国の遺臣を匿って朱鉄の怒りを買うことを恐れたのだ。
それもただ追い出すだけでは飽き足らず、三日以内に立ち去らねば討伐軍を差し向けると脅しつけたのである。
いよいよ行き場を失った陸芳に救いの手を差し伸べたのは、当時まだ王太子だった黎興であった。
陸芳は名を変えて黎興の
「我が国王よ。昴帝国はわずかな期間で版図を広げたといえども、天下の民は朱鉄の酷薄なやり方を認めた訳ではございません」
「そこに我らの勝機があるというのだな」
「いかにも――あなたは天下の
「苑資殿もそうなることを志したが、ついに叶わなかった」
「あの御方は天運に恵まれなかったのです。しかし、あなたは違う」
主君の不安をかき消すように、陸芳は力強く言い切る。
「三年です。三年耐えきれば、昴帝国はかならず内側から崩れ去ります」
「確証はあるのか、陸芳殿」
「かの国の発展を支えているのは何かをお考えになっていただきたい。それは疾さです。電光石火の
「三年のあいだ我らが耐えきれば、奴らの最大の武器である疾さを殺すことが出来る……と?」
「仰せのとおりにございます。あやつらの勢いがしょせん虚仮威しにすぎないことが白日の下に曝されれば、いまは日和見をしている他の国々もきっと態度を変えるでしょう。亡き鳳苑国王が夢見た大同盟を実現するためには、敵の化けの皮を剥いでやらねばなりません」
陸芳は黎興をまっすぐ見据え、決然と言い放つ。
その瞳を充たすのは、穏やかな風貌に似合わぬ凄絶な鬼気であった。
背筋にぞくりと寒気を覚えて、黎興はおもわず後じさっていた。
「私は本来なら祖国と運命を共にするはずでした。それが陛下の庇護を受けて今日まで露命をつなぎ、こうして復仇の機会までも与えられたのは、天が私に朱鉄を討てと命じているということです」
「天命は我らとともにあるということか――」
「すでに成夏国と鳳苑国の旧臣に密使を送っております。国は滅びたといえども、忠義の士が死に絶えた訳ではありません。機が熟したと知れば、かならず王を助けるために立ってくれることでしょう」
淀みなく語る陸芳に、黎興はただ肯んずることしか出来ない。
再戦を前に陸芳の心はかつてなく昂ぶり、冷静な智将らしからぬ熱弁を振るわせているのだ。
しばらく歩いたところで、黎興はふと思いついたようにこんなことを口にした。
「そういえば、前にこんな噂を聞いたことがある。……成夏王の一族は朱鉄によってことごとく根絶やしにされたが、王の末娘である夏凛王女だけはいまも生き延びていると。もし成夏国の血を引く王女を迎えることが出来たなら、我らの大義はますます盤石となるだろうな」
「残念ですが、それは難しいでしょう――」
陸芳はゆるゆると首を横に振る。
その瞳に一瞬失望の色が浮かんだことに、黎興は気づかなかった。
「噂はしょせん噂です。そんなものを信じたところで、いいように振り回されるのが関の山というものです。仮に生きていたとしても、いまどこにいるかも定かではない王女を我が方に迎え入れるのは、現実的な手とは申せません」
「そうだろうか……」
「王女のことはひとまず忘れ、いまは目の前の戦に集中なされよ。王の心が揺らいでは、国全体の士気にも関わります」
なるほど、陸芳の言うことはもっともであった。
死んだはずの王女が生きているとは、まさしく雲を掴むような話である。
いまなお成夏王家の滅亡という現実を受け入れられない者が、自身の希望をまことしやかに語っただけかもしれないのだ。
昴帝国との戦は間近に迫っている。朱鉄はすでに延黎国討伐を表明し、もともと疎遠になりつつあった両国の国交は完全に断絶している。
わずかな手がかりを元に消息不明の王女を探し出し、延黎国まで連れてくるだけの猶予は、もはや残されていない。
この戦の勝敗によって、天下の趨勢はおおきく変化することになる。
動機はどうあれ、もはや事態はたんなる仇討ちの次元を越えている。自分が歴史の岐路に立っているという実感に、若き王は身震いがする思いだった。
黎興はかたく唇を結ぶと、雑念を振り切るように一歩を踏み出していた。
***
「……くしゅん」
鼻腔のむずがゆさに気がついたときには、もう手遅れだった。
夏凛は今さらながらに袖で顔を覆うと、恥ずかしそうに鼻頭をなでる。
馬車の車輪の音に紛れて聞こえなかったかもしれない――そんな淡い期待は、あっけなく打ち砕かれた。
「なんだい、あんた、風邪でも引いたのかい?」
御者台に腰掛けた恰幅のいい農婦は、猪首を曲げて荷台を見やる。
いかにも人の好さそうな丸顔には、すこしだけ意地悪そうな笑みが浮かんでいる。
街の商店に卸すのだという新鮮な野菜や、さまざまな竹細工の品々に埋もれるように座った夏凛は、照れくさそうにはにかんでみせる。
「ううん、平気よ。ちょっとくしゃみが出ただけ」
「たぶんどこかであんたの噂をしている人がいたんだねえ」
「そうなの?」
「知らなかったのかい。
自分の言葉が笑壺に入ったのか、農婦は夏凛そっちのけで陽気な笑い声を上げる。
夏凛と農婦が知り合ったのは、ほんの数時間前のこと。
街道をひとりでとぼとぼと歩いていた夏凛に、近くの街まで乗っていかないかと声をかけたのである。
「……たぶん、あんまりいい噂じゃないわ」
「どうして?」
「自分でも分からないけど、なんとなくそう思っただけ。……おばさん、乗せてくれてありがとう。私、ここから歩くわ」
「いいのかい?
「本当に大丈夫――何もお礼出来なくってごめんなさい」
夏凛はぺこりと頭を下げると、すばやく荷台から飛び降りていた。
素性を隠しているとはいえ、なにがきっかけで正体が露見するか知れないのだ。
自分が捕らえられるだけならまだいいが、もしそうなれば同行者も厳しい取り調べを受けることになる。
何も知らない親切なおばさんとは、何も知らないまま別れるのがいい。
素性を明かしたところで、いいことなど何ひとつありはしないのだから。
それも無理からぬことだった。夏凛にとってここは相変わらず敵地であり、気を緩めることは死に直結する。
華昌国の人々は成夏国を憎んでいる――。
それはかつて成夏国の軍勢に国土を蹂躙されたためであり、国王・
王宮育ちで世情に疎い夏凛でさえ、その程度のことは知っているのだ。
成夏国はすでに滅び去ったとはいえ、人の心に根ざした感情はそう簡単に払拭出来るものではない。
もし成夏国の王女だと知っていたら、あの農婦も夏凛を助ける気にはならなかっただろう。
だから、誰にも知られることなく、影のように華昌国を後にしなければならない。
華昌国は雪国である。冬ともなれば毎年のように豪雪に見舞われ、人も馬も身動きが取れなくなる。
夏のあいだに北方の沙蘭国まで辿り着くためには、ともかく先を急がねばならない。
(そう……このさきも、ずっと私ひとりだけで……)
そのことを思うたび、夏凛は胸が締め付けられそうになる。
どんなときも傍らに寄り添い、守ってくれたあの人はもういない。
これからは誰に頼ることもなく、長い長い道のりを旅していかねばならない。
夏凛は涙をこらえながら、背中に忍ばせた長剣にそっと触れる。
道の彼方から野太い悲鳴が聞こえてきたのはそのときだった。
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