第38話 岐路(二)

「李旺が――」


 それだけ呟いて、朱英は黙り込んだ。

 広々とした謁見の間には朱鉄と朱英のほかには誰もいない。

 本来であればつねに皇帝の傍らに控えているはずの近衛兵でさえ、いまは一人残らず遠ざけられている。

 ほんのすこし前、ただひとりで謁見の間に招き入れられた朱英は、朱鉄からじきじきに沢鹿たくろくで起こった事件の顛末を聞かされたのだった。


「王女は……夏凛はどうなったのですか。奴が王女のそばを離れるはずはありません。かならず近くにいたはずです」

ということだ」


 朱鉄の返答はあくまでそっけない。

 あと一歩というところで二年間追ってきた王女を取り逃がした悔しさも、作戦を指揮した益城えきじょう太守の不甲斐なさへの怒りも、その言葉からは読み取ることは出来ない。

 王女がひそかに生き延びていたという一報も、朱鉄の心にはなんの感慨ももたらさなかったはずだった。


「まだ生きているとすれば、最後の護衛を失い、とうとう王女は一人になったということだ」

「皇帝陛下、わざわざそれをお伝えになるために私を……?」

「おまえはあの李旺という若者にずいぶん目をかけていたようだからな」


 言って、朱鉄はちらと朱英を瞥見する。

 美しく冷たい瞳は、相対する者の心を隅々まで見透かすようだった。

 朱英はゆっくりと息を吸い込むと、ぽつりぽつりと語りはじめる。


「李旺は人柄も剣の腕も申し分のない男でした。いずれは私の片腕にと思っておりましたが……」

「その願いはついに叶わなかったな、英よ」

「致し方ないことです。奴が王女を連れて逃げたときから諦めはついておりました。私がどれほど強く望んだところで、奴ほどの男の意志を変えることは出来なかったでしょう」


 せめて李旺の遺体を引き取り、丁重に弔わせてほしい――喉まで出かかったその言葉を、朱英はぐっと飲み込む。

 ボウ帝国において、李旺は王女の逃亡を幇助した重罪人でしかないのだ。

 老いた養父母をはじめ、李家の一族は革命後にことごとく処刑されている。

 それも、ただ殺されたのではない。七国において最も下等な処刑方法とされている磔刑たっけいに処されたことからも分かるように、最後まで成夏王家に忠誠を捧げた一族は、朱鉄に敵対する者たちへの見せしめとされたのだった。

