第39話 岐路(三)

 昼までの長雨が嘘のような月夜であった。

 成陽市中に数多く存在する酒楼しゅろうのなかでも、ここ東梅閣とうばいかくは最も高級な店として知られている。

 今夜、庭園に建てられた別館を一棟まるごと貸し切ったのは、四驍将しぎょうしょうの面々である。

 それぞれ成陽には私邸を構えているが、四人が一堂に会する際にはこの店を用いるのが成夏国時代からのならわしだった。


「まったく解せぬことよ――」


 鍾離且しょうりかつと盃器をあおると、酒臭い呼気を吐き出した。

 若いころから死線をくぐってきただけあって、その重厚な佇まいは三十四歳とは思えない。四驍将一の巨体は、いまや耳の先まで朱を注いだようになっている。

 隣に座った漢銀かんぎんは、たがが外れたような暴飲ぶりに顔をしかめつつ、横目でちらりと鍾離且を見やる。


「いったい何の話だ、且」

「ふん、おぬしらも分かっていようが。太元帥たいげんすい閣下のあの煮えきらぬ態度よ」


 にわかに一座の空気が張り詰めた。

 太元帥――朱英は、彼ら四驍将にとって上司にあたる。

 その批判を堂々と口にするのは、いかに内々の宴席といえども許されることではない。


「あれで常勝将軍とは聞いてあきれる。まことの武人ならば、いくさと聞けば矢も盾もたまらず奮い立つものだ。それがどうだ、今日の太元帥はまるで女子おなごのようであった」

「よさんか!! いくら酔っているからといって、言っていいことと悪いことがあるぞ!!」

「告げ口をするつもりか、仲仁ちゅうじん。そうしたいなら好きにせい。俺は一向に構わんぞ」


 漢銀をあざなで呼ばわった鍾離且は、不貞腐れたように酒をあおる。

 冷静な漢銀と、猪突猛進を絵に描いたような鍾離且は、昔から不思議と馬が合う。

 どちらも成夏国の軍事貴族の家柄に生まれ、少年時代から柳機のもとで軍人としての経歴キャリアを積んできた二人である。

 血の気の多い鍾離且が暴走しそうになるたび、漢銀が抑え役に回るのはいつものことであった。


「たかだか延黎国えんれいこくごときに恐れをなすとは、まったく情けない。あれしきの敵、ひと呑みにしてやる程度のことは言えぬのか」

「はたして、そうでしょうか――」


 ぽつりと口にしたのは、黄武おうぶだった。

 四人のなかで最年少の将軍は、鍾離且と向かい合うように座っている。

 他の三人とは異なり、彼は南方の玄武国げんぶこくの出身である。諸国を渡り歩いたすえに成夏国に召し抱えられ、数々の武功を立てたことで現在の地位にまで昇りつめた生粋の叩き上げであった。

 酒気によって血の巡りが活発になったためだろう、額に刻まれた横一文字の古傷は薄紅色に染まり、精悍な顔のなかにくっきりと浮き上がっている。


「黄武、何が言いたい?」

「太元帥閣下ほどの御方が臆病ゆえに戦を厭うているとは思えません」

「あれが臆しているのでなければ、いったい何だというのだ?」

「千軍万馬を指揮する将帥ともなれば、ただ勢い任せに敵に向かっていくばかりが勇気でもないでしょう。敵を侮ってかかるよりはよほど賢明だ」


 そっけない黄武の言葉に、鍾離且の額にみるみる青筋が浮き上がっていく。

 同格のともがらとはいえ、黄武のほうが五歳年下なのである。

 若輩者に面と向かって異論を唱えられては、年長者としての沽券にかかわる。

 剣呑な雰囲気が場を覆っていく。どちらも丸腰だが、いつ掴み合いが始まってもおかしくない。


「私も黄武と同意見だ」


 一触即発というところで、横手から口を挟んだのは蒯超かいちょうであった。

 他の面々に劣らず……それどころか、人一倍多くの盃を重ねながら、その顔にはわずかな紅みも差していない。

 血腥ちなまぐさい戦場の只中だろうと、酒宴の席上だろうと、この男の表情はつねに不変なのだ。

 由緒ある神官の家の生まれだというが、詳しいことは四驍将の面々でさえ知らない。

 というよりは、誰も出自に興味を示さなかったと言うべきだろう。

 武人にとって重要なのは、家柄や血筋ではなく能力である。その点に関していえば、蒯超は他の三人とおなじく超一流の武将であった。

 黄武と鍾離且をそれぞれ一瞥して、蒯超は悠揚と盃を飲み干す。

 どこか浮世離れしたその佇まいを前にして、一度は頭に血が上りかけていた鍾離且も落ち着きを取り戻したようであった。


「貴様もその若造の肩を持つというのか、蒯超」

「言葉に同意したというだけのこと……どちらかの肩を持ったつもりはない」

「同じことではないか」

「そう思うなら、好きにするがいい。自分から敵を増やすというなら、止めはしない」


 と、離れの出入り口に気配が生じたのはそのときだった。

 八つの視線が一点に収束する。この場にいる全員が歴戦の武人であることを考えれば、気配を殺してこの距離まで接近するのは至難の業であるはずだった。

 そのような芸当が出来る人間は、昴帝国にも二人といない。


明達みょうたつよ、どうやら一本取られたようだのお」

「柳機大将軍――」

「ふん、水臭い呼び方をするでないわ。堅苦しい挨拶もいらぬぞ」


 明達とは、鍾離且のあざなである。

 一人の従卒も引き連れずにふらりと座敷に上がり込んだ柳機は、四人の輪に割り込むようにどっかりと腰を下ろすと、酒器と盃を無造作に掴み取る。

 手酌で酒を注ぎはじめた柳機に、おそるおそる声をかけたのは漢銀だった。


大将軍オヤジ殿、なぜここに……?」

「まるで来てはならぬような口ぶりだな、仲仁」

「滅相もありません――」

「おまえたちが儂を差し置いて美味い酒を飲んでおると小耳に挟んだのでな。こうしてに預かりに来たというわけだ」


 柳機は呵呵と大笑すると、一座をぐるりと見回す。

 いずれ劣らぬ剛勇をほこる四将も、戦歴五十有余年になんなんとする偉大な先達の前では少年に戻ったようであった。

 どの顔からも酔気は抜けきり、まるで授業を受ける生徒みたいに行儀よく端座している。


「おまえたち、亮善りょうぜんのことが気になるか」

「それは……」

「隠さずともよい。儂を誰だと思っておる。おまえたち小童こわっぱの考えておることくらい分からいで、どうして大将軍が務まろうか」


 鍾離且はわずかな逡巡のあと、震える声で問いかけた。


「ならば、言わせていただきます――我らはともかく、なぜ大将軍まであの男の下につかねばならないのですか」

「儂が亮善の下に置かれているのが不服か?」

「当たり前です。本来なら、あなたが太元帥として全軍を率いるべきではありませんか。いくら皇帝陛下の義弟おとうととはいえ、納得がいきません」


 切々と訴える鍾離且に、柳機はくっくと忍び笑いを漏らす。

 怪訝そうに見つめる四人をよそに、老将軍はいかにも美味そうに酒を飲み干すと、ほうと長い息を吐いた。


「本当はな、太元帥には亮善ではなくこの儂が就任する予定であった」

「では、なぜ――」

「決まっておろう。儂が辞退したからよ」


 あっけに取られたように目を見開いた鍾離且にむかって、柳機はにんまりと相好を崩してみせる。


「どうした、言いたいことがあるならはっきり申してみい」

「俺には大将軍オヤジ殿の考えが分かりません。なぜせっかくの機会をふいに……」

「おい、儂をいくつだと思っておる。今日明日にもぽっくり死ぬかもしれん老骨がいつまでも上に居座っていては、それこそ天下の大迷惑というものであろうが」

「縁起でもないことを仰らないでください」

「それにな――亮善の将器は、この儂をはるかに上回っておる。能力のある者が上に立つのは、この昴帝国くにの鉄則であろうが」


 柳機はいったん言葉を切り、白く長い頬髭を指先で弄う。

 それは、この男が知恵を巡らせるときのお決まりの仕草であった。


「明達よ、亮善がなぜああまで強いか分かるか」

「いえ……」

「あやつは驕りというものを知らぬ。どれほど勝利を重ねようと、敗北を恐れる心を忘れることがない。どんな敵だろうと侮らず、いかなるときも自分の力量を過信することがない。ただ真摯に戦と向き合い、勝利だけを求めておる。そういう男だからこそ、全軍を率いる太元帥に相応しいのだ」