 朱鉄の義弟である朱英が李旺を弔うのはむろん、本来ならその死を悲しむことさえ許されないはずだった。

 やがて、朱英は決然と顔を上げると、朱鉄にむかって問うた。


「陛下――このことは、陳大卿たいけいにも?」

「どこから嗅ぎつけたのか、話すまでもなく知っていたようだ。今日あの男を召し出したのは別の用件であった」

「左様でしたか……」


 朱英は感情を表に出すことなく、あくまで事務的な受け答えに努めている。

 たとえこの場には二人だけだとしても、主君と臣下であることには変わりない。

 自分が皇帝の義弟であることを、朱英は意図して忘れ去ろうとしているようであった。


「これまでどおり王女の捜索は続けさせるつもりだ。屍体が見つかっていない以上は生きている可能性もある。無力な姫とはいえ、後顧の憂いは断たねばならん」

「沢鹿にいたのなら、すでに零河を渡って華昌国かしょうこくに逃げ延びたおそれもございます。休戦中といえども、追っ手を送り込めば彼らも黙ってはいないでしょう」

「すでに然るべき手は打ってある」


 朱英はそれ以上何も言わなかった。

 皇帝がそのように言うのであれば、臣下である朱英が口を挟む筋合いではない。

 常勝将軍として天下にその名を轟かせている朱英も、ひとたび戦場を離れればその知慮は朱鉄に及ばないのだ。

 まして、今回の一件は華昌国との外交問題にも発展しかねない火種をはらんでいる。最高権力者である朱鉄の判断を重んじるのは当然でもあった。


「畏れながら、皇帝陛下。今日ここに私をお呼び立てになったのは、王女の一件を知らせるためだけではありますまい」

「さすがだな、英よ」

「不調法者の私でも、長くお仕えしていればその程度の察しはつきます」


 朱鉄は玉座に腰掛けたまま、肘置きを指で何度か叩く。

 それが合図だったのだろう。数秒と経たぬうちに朱英の背後で扉が開け放たれた。

 戛然かつぜんたる足音を響かせて進み出てきたのは、五人ばかりの男たちであった。


「おまえたちは……」


 背後を振り返って、朱英はおもわず息を呑んでいた。


「皇帝陛下、それに太元帥閣下。大将軍・柳機りゅうきならびに四驍将しぎょうしょう、御召しにより参上いたしましたぞ」


 白髪白髯の老将軍は片膝を突くと、朱鉄と朱英にむかって拱手の礼を取る。

 背後でそれに倣った男たちは、いずれ劣らぬ武名をほこる四人の将軍――黄武おうぶ蒯超かいちょう鍾離且しょうりかつ漢銀かんぎんであった。

 つい先日七十歳を迎えた柳機に対して、四驍将の面々はいずれもまだ若い。

 最年長の漢銀でさえまだ四十になったばかり。蒯超と鍾離且はともに三十代の半ば、最年少の黄武に至っては朱英よりも一歳年少の二十九歳である。


 五人全員が軽装とはいえ甲冑を身にまとい、腰には愛用の剣を帯びている。

 王宮への武具の持ち込みが厳しく制限されていた成夏国時代とは異なり、昴帝国では戦場と同様の出で立ちで皇帝の前に出ることも許されているのだ。

 皇帝となった朱鉄はみずから率先垂範して宮廷にはびこっていた虚飾を排除し、ほかの何にも優先して実利実益を尊ぶ姿勢を強く打ち出していった。

 当初こそ不満の声も聞こえたが、それもつかのまのことだ。

 この二年あまりのあいだに成夏国の特色であった優雅な文化は失われ、いまや質実剛健な気風が国全体を覆っている。


「よくぞ参った」

「皇帝陛下のご命令とあれば、我らはどこなりと駆けつけまする」

「今日そなたらを呼び立てたのはほかでもない。次の戦について、諸将の意見を聞かんがためである」


 朱鉄はそこでいったん言葉を切り、朱英を見やる。

 努めて平静を装ってはいるが、朱英の心は激しく波立っている。

 次の戦とはいったい何のことなのか。

 つい先年鳳苑国を攻め滅ぼし、昴帝国の領土はいよいよ中原の大半に及ぼうとしているのである。

 まさか華昌国との和睦を放棄するような愚を朱鉄が犯すはずもない。北方の大国と本気で事を構えるには、帝国の地盤はまだ盤石とは言いがたいのだ。

 ならば、皇帝はどこへ矛先を向けようというのか。


「延黎国を攻める――」


 朱鉄がそう口にしたとき、広壮な謁見の間を満たしていた空気は、たちまちに凍りついたようだった。

 それでも、次の戦の相手として延黎国の名が出たことに驚いた者は一人もいない。

 朱英だけでなく、柳機と四驍将も、


――か……。


 心中でそう呟いただけであった。


 延黎国の王は、半年ほど前に代替わりしている。

 先王・黎欣れいきんが突如として世を去り、世嗣の黎興れいきょうがあらたに王位に就いたのである。

 黎欣の死からまもなく、先王は何者かの手によって暗殺されたのだというまことしやかな風聞うわさが諸国に流れたが、真相は分からない。

 ともかく、延黎国の政治は、亡き父の衣鉢を継いだ二十五歳の新王に委ねられることになった。

 黎興は夏賛かさんとともに弑逆された黎王妃の同腹どうふくの兄である。他国に嫁いだ身とはいえ、血の繋がった妹を死に追いやった朱鉄への恨みは骨髄に徹している。

 さらには鳳苑国王・苑資えんしとも従兄弟同士にあたり、二人は幼いころから実の兄弟以上の親交を結んでいた。そうした関係もあり、苑資が反昴帝国の大同盟を持ちかけた際には父王に参加を強く訴えたが、黎欣はまともに取り合おうとせず、結局延黎国は鳳苑国を見捨てる格好になったのだった。

 実妹と従兄弟を救えなかった悔恨は、登極してからも黎興の胸を去ろうとはしなかった。

 昴帝国を滅ぼす――君臣の道に背いた逆賊を倒し、天下に延黎国の正義を示す。

 血気盛んな青年王を衝き動かしているのは、ただその一念であった。

 王は国の頭脳であり、国は王の身体である。

 王があくまで強硬に自我を貫き通すなら、その意志はただちに国の動きとして反映される。

 昴帝国に服従する姿勢を示していた黎欣に対して、黎興は即位と同時に一切の献上物を打ち切り、両国の関係は日を追うごとに険悪になっていった。


 武力衝突には及んでいないものの、昴帝国と延黎国のあいだに不穏な雰囲気が漂っていることは、いまや市井の民間人にも知れ渡っている。

 とくに諸国に拠点を置く商人たちにとって、戦はどんな天災よりも恐ろしい。趨勢を見誤れば、これまで築き上げてきた全財産を失うことにもなりかねない。

 商人のなかには戦に備えて延黎国から昴帝国へと資産を移す者もいれば、その逆もいる。

 投機ギャンブルにも似た経済の動向は、水面下で始まった見えざる戦争ともいえた。

 中原の強国と辺境の小国がまともにぶつかりあえば、戦う前から結果は見えている。

 にもかかわらず――昴帝国から延黎国へと持ち出される金銀や宝玉の量は、この一月ひとつきほど増加の一途を辿っている。

 利に聡い商人たちの目には、常人とは異なる未来が見えているのか。


「延黎国王の不遜な振る舞いはもはや許しがたい。この上は兵を起こし、討伐に及ぶほかあるまい」

「お言葉ですが、陛下――延黎国は小国とはいえ、その力は侮れません。国の四方は天然の要害に守られ、さらに王都・延封えんふうは一度として陥落したことのない難攻不落の名城。いま戦を仕掛けるのは時期尚早かと存じます」