「我らはそうではないと……?」

「儂の見たところ、おまえたち四人の誰ひとりとして亮善には及ばぬ。つい先刻も、もしや自分が亮善の代わりに戦の全権を任されるのではないかと色めきだっていたではないか」

「軍人の道を志したからには、立身出世を望むのは当然ではありませんか」

に指揮を委ねれば、功名心のためにつまらぬ欲を出すものよ。戦場では兵を無駄に殺し、兵糧をいたずらに食いつぶすであろう。それで戦に勝てればいいが、もし勝てなんだときはどうするつもりだ」

「……そのときは、敗北の責任を取って潔く自刎じふんします」

「当人はそれで満足だろうが、残された者にとって負け犬の首級くびなど何の価値もありはせん――」


 柳機はぴしゃりと言い捨てると、ふたたび一人ひとりの顔に視線を移していく。


「時代は変わったのだ。ことさらにおのれの手柄を誇示し、他人を蹴落として出世を争う必要はない。皇帝陛下はどんなちいさな功績も見逃すことなく、懸け隔てなく評価してくださる。これより先は個人の武功に執着することなく、軍全体の勝利を第一に考えよ」

「我らに私欲を捨て、太元帥の指す駒に徹しろと……?」

鳳苑国ほうえんこくとの戦ではそうして大勝を収めたではないか」


 柳機に指摘され、鍾離且は「あっ」と驚きの声を漏らしていた。

 たしかに先の戦では、四驍将は朱英の立てた作戦案に従い、それぞれが機械的に動くことで鳳苑国軍を封殺することに成功したのだ。

 もし従来のように将軍たちが自由に采配を振るっていたなら、各部隊の連携はたちまちに崩壊し、ああまで一方的な勝利を収めることは出来なかったにちがいない。

 

「それこそが新しい時代の戦だ。我らがその嚆矢こうしとなる。儂は古い人間ゆえ、亮善ほどには私欲を捨て去ることが出来ん。手塩にかけたおまえたちを駒として扱うほどの冷酷さもない。太元帥を拝受しなかったのは、つまりはそういうことよ」


 個を捨て、全体の利益を追求する――それは軍事だけでなく、昴帝国のあらゆる分野に通底する原理だった。

 その思想は、しかし、個人やその家門に重きを置く七国しちこくの伝統的な価値観とは相容れないものだ。

 事実、この二年あまりのあいだに昴帝国が目を見張るほどの発展を遂げる一方で、朱鉄に対する不満の声も無視出来ないほどに大きくなっている。

 延黎国えんれいこくに財産を移した商人たちはその最たるものだ。

 商人は個を重んじ、個の利益を求める。商いによって稼ぎ出した利益は、あくまで個人のものであるという強固な信念がある。

 どれほど豊かな市場を抱えていたとしても、全体が個に優先する国家に馴染むはずがないのだ。

 表立って動いた商人たちは、あくまで氷山の一角にすぎない。

 朱鉄のやり方に反感を持つ人々が陰に陽に延黎国を支援しているとなれば、もはや事態は中原の大国が辺境の小国を征伐するという単純な話ではなくなる。


「次の戦は、我らにとって分水嶺となろうのう――」


 昴帝国が戦うのは、現実の延黎国ではない。

 七国の旧体制そのものだ。七百年の長きに渡って続いた歴史と伝統を破壊出来なければ、朱鉄の革命はそこで頓挫する。

 来るべき戦は、両国の軍事力の衝突であると同時に、新旧の思想の戦いでもあるのだ。

 そのような戦いで諸将が個人的な手柄に拘泥することは、利敵行為にも等しい。

 まして朱英を妬み、その足を引っ張ろうとするなどは言語道断である。

 柳機が言わんとしていることを、鍾離且もようやく理解したようであった。


大将軍オヤジ殿、我らは……」

「なにを暗い顔をしておる。今日のところは存分に楽しむがいい。戦が始まれば、酒も女も当分お預けだぞ。死ぬ間際になってから悔やみたくはなかろうが」


 豪快な笑声とともに、柳機は盃器を高々と掲げる。

 それを追うようにして四本の腕が上がり、乾いた音が座敷に鳴り渡った。

 盃を重ね合い、将軍たちの夜は更けていく。

 皇帝・朱鉄が延黎国討伐の勅令みことのりを発したのは、この四日後のことであった。

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