亮善りょうぜんよ。自信がないのであれば、遠慮なくそう申すがいい。他の者に任せるまでのことだ」


 すげなく言って、朱鉄は柳機と四驍将に視線を巡らせる。

 成夏国時代から名将として知られている柳機はともかく、四驍将は功績において朱英の後塵を拝しているのが実情である。

 程度の差こそあれ、四人の誰もが朱英への対抗心を抱いているのだ。

 朱英に代わって全軍の指揮を執るまたとない好機が到来したとあれば、彼らはこぞって名乗りを上げるにちがいない。

 現に鍾離且などは、ほとんど身を乗り出すように朱鉄の話に耳を傾けている。

 いかなるときも仮面のごとき無表情を崩さない蒯超や、最年長らしく冷静沈着な漢銀、名声や権力にはまるで興味を示さない筋金入りの武辺者ぶへんものの黄武でさえ、内心では朱英に取って代わることを望んでいるはずであった。

 戦において人後に落ちることをよしとしないのは、武人のさがでもある。

 朱鉄はすべてを見通したうえで、あえて朱英と四驍将とを争わせようとしているのだった。

 むろん、いたずらに臣下同士をいがみ合わせようというつもりではない。

 諸将が互いに切磋琢磨することで、よりすぐれた軍略が生まれることを期待しているのだ。


「……柳機大将軍、そなたの意見はどうか?」

「太元帥の仰せのとおり、延黎国は守るに易く攻めるに難い国。兵力に任せて攻め込んだとて、鳳苑国のようにたやすく陥落おとせるとは思えませぬ。それどころか、ことによっては予期せぬ痛手を被るおそれもあります」

「そなたも戦には反対か」

「そうは申しておりませぬ」


 柳機は顔を上げると、不敵な笑みを口辺に浮かべる。

 そして、竜の髭みたいな長い頬髭をと伸ばすと、七十という年齢を感じさせない堂々たる声で語りはじめたのだった。


「何事にも方策はあるものです。いかに延黎国の守りが堅固といえども、人間が作ったものに完璧はありえませぬ。千丈の堤も蟻の一穴いっけつから崩れ去ると申しますからな」

「勝機はあるというのだな、大将軍」

「そのためには、何はともあれ全軍が一丸となって戦に臨む必要がござる。太元帥閣下にはこれまでどおり総大将を務めていただき、我らは敵との戦いに集中すれば、かならずや延黎国を攻め滅ぼすことが出来ましょう」


 朱鉄の問いに答えながら、柳機はそれとなく朱英に目配せをする。

 かつての上役である柳機は、ほかの誰よりも朱英の才覚に惚れ込んでいる。

 みずから手塩にかけて育ててきた四驍将がいずれも朱英に及ばず、とても全軍を率いる器ではないということも、この老将は冷徹に見抜いているのだ。

 四人ともけっして凡庸な武将ではないが、それでも朱英ほどの用兵の天稟てんぴんには恵まれていない。


 先の鳳苑国との戦における大戦果にしても、朱英が立てた作戦に従ったからこそ得られたものだ。

 もし朱英がみずから囮を買って出ていなければ、鳳苑国の決死の抵抗のまえに苦戦を強いられていたであろうことは想像に難くない。

 個人的な功名心を捨て去り、ひたむきに勝利のために全身全霊をかたむける……。

 朱英の類まれな将器は、たんに用兵が巧みであるというだけでなく、無私無欲な性質によるところもおおきい。

 延黎国との戦は一筋縄ではいかない以上、全軍の指揮は是が非でも朱英に執ってもらわねばならない――柳機はそのように考えている。

 大将のよしあしは、麾下の全将兵にとってまさしく死活問題である。柳機もまた一人の軍人である以上、求めうる最良の人材を望むのは当然でもあった。


「聞いていたな、亮善」

「は……」

「私も柳機と同じ意見である。あとはそなたに引き受けるつもりがあるかどうかだ」

「陛下がお望みであれば、私は御下知に従うまでです」

「勝てるか」

「この生命に代えましても――」


 朱英は深々と頭を垂れる。

 生命に代えても――その言葉に偽りはなかった。

 初陣から今日まで、いくさに敗れたことは一度としてない。

 もし敗北の辛酸を嘗める日が来るとすれば、それはおのれの生命が尽きる時でもあるはずだった。


(生きるためには、ひたすらに勝ち続けるしかない――)


 ほどなくして謁見の間を辞した朱英は、鐘渙しょうかんとともに来た道を戻っていく。

 いま、無言のまま歩く朱英の脳裏を埋めるのは、やがて始まる戦に関することだけだ。

 不穏の土壌に撒かれた闘争の種子たねは、満を持して花開こうとしている。

 気づけばすでに雨は上がり、黄色みがかった陽光が雲間から差し込んでいる。

 ふいに吹き抜けていった初夏の風は、戦場いくさばの匂いがした。

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